第32話:乙女心の萌芽
アパートに帰ると、さっそく鈴珠にうどんを急かされた。
味にうるさいと自称する鈴珠はいつもダシから料理を作れと要求する。レキ自身、料理は嫌いではないため望むところ。腕によりをかけて調理している。幸せいっぱいの鈴珠に「ファミレスに比べればまだまだじゃな」と偉そうな評価をされながら食べてもらっているため、腕前には少々自信があった。
うどんが茹で上がるのを待ちながら台所で長ねぎを刻む。鈴珠は床に寝転びながらパソコンで遊んでいる。鼻歌を歌いながらマウスで床を擦っている。昼食に招待されてやってきたクルスとフォルテはテレビを観てくつろいでいる。盆栽講座の番組を眺める外国人二人がシュールな光景としてレキの目に映っていた。
「化け狐、何をしている」
クルスが鈴珠の肩越しにノートパソコンを覗き込む。
モニターには緑のテーブルと一列に並ぶ長方形の駒が表示されている。
「麻雀じゃよ。部屋で寝そべりながら麻雀を打てるとは現代も便利になったの」
鈴珠はモニターに食い入りながらマウスを操る。
クルスは「くだらん」と嘲った。
「大和の神が賭博に血道を上げるとはな」
「鈴珠も随分と現代にかぶれたね。へえ、そこでそれを切るのかい」
「ワシの背中でごちゃごちゃとやかましいぞおぬしら」
「鈴珠さま、ゲームは一日一時間の約束忘れないでくださいね」
「わかっておるわかっておる。集中しておるのじゃから静かにせんか」
台所から声をかけてくるレキに鈴珠は生返事した。
大好物のきつねうどん、もとい『油揚げのせうどん』がテーブルに並んでも、麻雀に熱中する鈴珠はなかなかパソコンの前を離れようとしない。痺れを切らしたレキがパソコンを没収しようとしたら、鈴珠はだしぬけに悲痛な金切り声を上げた。
歯軋りの音が三人の耳にまで届いてくる。
「こやつら、失うものがないからといって駆け引きも糞もない打ち方しおって」
乱暴にモニターを閉じてノートパソコンに八つ当たりした鈴珠はふてくされた様子で席に着き、割り箸を二つに割って『油揚げのせうどん』をやけ食いしはじめた。
つゆの上で激しく躍りながら口の中へと吸い込まれていく白いうどん。飛散するつゆを直に浴びるクルスは固く握った拳を震わせていた。
鈴珠が勢いに任せてうどんを平らげるとフォルテは箸を置いて話を切り出した。
「鈴珠、キミの父上から託宣はないのかい。シグマと死悪鬼を討ち、魔力が枯渇したとはいえ転生珠を取り戻した現状、禍津薙はお役ご免のはず。真白大神に返すべきじゃないか、とね」
「枯渇した力を復活させて初めて『取り戻した』とご判断されておるのじゃろ。いずれにせよ、神の力を失ったワシでは父上からのお言葉を待つしかない」
「では、次に託宣があったとき、禍我と加賀一族の因縁を教えてもらえるよう計らってくれないかな」
すると鈴珠の目が露骨に泳ぎだす。
「今更詮無いだけじゃろ。戦いは終わったのじゃ」
「……確かに。キミの言い分はもっともだ」
フォルテが意外にも早く折れてくれて鈴珠は胸をなでおろす。
「ちと散歩してくる」
これ以上の追及を恐れたのか、足早に部屋から逃げてしまった。アパート前の路地を横切って公園方面に走っていくのが窓から見下ろせた。フォルテの「困った神さまだね」という一言にレキは苦笑いするしかなかった。
昼食を片付けたレキは客人二人を玄関まで見送る。
「馳走になった」
「また食べに来てくれ。いつでも歓迎する」
「遠慮するつもりはない。フォルテの料理は食えたものではないからな」
「不味いのか」
「料理音痴を自覚していないからタチが悪い」
「クルス、僕本人の目の前でひどいじゃないか」
要領がよく器用なフォルテが料理音痴だなんてレキは信じられなかった。同居しているクルスが酷評するのだから信じざるを得ない。
フォルテはときおりレキの部屋まで調味料や調理器具を借りにくる。玄関先の立ち話で、料理の話題で盛り上がったりもしていた。彼が張り切る裏でクルスが文字どおり苦汁を味わっていた衝撃の事実に、レキは罪の意識に苛まれた。次はもっと豪勢な料理をふるまってやろうと胸の内で誓った。
「私の腕前はなかなかだったろ。毎日鈴珠さまがあれこれ注文してくるんだ」
「サムライ。あの化け狐を甘やかすと図に乗るぞ」
「肝に銘じている……はずだったんだがな」
仕事に明け暮れる両親の下に生まれた一人っ子のレキからすれば、鈴珠は妹同然の存在であった。ゆえにどうしても甘やかしてしまう節があった。
「貴様は自分にまつわるすべての人間を救おうとするきらいがある。愚かにも、己の力量ではどうにもならぬとわかっていながらな。サムライの性がそうさせるのか」
いつだったかアズマからも似た忠告をされたのをレキは思い出した。
「ときにクルス」
いきなり改まった態度を取りだすレキにクルスは眉をひそめる。
「いい加減私を『サムライ』と呼ぶのは止めろ。髪型や口調が似ていてもご先祖様が武士だったとしても私は一介の高校生だ。魔導士でもない」
「ならどう呼べばいい」
「普通に名前で呼べ」
「承知した、コヨミ」
いきなり本名で呼ばれたレキはその瞬間絶句し、口をぱくぱくさせた。
体温が急激に上昇するばかりか動悸まで狂いだす。まばたきを制御できない。熱病か、あるいは泥酔か。思考がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて平衡感覚が崩れる。
「なっ、名前で呼ぶのか!」
「名前で呼べと言ったのは貴様だろ。コヨミ、貴様はつくづくわけのわからん奴だ。コヨミ、顔が赤いぞ。熱があるのかコヨミ。おい、聞いているのかコヨミ」
「いやっ、その、名前で呼べとはつまり、本名ではなくあだ名の『レキ』と呼べという意味であって……とっ、とりあえず名前を連呼するな! 私をからかっているのか!」
頭の中が真っ白になってしどろもどろ。ろれつも回らずクルスに不審がられる。彼の背後で笑いをこらえるフォルテを発見してしまいますます恥ずかしくなる。もはや一秒たりとも顔を合わせていられなくなって丸盆で顔を隠してしまった。
「防御の訓練か?」
「風が冷たいんだ!」
半開きになっている玄関の隙間から、確かに風が吹き込んでいる。
「それは客人に暇を促す婉曲表現だね」
フォルテが茶化し半分に助け舟を出した。
クルスは「なるほど。長居して悪かった」と靴を履く。
「ところでコヨミ。以前借りた――」
「続きは明日学校で聞く!」
二人を外に締め出して、有無を言わさず玄関の扉を閉めた。遠ざかる足音が聞こえなくなってから、重くのしかかる自己嫌悪に溜息をついた。
久しく本名で呼ばれていなかった。
レキを暦と呼ぶ近しい人物は家族くらいしかいない。幼少からの付き合いであるアズマすらあだ名で呼んでいる。だから、血のつながりの無い人間、しかも同級生の異性に本名で呼ばれてこそばゆさを覚えてしまい、全身むずかゆくなった。
――名前を呼ばれただけで取り乱すだなんて。私も鍛錬が足りないのか。ああ、そうだ。きっとそうに違いない。近頃弛みきっていたからな。シグマとの戦いでも心の虚を衝かれたではないか。
頭の熱が冷めたレキは、さっそくクローゼットの奥からホコリをかぶった竹刀を引っ張り出してきた。
「どういう風の吹き回しじゃ」
アパートの裏庭で竹刀を振っているうちに鈴珠が帰ってきた。
学校の体操服を着て一心不乱に素振りしているレキに目を丸くしている。
半袖の上着は汗に透けて肌に張り付いている。程よい筋肉に引き締まる二の腕は、汗の光沢で健康的な美しさを魅せている。鈴珠は両肩を抱いて「見ておるこっちが風邪を引きそうじゃ」と歯を鳴らしていた。
裏庭の隅、黒猫の墓に椿の花が一輪、手向けられている。
「心身ともに鍛えなおしていたのです。鈴珠さまもご一緒にどうですか」
「やらんわい」
にべなく断られる。
「夢中になっておるところ悪いがの、そろそろ夕飯の時間ではないか」
「六時。かれこれ四時間も素振りしていたのか」
携帯電話で時刻を確認したレキが再び竹刀を握りだしたので鈴珠は愕然とする。
「煩悩を捨て去るため素振り千回を目指しているのです。現在八百二十二回目なので、しばしお待ちください。台所の棚にインスタント食品があったはずです」
一途なレキは思い立ったが最後、てこでも己の意志を曲げない。
説得を諦めた鈴珠は一足先に部屋に裏庭を後にした。




