第34話:大魔導士フィオ
海沿いのバス停に下りたレキは堤防に登って深呼吸した。
濁った海の波打ち際が泡立っている。浜辺には雪が薄くかかって白くなっている。押しては引いてを繰り返す細波の音が侘しさを際立たせていた。
木組みのベンチに座るクルスが携帯電話を耳に当てている。
悟られないよう耳を澄ませても相づちの声や「先生、今着きました」「徒歩で三十分くらいです」「ちょうどよいバスがあったので」といった会話の断片しか拾えなかった。レキはさりげなく耳をそばだてながら使い捨てカイロを両手で揉んでいた。
通話を終えたクルスは「待たせたな」と携帯電話を折りたたんだ。
「『先生』のお住まいは遠いのか」
「それなりに歩く。田舎の町だからな。電車もバスもろくに無い」
長距離バスで三時間。更に町営バスで三十分かかってたどり着いたのは海に面した町、路美町。クルスによると、この町に住んでいる魔導士が禍津薙の問題解決に助力してくれるらしい。
クルスは『先生』と慕うその魔導士から魔法を手ほどきされたという。
先生は神々に選定されし人類の代表『大魔導士』の一人で、魔導会において最大の権限を有しているという。
そうも高名たる魔導士が鉄道もろくに引かれていない片田舎に住んでいるのか。口数少ない彼からは、詳しくは聞き出せなかった。
「クルスの家庭教師か。クルスは北欧ではどういった生活をしていたんだ」
「漠然とした問いだ。返答に困る」
寡黙な性格の彼は歩調を緩め、在りし日の記憶を掘り起こすようにぽつりぽつりと語っていった。
クルスは魔導士である両親の下に生まれた。
兄弟はいない。
両親と同様、彼も魔導士の素質を宿していた。
魔導士の倫理を学ぶため、彼らはいわゆる普通の学校には通わない。クルスは物心つきはじめた頃から、魔導会が運営する魔導士の学校で勉学に勤しんできた。
北欧での暮らしは万事が楽しいものではなかった。むしろそうでない時間のほうが多くを占めていた。魔導会本部副長の息子でありながら魔導士としての才能は凡人の域を出ず、そのくせ縁故で大魔導士の『先生』から家庭教育を受けていたせいで同胞たちの妬みを買い、嘲りの対象となっていた。まごころを以って接してくれたのは両親とフォルテと『先生』くらいであった。
過酷にも、数少ない親しい人たちはクルスのもとを離れる悲劇を迎える。
慕っていた『先生』はある日突然、家庭教師を辞めて日本の地へ去っていった。
両親は鬼と外道魔導士に殺された。
彼のそばに残ったのは『先生』から譲り受けた白猫の使い魔だけとなってしまった。
幸福とは言い難い昔語りをさせてしまったレキは、次第に募る罪悪感に耐えかねて「すまない」と謝った。クルスが日本に訪れた理由を忘れていた迂闊な自分を「馬鹿者め」と心の内で叱った。
「古傷に触れるつもりはなかったんだ」
「構わん。コヨミにはいつか打ち明けるつもりでいた。俺の過去も、先生のことも」
クルスのぶっきらぼうで素直なやさしさにレキは救われた。
「『先生』はクルスの心の拠り所になっていたんだな」
クルスが心底驚く。
「貴様、読心の魔法が使えるのか」
「お前の話し振りから察したのさ」
仏頂面で思い出を語る中『先生』の話に触れるときだけ、彼が心なし生き生きとしていたのをレキは見逃していなかった。
「ふん、下らん」
機嫌を損ねたクルスは早足になってレキの先を行ってしまった。
二人は海沿いの歩道を辿る。小高い丘の白い一軒家を目指して。
水色の屋根にクリーム色の外壁。淡い色合いをした暖かみのある家は、迫力ある大海原を望める見晴らしのよい丘に建っていた。
春が訪れて酷寒がなりを潜めれば、心洗う景色を一望できるに違いない。
レキは晴天の下に広がるきらめく海辺を夢想した。
クルスが玄関の呼び鈴を鳴らす。
せわしない足音が近づいてくる。
扉を開けて二人を出迎えたのは銀縁眼鏡をかけた妙齢の女性だった。
家の奥から焼けたリンゴの香りが漂ってくる。かすかにサックスの音色も聞こえる。
「いらっしゃい。クルスさん、コヨミさん」
「ご無沙汰しています、先生」
「初めまして。加賀暦と申します」
「お行儀の良い子ね。私の名前はフィオ。クルスさんの元家庭教師よ」
フィオは柔和な笑みでレキを受け入れる。大魔導士という肩書きからいかめしい老人が現れるのではと身構えていたレキは、ふんわりぽかぽかとした印象の彼女に面食らっていた。
「この方が大魔導士」
「それにも『元』がつくわね」
「……え?」
「さあ、風邪を引かないうちに中へどうぞ。クルスさんの大好物を焼いているところよ」
大魔導士フィオはレキたちを家の中へと招き入れた。
観葉植物に囲まれた大魔導士の住まいは木漏れ日差す新緑の森を連想させた。
小さな鉢植えがそこかしこに置かれてあるばかりか、赤いレンガでこしらえられた庭園も、冬だというのに色とりどりの花が咲き乱れている。楽園の花園を再現したのだろうか。大魔導士の土いじりへのこだわり具合にレキは目を見張った。
「人恋しさと趣味のガーデニングが高じたのよ」
恥じらいながら言い訳したフィオは、ジャズが流れっぱなしだったラジカセの停止ボタンを押した。サックスの音色が止んだのを確認してからリンゴの香りがするダイニングのほうへ足取りを変えた。
「先生、お元気そうで何よりです」
「クルスさんもお変わりないかしら」
「はい」
「フォルテは元気? 記憶領域の定期的なバックアップは忘れたらだめよ」
「あいつは相変わらずおせっかいな奴です。予備も隔月で更新しています」
「おせっかいなのはあなたを大切にしているからよ。コヨミさんとの馴れ初めは? 二人は恋仲なのかしら」
――恋仲ッ!
レキの頭が高熱を帯びる。
「コヨミは僕の学友です」
みっともなく取り乱すレキをよそにクルスはいたって冷静に、正確に答える。何の偽りもない答えでありながら、レキはどうしてか彼の淡白な対応に腹を立ててしまった。
「学友? ああ、日本の高校に通っているのね。何処かに下宿しているの?」
「コヨミと同じアパートに」
「それって本当にただのお友達なのかしら」
「フォルテの仕業です」
「あらあら、運命の歯車があなたたちを導いたのね」
おどけた口調でからかわれてクルスは顔をしかめた。
「あなたのご両親にももう随分とご挨拶していないわね。お父さまは本部長になられたのかしら」
「父も母も死にました」
鉢植えの観葉植物に水をやっていたフィオが硬直する。
銅製のじょうろが指を滑って床に落ち甲高い音を立てる。
カーペットもろともフローリングが水浸しになる。
和やかな雰囲気だったのが一転、三人とも表情を翳らせた。
ダイニングの席につくと、フィオは甘い香りの正体――大皿に載ったアップルパイを花柄のミトンで運んできた。
切り分けられたアップルパイと紅茶を味わいながら、レキは十一月から花尾町を沸かせていた鬼と外道魔導士の悪事と、それにまつわる三神との邂逅をフィオに話し聞かせた。クルスの家庭教師、しかも大魔導士であるはずの彼女が一連の騒動を全く知らなかった事実にレキは逆に驚かされた。
「鬼の噂、暴走した使い魔、花尾の神さまの親子、封印されし邪神……まさかそんな災難が。ご両親のこと残念だったわね。ねえクルスさん、日本に来ていたのなら私を頼ってもよかったのよ?」
「魔導士の仇討ちは死罪に相当します。先生にご迷惑をおかけしてはならないと僕一人で戦ってきました……コヨミと会うまでは。今は違います。先生なら僕らの力になってくださると信じています」
フィオはきょとんとしてから嬉しそうに目を細めた。
「誰かを信じるのって、誰かに信じられるのよりずっと難しいのよ。成長したわ」
「はい。最後にお会いした日から三センチ身長が伸びました」
クルスが大真面目に見当違いな返事をすると、フィオは「ふふっ」と吹き出した。
「きっとコヨミさんがあなたの成長を促してくれたのね。人も植物も、周りに仲間がいるといっぱい成長するのよ」
鉢植えのハーブを指先で触る。
彼女が笑いをこらえきれなくなった理由がわからないのか、クルスは終始首を傾げていた。照れくさくなったレキはティーカップを空になっても啜っていた。レモンティーの渋味しか舌に残っていなかった。
「コヨミさん、真白大神から賜ったアーティファクトを貸してちょうだい」
フィオは手渡された禍津薙をためつすがめつ観察する。
「むせ返りそうになる魔力ね。魔力を吸い取る力だなんて、本来なら魔導会本部の封印庫行きね」
唯一の幸運は、選ばれた使い手が正義の心を持つ少女だったことである。
「邪神の器に魔力を満たす見返りとなれば相当なものでしょうね。コヨミさんは一族と禍我との契約の詳細をご存じないの?」
「私どころか身内の者も一切」
「化け狐が一枚噛んでいるような態度だったな」
神々の書庫で禍津薙の正体を突き止めたとき、鈴珠のうろたえ方は尋常ではなかった。フォルテの説得がなければ頑として禍津薙を返さなかったであろう。鈴珠は何らかのかたちで加賀家と禍我の因縁に絡んでいる。
「コヨミさん、クルスさん、早合点しないで。まだすべて憶測の段階ですもの」
フィオが眼鏡のレンズ越しに微笑み、レキの拳に手のひらを重ねてきた。
伝ってくるフィオの体温が不安を退ける。
普遍的な母親像とでも言うべきか。大魔導士フィオは触れた者に安らぎを与える母性を宿していた。魔導士の素養よりも深淵に根ざす、人間が本来持ち得る優しさを多く秘めていた。
――なるほど。生意気なあいつが丸くなってしまうのも仕方ない。




