第2話:狐と桃と暦(前)
クラスメイトのモモを連れて、レキは静まり返った廊下を歩く。
歴史ある高校ゆえ、校舎はだいぶ老朽化しており結露がひどい。内履きを床に擦らせるたびリノリウムが短い悲鳴を上げている。
真冬の廊下は身も凍りつく寒さ。
生徒の大半は各々の教室に籠ってストーブの前で暖を取っているため、教室移動もチャイムがなる寸前まで行わないのがほとんどである。一直線に続く長い廊下を歩くのはレキとモモの二人きりだった。
曇った廊下の窓に、しんしんと降り積もる雪の影が映っている。
十一月。冬が本格的に始まろうとしている。
「私、今週の理科係で、次の時間化学だから理科室のカギを開けにいこうとしたの。そしたらカギがかかってるのに中から『がっしゃーん』ってガラスが割れるすごい音がして、それで怖くなってレキちゃんを呼んだの」
高校生らしからぬおっとりとした口調でモモは説明する。『がっしゃーん』のところで両手を精いっぱい広げるのが愛らしい。本人は緊迫した状況を必死に伝えているつもりらしいが。
「ふむ、ならば私よりも先生を呼んだほうがよかったのでは」
そんなことないよ、とモモは首を振る。やわらかい癖っ毛がふわふわ揺れた。
「レキちゃんのほうが頼りになるよ。レキちゃんはみんなが憧れる王子さまなんだから」
「『みんなが憧れる』か。身に過ぎる光栄だ。だが『王子さま』と呼ばれるのだけはどうも納得いかないな。私だってその……女の子、だし。やはり『レキ』などという男っぽいあだ名がいけないのか」
恥ずかしがって語尾を濁す。
隣で歩くモモは心強そうににこにこしている。
「レキちゃん、強くて優しくてステキで背が高くてカッコイイから」
うっとりと目を細め、輝く二つの瞳でレキを見つめている。レキを『王子さま』だとするならばモモはさながら『お姫さま』だった。
理科室の前まで到着する。
理科室の扉はがたがたと揺れている。
レキは「中から風が吹き込んでいるのだろう」と怯えるモモを勇気付けた。
「私が開けよう。モモは後ろに下がっているんだ」
「うん。お願い」
扉に指をかける。金属の取っ手のひんやりとした感触が指の先から伝わる。扉はカギがかかっており、いくら引いてもうんともすんともしない。モモから受け取ったカギをカギ穴に挿してゆっくりと捻る。カギが開く。音を殺して扉を引いた。
扉が開いた途端、強風が吹き込んできた。
レキのポニーテールが激しく暴れる。
冷気をまとった風は一瞬にして廊下を駆け抜ける。掲示板に貼り付けられていたプリント類が一斉にめくれ、廊下の窓が危うい音を立てながら一斉に振動した。
風が止むと、かざしていた腕をどけ、かばっていたモモを胸元から引き離す。
「ありがとうレキちゃん。うわぁ、髪の毛がぼさぼさだよ」
理科室は悲惨な有様だった。
薄暗い室内、理科の器具を収納しているガラス戸の棚が開かれており、真下の床に割れたビーカーや試験管が雪に混じって散らばっている。開け放たれた窓のカーテンが荒々しくはためき、雪がまばらに吹き込んでいる。
そして、窓枠に片足を乗せて身を乗り出し、狐の『しっぽ』を揺らしながら、今まさにその場から逃げおおせようとする和服姿の女の子がいた。
「おおう。れ、れれれレキではないか。奇遇じゃのう」
頭に角を生やすレキの恐ろしき迫力に、口元を引きつらせる和服姿の女の子――鈴珠。声がうわずっているのも寒さのせいではない。
「私を追ってきたのですね。白々しいですよ鈴珠さま」
「こっ、これはじゃな……のわっ!」
濡れた窓枠で足を滑らせた鈴珠は理科室側の床に垂直落下し、盛大にしりもちをついた。
落下した際「びたーんっ!」と景気のいい音がしてモモは両手で目を覆った。四つんばいの鈴珠は涙目で尻をさすっていた。
「こ、これは違うんじゃ。きれいなガラス細工がそこの棚にたくさん置いてあって、一つ手に取ろうとしたらうっかり手を滑らせて落としてしまったんじゃ。決してそこの小娘をおどかそうとしたわけじゃなくての。昔はこういったガラスの筒を使ってもののけを封印しておって――」
「それはわかりました。では何故、学校に忍び込んだのですか」
「それはじゃのう、あはは」
「笑ってごまかしても無駄です」
レキに睨まれた鈴珠は耳としっぽを力なく垂らす。
油揚げの魅惑も半日ともたなかったようである。
叱られるのを恐れる鈴珠はうなだれ、上目遣いでレキの顔色を窺っている。こういうとき無駄口を叩かないのが得策だと知っているらしく、口はつぐんだまま。人間へのいたずらが過ぎて封印されただけあって叱られ慣れた様子であった。
「留守番をお願いしたではありませんか」
「留守番は退屈じゃ」
「かといって、このように学校を騒がせては大事になってしまいます」
「……一人ぼっちはつまらん」
瞳に涙を滲ませて萎縮する。
頭に血が上っていたレキは、鈴珠の涙声ではっと我に返った。
狐と葛籠の神さま鈴珠は、八十年の時を経て封印から目覚めた。
人も町並みも文化も、八十年も経ってしまえばその大半が様変わりしている。この現代に鈴珠が知る者も、鈴珠を知る者も一人としていない。鈴珠の封印を解いた張本人であるレキただ一人を除いて。
他に鈴珠が知っているものといえば大好物の油揚げくらいである。
長い月日により鈴珠という神さまは人々から忘れ去られ、信仰と神格を失った。幼子同然の鈴珠が見知らぬ世界を生きるにはレキにすがるしかなかった。
レキは目を閉ざして二日前まで記憶を遡る。
――あれは確か。
朽ち果てた神社の拝殿にぽつんと置かれてあった古びた葛籠。
レキがその葛籠を開けると、中から獣の耳としっぽを生やした女の子が現れた。
自分が八十年後の世界によみがえったことを知った彼女は、文明に支配された町の只中で粉雪を被り途方に暮れていた。そんな彼女を助けようと手を差し伸べたのは、他ならぬレキ自身であった。
――学校に忍び込んだ理由など、一つしかないではないか。
現世でただ一人の友人、レキに会うため、鈴珠は学校へやってきたのだ。
己の不甲斐なさにレキは下唇を噛み締めた。
「鈴珠さま。本は読まれますか」
「漱石や鴎外くらいは知っておる」
「でしたら図書室へご案内します。授業が終わるまでそこで暇を潰してください。昼休みになったらすぐ迎えにまいりますので」
「かたじけないの。ところでレキや。もう怒っておらんか?」
「怒ってませんよ」
レキが笑うと鈴珠もほっと胸をなでおろした。そういった仕草ひとつひとつ取る限りは紛れもなく歳相応の女の子であった。
「私のほうこそすみませんでした。鈴珠さまのお気持ちを慮ろうとせず、無理に部屋に閉じ込めようとしてしまって。これはでは封印されているのと何も変わらない」
レキはまだ十七歳。親元を離れアパートで一人暮らしをしているとはいえ、立場も肉体も精神も子供であるという事実は覆らない。
人にあらざる鈴珠の存在が他者に知れたとして、レキは彼女を守る術を持っていない。不本意に鈴珠と離別すること、そして無力な自分をさらけ出してしまうこと、それらを恐れたがための言動であった。
「そうしょげるな。ワシも怒っておらんよ」
――おぬしの想いはしっかり伝わっておる。
神さまの力なのか、レキの心へ直に鈴珠の声が届いた。
突然、鈴珠が「おわっ!」と素っ頓狂な声を上げる。
モモが鈴珠のしっぽを無邪気に掴んでいた。
「ワシのしっぽを引っ張るでない」
「このしっぽ、本物なんだ」
「当たり前じゃ。こら、耳を触るな。これも本物じゃ」
「ふかふかだー」
しっぽから手を離されて安心したのも束の間、モモの次なる標的は鈴珠の耳であった。