第30話:後日談
焼け落ちた禍我神社に帰ってくると、鈴珠が作った『神隠しの渦』は役目を終えて閉ざされた。
澄み渡る空。冷たく新鮮な大気に心が洗われる。地平線にでこぼこを刻むビル群の隙間からは朝陽が昇っている。久方ぶりの陽光にレキは目を細めた。
黒焦げた禍我の御殿が、焼け残った木々が、朝露にぬれてひそやかに輝いている。鈴珠の瞳も涙をたたえて潤っていた。モモと鈴珠の二人に抱きつかれたレキは嬉しいやら恥ずかしいやら、困ったふうに頬を掻いていた。
蚊帳の外のクルスが「随分なご身分だ」と皮肉る。すると今度は彼がモモの熱い抱擁を受ける番になり、クルスは耳まで顔を真っ赤にさせた。力ずくでモモをどけてそっぽを向くと彼女はがっくり肩を落として残念がった。不器用なクルスに苦笑するレキもレキで、鈴珠の熱烈な愛情を少々持て余していた。
レキの独占を果たした鈴珠は、彼女の胸に顔を埋めて愛しさいっぱいに頬ずりしている。固い毛並みをした狐の耳が首の辺りを掠めてくすぐったかった。
「おぬしはまことに無茶ばかりする。次元の裂け目におぬしがシグマもろとも呑み込まれたとき、ワシはもはや万事休すかと」
「それでも鈴珠さまは私を禍我の檻から救い出してくださいました」
「当たり前じゃ。当たり前じゃろ。レキはこの八十年後の現世で最初に出会った友人なのじゃから」
寂れた神社で葛籠を開け、鈴珠を封印から解き放ったのは今からひと月前。季節を一巡するどころか冬すら越していないはずなのに幾星霜を共有した錯覚を起こしてしまう。その錯覚こそが、レキにとって鈴珠がかけがえのない存在であることの証であった。鈴珠もまた同じ想いを抱いているのが体温に混じって胸に伝わってきた。
視界の端に小さな影が映る。
ちらついた影は、湿った地面に打ち捨てられた黒猫のなきがらだった。
誰にも知られず、誰にも悲しまれず、孤独に横たわり、言葉なく虚空を見つめている。
両目のまぶたを指で閉ざしたレキは、黒猫のなきがらを慎重に持ち上げた。
「クルス。彼の埋葬を私に任せてもらえないか」
「勝手にしろ」
「すまない。お前からしたら憎き仇だというのに」
「勘違いするな。外道魔導士シグマは俺が自らの剣で殺めた。奴の汚れた魂は愚行の報いを受けて禍我に喰われた。貴様の抱いているそいつはただの猫だ」
「……ありがとう、クルス」
精神を冒していた魔力を禍津薙に抜き取られた黒猫は、ようやく安らぎを得て静かな眠りについていた。
クルスは羽織っていた外套を脱いで黒猫のなきがらを包んだ。
やわらかな朝陽を正面に浴びながら、四人は禍我神社を後にした。
アパートの裏庭。
腕まくりしたアズマがスコップを振るって黒猫の墓穴に土を盛るのを、レキと鈴珠は静観していた。土を山に盛っただけの簡素な墓はすぐに出来上がった。
「お前たちもいろいろと大変な目に遭ったな。まっ、これでようやく鈴珠が神さまの力を取り戻せるってわけだな」
「いや、実のところもう一苦労せねばならんのじゃ」
鈴珠が着物の懐から転生珠を出す。
汚れ無き白を誇り神々しき光を放っていたはずの宝珠型アーティファクトは、今は灰色にくすんでいる。試しにアズマがそれを振ってみても鈴の音は鳴らなかった。禍津薙が転生珠の魔力を奪い尽くしてしまったのだ。わずかに残っていた最後の力も、鈴珠が禍我の檻へ続く神隠しの渦を作ったときに使い切ってしまっていた。
「もっとも、しばらく待っておれば少しずつ力が溜まっていくゆえ無闇に悲観する必要もなかろう」
「しばらく、って具体的にはどれくらいなんだ」
「うむ、五百年も辛抱すれば本来の力を取り戻すじゃろう」
まさかの五百年にアズマはがくっと肩透かしを食らった。
「おいおい、人間さまは百年我慢できりゃ上等なんだぜ。俺とレキがじいさんばあさんになってくたばったとき、身寄りのないお前はどうするんだ」
「案ずるでない。死して死後の世界へ向かうおぬしらの魂を再度現世に召し寄せ、不死なる契約の戦士として従えれば問題ないわい。もう五十年も過ぎれば転生珠もそれくらいやってのける力を取り戻すじゃろ」
狐と葛籠の神さまが平然と言ってのけるのでレキもアズマもぞっと肝を冷やした。
「俺は長生きできても妖怪になるのだけはご免だぜ」
アズマが耳打ちしてきたのでレキも迷わず同意した。
裏庭を去る際、レキは黒猫の墓を一度振り返る。
安息の訪れた彼の生い立ちに思いを巡らす。
――シグマに幸福な時間はあったのだろうか。
猫として生きてきた時間はもとより、人造魔導士に改造されてから魔力に冒され発狂するまでの日々に幸せは存在したのだろうか。主人に愛されていたのだろうか。今となっては知る由もなく、よしんば知れたところで己への慰め以外の何ものにもならない。
せめてそうであって欲しいとレキは願った。
「なあ、久しぶりにファミレスでも行かないか」
車のキーを指先で回すアズマに鈴珠がさっそく飛びついてきた。
「ハンバーグ! ワシはハンバーグじゃぞ!」
「そりゃ俺じゃなくてウェイターさんに言ってくれ」
せっかちな神さまだ、とアズマは鈴珠の頭を髪がくしゃくしゃになるまでかき混ぜて「やめんかばかものー」と抗う彼女に愛情をたっぷり注ぎ込んでいた。
――私たちは幸福だ。
こればかりは確信を持てた。
憶測でもなければ願望でもない。誰にも否定できぬ揺るぎなき確信だった。
「レキ、早く車に乗るのじゃ」
「――はい。今行きます」
激動の休日はまた元通りの日々に帰着しつつある。
それからというもの、レキたちはつつがない日常を淡々と送っている。
外道魔導士との戦いも一週間経てば早くも過去の出来事。彼女らは冬休みとクリスマスの到来を待ちわびている。
町をさまよう鬼の噂はあの日以来途絶え、移り気な人間たちはまた新たな噂話に沸き立っている。
緋色の髪をした少女と全身甲冑の騎士の幽霊が夜な夜な町をさまよっている――学校でもっぱら流行っているのはそんな噂だった。
昼休み。
レキが校舎の屋上に上がると、白一色の平たい場所にクルスが一人孤独にたたずんでいた。
しんしんと降り積もる粉雪は金色の髪やまつ毛ばかりか内履きまで白に染めている。
最近物思いにふけってばかりいるクルスをレキは心配していた。
もともと寡黙な彼がシグマとの決着以来更に黙るようになって、モモや伊勢との昼食にも顔を出さなくなってきた。そういう日、決まって彼は屋上で冬の大気を全身で浴びているのだ。そのまま北風にさらわれて消え去ってしまいかねない危うさを彼の背中ははらんでいた。
「俺には帰る場所がない」
声をかけようとしたところにクルスが先んずる。
「魔法を私情に用いるのは魔導会の禁忌。そういう意味では俺もシグマも変わらない。両親を荼毘に伏し、復讐を誓った日から俺はよすがを捨てたみなしごとなった」
「クルスの居場所はここだ」
クルスはかぶりを振る。
「悲願を成就した今、俺が花尾の地に留まる理由はない」
「それがお前の本心だというのなら私は怒るぞ」
レキの真摯なまなざしに耐え切れなくなったクルスは彼女に背を向け、足元に広がる町を眺める。まつ毛にかかった雪のかけらがこぼれ落ちる。雪化粧の施された町の眺望は暮れゆく年の哀愁を二人にもたらした。
「ここに留まっていては、いずれまた魔導会から差し金を向けられる。俺に近しい人間に危害が及ぶ可能性も否定できない」
「私たちの間に気遣いは無用じゃなかったのか?」
「それは……」
まさかのレキの不意打ちにクルスは面食らっていた。
「お前がシグマに決死の攻撃を仕掛けたとき、どうして私が割って入ったかわかるか?」
「……いや、わからん」
立て続けに問い詰めてくるレキの剣幕に語気を弱める。
「戦闘能力を有する俺がシグマの傀儡になるのを危惧したからか」
馬鹿正直に状況分析したクルスは、レキが呆れた表情をつくるや「すまない。俺にはわからない」としおらしく謝った。
「クルスの狙いには一つだけ大きな過ちがあったんだ。お前の肉体がシグマに乗っ取られていたら私は奴を殺せなかった。大切な友人を傷つけるなんて私にはできっこない」
クルスの両肩を掴んで引き寄せ、強引に彼と向かい合う。鼻先が触れ合うすれすれまで額を寄せて彼の深い瞳の泉に飛び込もうとする。
「気遣いは無用と強がっておきながら、クルスは常に私たちの身を案じてくれる。私たちを危険から遠ざけ矢面に立とうとしてくれる。やさしさや献身のつもりでお前はそうしてくれるのだろう。だがそれは大きな間違いだ。互いが互いを思いやることこそ真の友情なんだ。一方的な自己犠牲の上に成り立つ信頼など私は認めない」
まくしたてるだけまくしたててから恥じらいが後から追いついてきて、レキは頬を赤らめて肩を離し一歩退いた。
唖然とするクルス。
ややあって何かに納得したのか「なるほど」と清々しい笑みを薄く浮かべた。
「どうりで諏訪や化け狐が懐くわけだ」
「どういう意味だ?」
「聞き流せ。俺の独り言だ」
スピーカーから流れるノイズ混じりの予鈴が昼休みの終わりを告げる。
校庭やグラウンドで雪遊びをしていた生徒たちがぞろぞろ校舎に戻っていく。クルスもまとわりつく雪を振り払いながら新雪を踏みしめて階下に続く重い鉄扉を開けた。
「そうだな」
去り際に彼はつぶやいた。
「俺の居場所はここだったな」
クルスがいなくなって屋上にはレキ一人きり。
給水塔の上から彼女の足元へ一匹の白猫が飛び降りてくる。
「親愛なるハラカラよ、ありがとう。クルスに居場所を与えてくれて。復讐を成し遂げて空っぽになった彼がどうなってしまうのか、僕はそればかり気がかりだった。キミたちがいる限りもう憂う必要はないみたいだね」
「私などでよかったのか」
「キミだからこそだよ。さあ、教室に戻るんだ。午後の授業が始まるよ。キミたちの青春を妨げるものはない」
クルスが残した足跡の上を辿ってレキは屋上を後にする。
階段の踊り場で待っていた彼と二人、調子を合わせて足音を鳴らし教室に戻った。




