第36話:ココロの魔法
真白大神との交霊を終えたレキ、クルス、フィオは地下通路を辿って地上に引き返す。
「『月が蒼に染まりしとき』とは暗喩の一種でしょうか」
「蒼い月は神々が顕現する兆しだ」
神が宿す大量の魔力が大気中に飽和する影響だとクルスは言う。
「毎晩月の色には注意しましょう」
フィオは地下通路の天井を押し上げて納屋への隠し扉を開けた。
夕食のシチューを煮込んでいる間、三人は植物に彩られる庭園で新鮮な空気を吸っていた。
外は寒くて薄暗い。陽が没するのも近かった。
フィオは花壇に咲く花の名を一輪一輪レキに教えていた。暖かい季節になれば庭はもっと花で咲き乱れるという。
二人が楽しげに会話する横で苛立たしげに靴を鳴らしていたクルスは、とうとう我慢できなくなったのか「先生」とフィオを呼び止めた。
「魔導会を放逐されたというのは本当ですか」
「……さすがクルスさん、耳ざといわね」
苦笑いでごまかしていたフィオは、詰め寄ってくるクルスの真剣なまなざしに観念して「本当よ」と白状した。
「クルスさんが魔法の実践的な修得を始めたのと同じ年、私は大魔導士の肩書きを剥奪されたの。私が単なる魔導士だったら処刑されていたでしょうね。居場所を失った私は家庭教師も辞めて同胞から逃げるように日本にやってきて、この町で隠遁生活を送りだしたの。海がきれいで気に入ったのよ」
生垣の隙間から覗ける海は灰色に濁り、冬の風を受けて荒れている。ばつが悪くなったフィオは「夏はとってもきれいなのよ」と言い訳っぽく後から付け加えた。
「追放された理由、聞きたいかしら?」
躊躇い気味に訊いてくるフィオにクルスは即座に頷く。容赦のない彼に我慢しかねて助太刀に入ろうとしたレキを、フィオはかぶりを振って抑えた。
「私は魔導会最大の禁忌に触れてしまったの」
躊躇いの後、意を決して続ける。
「死んだ夫を助けるために」
レキは仰天した。
「人を生き返らせる魔法まであるのですか!」
「人体の治癒力を促進させる治癒魔法は基礎の基礎だ。だが、傷そのものを外的な力で塞ぐ回復魔法となれば習得は極めて困難となる。まして死者の蘇生など……いや、先生なら可能なのか」
回復魔法は、かすり傷一つ治すにも莫大な魔力と練度が要求される。クルスを含め、大多数の魔導士にその適性はない。優れた魔導士の素質を有し、かつ険しい修行を耐え抜いた熟練者のみが奇跡の一端に触れるのを許される。生命の理に真っ向から逆らう蘇生の魔法となれば、神々に選定されし大魔導士をおいて扱える者は皆無。絶対なる禁忌。
シグマとの戦いで禍我の檻に落ちたとき、禍我はモモの傷を跡形もなく塞いでいた。クルスの説明で今更ながらレキは神と人間の格の違いを見せつけられた。
「そもそも先生が結婚していただなんて初耳です。僕の家族と先生は五年以上も付き合いがあったんだ。結婚していたのを知らないはずがない。先生、嘘をおっしゃらないでください」
「厳密には『夫になるはずだった人』ね」
花壇の隅で萎れる一輪の花をフィオはやさしく手折る。
「私と夫の蜜月は泡沫と消えてしまった。私が無謀で短絡的で欲張りだったせいで、あの人と作り上げてきたものすべて、痕跡も残さず時空の海に帰してしまったの」
そして両手でそっと包んで儚む。
悲しみに暮れる女性に追及を重ねるほどクルスは愚かではなかった。
草花に水をやり終えたフィオは眼鏡の隙間から涙を拭った。
フィオ特製シチューを腹いっぱい堪能し、夜を迎えた。
レキは屋根裏部屋に寝床をあてがわれた。
チェック柄のテーブル、クマのぬいぐるみが腰掛けている安楽椅子、額縁に飾られたラベンダー畑のジグソーパズル、自動車の模型。窓際にはトカゲの玩具。部屋の模様は家主の年齢不相応に幼い趣味に偏っていた。
天窓から眺められる月は薄く黄色い。寒々しい月明かりが四角形に切り取られて部屋に差し込む。寝付くのによい塩梅の薄暗がりであった。
光の濃い窓際に鈴珠のまぼろしを思い描く。まぼろしは無邪気にレキに手を振ってきた。
これから鈴珠と変わらぬ生活を送れるだろうか、レキはたまらなく心配だった。
真白大神に真実を告げられようがレキは依然変わりなく鈴珠を慕っている。
ただし、鈴珠もそうでいられるとは限らない。
自責の念に打ちひしがれる彼女にどう接すればよいのか。鈴珠を救える言葉をレキは持ち合わせていなかった。どう言い繕おうと、鈴珠の過ちが一人の人間を邪道に陥らせ死なせた遠因になった事実は覆しようがない。
「眠れないの?」
部屋を抜け出して庭で花壇の花を眺めていると、フィオに背中からカーディガンをかけられた。
「真実なんて知らなければよかった?」
「はい。悔しいですが」
「いっそ知らない振りをしていれば?」
「不器用な私にはできっこないです」
「真面目な子なのね、コヨミさんは」
偉いわね、と頭をなでられる。強張っていた筋肉が心なしほぐれた。
真実から目を背け、居心地のよい虚構に居座るのは逃避でしかない。だのに、背けた目をまっすぐ向ける勇気がない。袋小路に追い詰められ万策尽きる。追い詰める者は他でもない、弱い自分自身であった。
「フィオ先生、教えてください。大切な人を繋ぎとめる術を」
フィオは顎に指を添えてしばし思案する。
考えがまとまったのか「うんっ」と一人納得する。
「コヨミさんに必要なのは鈴珠さんを信じることね」
「私はいついかなるときでも鈴珠さまを信じています!」
「なら、繋ぎとめる手段なんていらないはずよ」
鼻息荒らげていたレキは核心をつかれてはっとなる。
「いじわるな言い方をしてしまってごめんなさい」
「いえ、フィオ先生のおかげで目が覚めました」
「あら、困ったわね。こんな夜中なのに」
レキは腰に力を入れて踏ん張って「よしっ」と拳を握る。
「信じていることが伝われば相手も信じてくれる。単純な道理よね」
「幸福を共有し、苦難を分かち合いたい。私の想いは必ず鈴珠さまに届く」
「そうそう、その意気よ」
フィオは小さく拍手する。
「真実を知るのって、終わりじゃなくて始まりなの。互いの外面と内面、善き面と悪しき面を知るたびに絆は深まるのよ――なんて積極的なほうに舵を切ったらほら、嬉しくなってくるでしょう?」
鈴珠を隅々まで知りたい。
そばにいたいと一心に願うしかなかった幼稚な想いが、一つ上の段階に育った。
人も植物も、周りに仲間がいるといっぱい成長する。
フィオの持論の正さをレキは温まる胸で実感した。
心を巣食っていたわだかまりが融解していく。憂いにいざなう闇が、希望に導く光へと変質していく。魔法の効果ではない。フィオ固有のやさしさとぬくもりが作用したのだ。つい最近、レキは同じ温度のぬくもりを別の人物からも味わっていった。
「フィオ先生の性格、どことなくフォルテに似ていますね。彼のほうはだいぶ皮肉が利いていますが」
「鋭いわね。フォルテの感情バランスと思考パターンは私の頭脳データが基礎になっているの。あっ、クルスさんには内緒にしてね。あの子は妙なところで意地を張るから」
ウインクし、唇に人差し指を当てる。
「今夜はゆっくりお休みなさい」
汽笛に似た甲高い音と、金属のぶつかり合うやかましい音がキッチンからしてくる。フィオは「あらいけない、お湯が沸いたわ」とサンダルを脱ぎ散らかしてキッチンに走っていってしまった。
フィオが淹れたコーヒーとアップルパイを一切れ頂き、空っぽの腹を満たした。
屋根裏部屋に戻ると、レキが一人になるのを見計らったかのように頭痛が襲ってきた。
ベッドに倒れこんだ勢いで禍津薙が床に落ちる。扇が肌から離れると頭痛は和らいだ。
黒い瘴気を洩らす禍津薙は高熱を帯びている。レキは恐るおそる触れた指を反射的に引っ込めてしまった。
――加賀の末裔よ。
禍我のおどろおどろしい声が頭に反響する。
――そなたに其の眼で真実を見据える勇気は有るか。
「私を試しているのか」
――有るか、否か。
「ある!」
堂々たる宣言に呼応して、目の前の空間が捻じ曲がって神隠しの渦が出現した。
渦の向こう側の世界で、鈴珠と黒髪の少女が神社の石段に腰を下ろしておしゃべりしていた。




