第1話:狐の神さまは葛籠で眠る
アパートに帰宅すると、布団の横に葛籠が置かれてあった。
「鈴珠さま、まさかその中にいらっしゃるのですか」
竹で編まれた簡素な葛籠は、みかん箱より一回り大きい。長い年月が経過したせいで、編まれた竹が割れたり抜けたりしている。お世辞にも綺麗とは言い難い。むしろガラクタ同然の有様であった。
その葛籠は今朝、確かにレキの手でクローゼットに片付けられたはずであった。鬼を追いかけている間にまた引っ張り出されたらしい。葛籠は昨夜と同じく布団のそばに寄り添って置かれている。
耳を澄ますと寝息が聞こえてくる。
葛籠のふたを持ち上げる。
葛籠の中で、小学生ほどの小さな女の子が眠っていた。
女の子は小柄な身体を丸め、尻の辺りから生えているふかふかの『しっぽ』を両腕に抱いて安らかな寝息を立てている。
レキは呆れた調子で溜息をつく。
「鈴珠さま、今夜もそこで寝られるのですか」
「……ん」
鈴珠と呼ばれた女の子が目を覚まして身体を起こす。
天井を仰ぐほど上体をのけぞらせて大きなあくびをし、重そうなまぶたをしきりに擦る。萎れて頭に張り付いていた三角形の『狐の耳』も覚醒に伴って元気に立った。
なんじゃレキか……小うるさい奴じゃのう。
幼い声質に反して、言葉遣いはどことなく年寄りめいていた。
「そんなところで寝られては風邪を引かれます」
「ワシは神さまじゃぞ。風邪なんぞ引かんわい」
不機嫌そうに反論する。
「葛籠の神さまが葛籠で寝るのは当然じゃろう」
「ならばせめて毛布を被ってください。着物も脱いでパジャマに着替えてください。昨日からずっと着ているではありませんか」
「面倒くさいのう」
レキの強い語気に圧された鈴珠はしぶしぶ葛籠から這い出て、着ていた朱色の着物からパジャマに着替える。レキのパジャマを借りたものだから全くサイズが合わず、両方の袖はだらしなく垂れ、両足の裾も引きずりながら歩く始末であった。
これで狐の『耳』と『しっぽ』がなければ、どこにでもいる女の子と何ら違わない。実際、初対面の鈴珠に「狐と葛籠を守護する神ぞ!」と威張られたときもレキは、彼女が神さまだなんてにわかには信じられなかった。
「のう、レキや」
鈴珠がレキの袖をつまんで引っ張ってくる。
着物をたたみながらレキは「どうしました」と返事をする。
「こんな夜更けにどこへ行っておったのじゃ」
枕元のアナログ時計は深夜の一時を示している。
鬼と白猫との出会いを正直に告げるべきか、レキは逡巡する。
秒針が二度時を刻む間、悩んだ末「ゴミ出しです。燃えるゴミは朝早くに回収されてしまうので」と咄嗟に嘘をついた。未だ混乱と興奮と恐怖が冷めぬ心地だったため、客観的な視点を取り戻してから報告しようと考え至ったのであった。
「おぬしは明日、学校に行くのじゃろう?」
「明日は月曜日ですから。明日も友人を見舞いに病院へ行かねばなりませんので、帰ってくるのは午後の六時ごろになるかと」
「ワシも同行していいかのう」
「駄目です」
「なっ、なんじゃとぉ!」
にべなく拒否された鈴珠は驚きの声を上げる。耳としっぽの毛も一緒に逆立った。
「ワシは昨夜も留守番したのじゃぞ」
「すみません、学校は関係者以外立ち入り禁止ですので」
悪びれたのは言葉だけで、レキは鈴珠の非難を容赦なく遮った。
「鈴珠さまが来られては学校中大騒ぎになるでしょう。その『耳』や『しっぽ』はもちろん、昨日のように空中を浮遊したり、妙なまやかしを使って人間をおどかしたりされたら、私も言いわけのしようがありません」
鈴珠が人差し指をくるくる回して神の術を操り、アパートの窓から通行人の傘を奪ういたずらをしていたのは昨日の午後。鈴珠は腹を抱えて笑いながら傘を空中で踊らせ、傘を取り返そうと飛び跳ねる通行人をおちょくっていた。
「もういたずらはせんから。いいじゃろ?」
レキの機嫌を損ねまいと鈴珠は恐るおそる上目遣いに懇願する。
レキはかたくなに首を横に振った。
「駄目なものは駄目です。部屋にあるものは好きに使って構いませんので、どうか大人しく留守番なさってください。くれぐれも通りかかる人をおどかさないようお願いします」
「……」
「すぐ帰りますから」
「……もういいわい」
拗ねた鈴珠は耳としっぽを力なく垂らしながら葛籠に戻る。毛布を被ってふたをして不貞寝に入ってしまった。
――レキの頑固者、堅物、偏屈、サムライ女……。
恨み節が箱の中から延々と聞こえてくる。
――強く言い過ぎてしまったか。
レキは内心、反省した。
親元を離れたレキが借りているワンルームの狭いアパート。娯楽といえる娯楽はテレビとDVDプレイヤーや埃をかぶったノートパソコン、もしくは文学小説くらいしかない。自分の無趣味がこんなところであだになるなどレキは思いも寄らなかった。もっとも、八十年封印されていた神さまに現代の娯楽が通用するかどうかは彼女も疑問であったが。
せめてもの償いとして、学校の帰りに鈴珠の大好物――油揚げを買ってこようと決めた。
夕食の食器を洗い、風呂を掃除し、机に置きっぱなしだった数学と物理の教科書を片付ける。一日の後始末をすべて終えてから布団に入った。
「鈴珠さま、おやすみなさい」
「うむ」
葛籠の中からいじけた声が返ってくる。
「明日は油揚げをたっぷり買ってきます」
「ほんとかっ!」
葛籠のふたが天井にぶつかるくらい勢いよく吹っ飛んだ。
翌朝。
二人でテーブルを囲って朝食をとりながら、レキは昨夜起きた鬼と白猫との邂逅を鈴珠に話し聞かせた。
ところが鈴珠は「不思議じゃのう」「猫又の一匹や二匹おるじゃろ」とまともに取り合わず、鬼についてなど「うむ」と一度頷いただけであった。鈴珠は生まれて初めて目にしたカラーテレビに夢中でいくら話題を振っても生返事しかせず、レキをやきもきさせた。
鈴珠の一番の関心事はもっぱらテレビの天気予報図(グラフや記号がめまぐるしく変化するのが面白いのだろう)やアナウンサーとのじゃんけん勝負(現代で鈴珠が知っている数少ない遊戯だからであろう)で、二番目の関心事はほかほかのご飯と味噌汁、焼き鮭を食らうことであった。
耳やしっぽのみならず性格までも気まぐれな動物にそっくりであった。
じゃんけん勝負が終わり、ニュースが再開する。
――昨夜、花尾町三丁目で建設中のアパレルショップが崩落する事故が発生しました。この事故による怪我人はいません。花尾町で相次ぐ建築物破壊事件との関連があるとみて警察は捜査しています。
「レキや。この世の者ならぬ存在に深入りすると命に関わるぞ。かっ、勘違いするでないぞ。怖いわけではないのじゃからな! こ、怖いわけでは……」
「……はい」
頷きながらも、レキの胸の中ではまだ割り切れない感情がくすぶっていた。
「それでは鈴珠さま、行ってまいります」
ニュースの結末を聞き届けてから学校指定のカバンを肩に下げ、玄関のドアノブに手をかける。
「学校に行くのか?」
パジャマの裾を引きずる鈴珠がレキの背に追いすがる。
「学業は高校生の本分ですので」
「一日くらい休んでも構わんとワシは思うがのう」
「試験が近いので」
「ちゃんと五時に帰ってくるのじゃぞ?」
「鈴珠さま、五時ではなく六時です」
「そ、そうじゃったか。六時じゃぞ。決してじゃぞ」
「約束を必ず守るのが私の数少ない取り柄です」
鈴珠の恋しがるまなざしを振り切って、レキは雪の降りしきる通学路を歩いた。
――狐の神さま、物言う猫、そして鬼。
立て続けに起こる非日常めいた出来事は、更なる非日常を予感させた。