第17話:超高次元領域にて
「待て!」
剣を構える黒騎士とクルスの間にレキが割って入る。
「黒騎士オヅ、お前は魔導会の者か」
「我が主がそうである」
「お前は誤解している。クルスに離反の意図はない」
レキが真剣に訴えるも、黒騎士は微動だにしない。
「真実か否かは些事。主の命こそ我が絶対。か弱き少女よ、やがてこの場は血に染まる。振り返らず立ち去られよ」
「そういうわけには」
「どけ、邪魔だ」
なおも食い下がるレキをクルスが脇に突き飛ばす。
「サムライは化け狐のおもりでもしていろ。こいつは死悪鬼と同じ、魔導士が『筒』から召喚した下僕。魔導士本人も近くで高みの見物を決め込んでいるはずだ。フォルテ、いいな?」
クルスが外套の内に腕を入れる。腕を再び出したとき、両刃の短刀をそれぞれの手に握っていた。
金属同士ぶつかり合う高音が、張り詰めていた静寂を破った。
鋼鉄の鎧姿に似合わぬ俊敏さで間合いを詰めてきた黒騎士が、クルスをまっぷたつにせんと逆袈裟に剣を斬り払っていた。クルスは真横に飛び退いて黒騎士の剣を紙一重でかわしており、着地と同時に短刀を閃かせていた。レキがたった一度まばたきをした瞬間の出来事であった。
黒騎士は左腕の篭手で短刀を受け止めていた。篭手は短刀の一撃を受けてもかすり傷すらついてない。反撃を恐れたクルスはすぐさま剣の届かぬ距離まで間合いをとる。黒騎士も大股で踏み込み、離れた間合いを再度詰める。
漆黒の剣を自在に振るい、連続で攻撃を浴びせかける。
畳み掛けてくる刃を受け止めて弾き、また受け止めて弾き――クルスは防戦一方を強いられていた。
淀みなく攻撃を繰り出す黒騎士と、露骨に疲労の色を浮かばせるクルス。二人の実力差は歴然であった。
フォルテがレキの背中に飛びついて、かわいらしい肉球がついた両前足を彼女の肩に引っ掛ける。
「さあレキ、鈴珠、黒騎士を操る魔導士を探そう。召喚者さえ叩けば奴を無力化できる」
「私たちよりクルスを!」
「あの太刀筋からするに、僕と鈴珠が束になっても敵わないよ。どういうわけか今は手加減してくれてるから下手に刺激しないほうがいい」
ぬかるみに足を取られたクルスが再度立ち上がるまで、黒騎士は静かに剣を構えて待っている。主の命は絶対という言葉とは裏腹に、クルスと剣を交えること自体を目的としてる節があった。
「これから僕らがすることは二人の戦いを止めるためのとても重要なことだ。場合によっては――いや、間違いなく魔導士との戦闘も有り得る。鈴珠、キミがレキを守るんだよ」
「ワシが……ワシがレキを守るのじゃ」
身体を震わせる鈴珠は自己暗示するかのように幾度もつぶやく。触れるだけで涙がこぼれ落ちてきそうなほど瞳は波打っていた。
「まずは本殿のほうへ行こう。そこから強力な魔力の発生を察知した」
――クルス、死ぬなよ。
祈りながら鈴珠の手を引き、雪を蹴って走った。
レキはもどかしかった。倒すべき敵はシグマだというのに、敵対する必要のない者との無用な戦いを強いられることが。
拝殿の裏に回り、本殿の前に到着する。
二人と一匹はそこにある異様な光景に唖然とした。
本殿の前に空間のひずみが生じていた。
ひずみの大きさは、そのまま本殿を飲み込みかねないほど巨大。
コーヒーにミルクを垂らしてかき混ぜた、という表現が適当な渦巻き状の歪み。中心だけぽっかりと穴が穿たれており、別の空間へと通じている。覗ける世界は霧に覆われており正体が掴めない。
「とてつもない魔力を感じる。人間が生み出せる量を遥かに超えている」
「この先に魔導士がいるというのか」
「もしかするとこれは我が父、真白大神が作られた『神隠しの渦』かもしれぬ」
恐れを知らぬレキはひずみの中心に腕を伸ばす。腕は抵抗もなく向こうの空間に入った。何が待ち受けているか分からなくても、クルスを助けるためこの先に行かねばという強い意志がレキの内で煮えたぎっていた。
鈴珠と手を繋いで、フォルテを抱きかかえる。
意を決したレキはひずみに飛び込んだ。
空間の濁流に揉まれて身体をめちゃくちゃにかき混ぜられる。いくらもがいても足は地に着かない。重力の方向が定まらず、三半規管が狂って吐き気を催す。幸いにもひずみに揉まれる時間は十秒もなく、やがてレキたちはひずみの先に到達した。
地に足を着けられると、レキはひどい眩暈に襲われてしゃがみこんだ。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられて目を回す鈴珠も千鳥足でレキから離れていく。数歩離れただけでその姿が濃霧に呑み込まれかけたのでレキは慌てて鈴珠の着物の袖を捕まえた。
ひずみの先は夢でいざなわれたときと同じ、濃霧に支配された白き世界だった。
平坦な地面が視界の果てまで広がっており、万遍なく霧が立ち込めている。光源もないのにぼんやりと明るい。後は何もない。風も音もなく、色は唯一白のみ。
限りなく無に等しい、現世と異なる世界。
「私の夢と同じ」
「超高次元領域――神の世界か」
「父上、どこにいらっしゃるのですか!」
張り上げた鈴珠の声は反響することなく雲散霧消する。
霧に影が映った。
小さな影だった。単に小さい影なのだろうか、もしくは遠くにある影なのだろうか。霧が濃いせいで判別がつかない。
最初は目を凝らさないと見落としてしまいそうだった手毬ほどの影は、時間の経過につれて大きくなっていく。それが四足歩行の獣の形をしており、自分たちのほうへ徐々に近づいてきているのだとわかったころには、影は一軒屋ほどの大きさまで膨張していた。
至近距離に達し、霧の向こうから影の正体が現れた。
巨大な狐がレキたちを見下ろしていた。
これほど巨大な生物が現世にいるだろうか。大地に連なる山脈と見紛うばかりの、この化け物めいた狐と比べれば死悪鬼ですら赤子同然。人間のレキたちなど麓の鼠にも及ばない。
狐は二つの耳の隙間に烏帽子を被っている。
周囲には無数の狐火。
横に払えば木々や家屋をもろとも掃いて捨てられるであろう、大きなしっぽが九つも。前に長く伸びた口からは鋭い牙がちらついている。長細い茶色の瞳は見つめられるだけで魂を抜かれかねない霊的な力を帯びている。
神々しき魂魄の紡ぎ手。
狐の姿を借りし真白大神は、花尾の土地の神々すべてを統べるに相応しき威厳と畏怖を備えていた。
「魔導士を追ってきたつもりがとんでもないのと出くわしてしまったね。運命の歯車は妙な巡り会わせをもたらすものだ」
畏敬に縛られて硬直するレキたちのかたわら、フォルテはいつもどおり軽く冗談めかした。
「運命ではない。余の意図である」
真白大神の声がとどろく。
まぶたが上がり、細かった眼が丸くむき出しになる。
「偽りの魂を注がれし紛いの獣、すべてを持たざる余の娘、そして力無き加賀の末裔よ。よくぞ参られた。加賀の末裔、そちに此れを返そう。近う寄れ。手を伸ばすのだ」
命じられるまま腕を伸ばす。
真白大神の周りを漂っていた狐火の一つがレキの手のひらに降りる。火が消えると、細長く軽い木製の物体が手のひらに納まっていた。
物体は丹塗りの扇であった。
「恐れ多くも真白さま。『返す』とはどういうことでしょうか」
「其の『禍津薙』は八十年前に加賀の一族から余が預かったもの。余の娘が長き封じより現世にて目を醒ましたとき、人の子に護らせるために。よもや渡す相手も加賀の者とはな。加賀の末裔よ、か弱き余の娘を頼んだぞ」
「お待ちくだされ父上!」
霧の中へと消えていく真白大神を追って鈴珠が霧を分け入る。
父なる神は九つの房の隙間から顔を覗かせる。
「鈴珠」
「はい!」
「真白の名を汚すこと、それ即ち余への冒涜。転生珠の件、ゆめ忘れるな」
「……はい」
立ちすくむ鈴珠。真白大神は霧に紛れて完全に姿を消した。
――やさしい言葉をもらいたかったのかもしれない。
「鈴珠さま。真白さまはあなたをお守りするよう、私に扇を授けてくださいました。ですからきっと」
「わかっておるよ。ワシなぞ八百万の子のうちの一人に過ぎんのじゃからな」
心配させまいと繕う笑みも弱々しい。しばらくは憔悴から立ち直れそうにない様子であった。
「クルスのところへ戻ろう。キミのお父さんがレキにアーティファクトを託したということは、この状況を打破する切り札に違いない」
フォルテが急かす。
「とはいえ、この扇はどのように用いれば」
「ワシもこのような至宝は――いや、一度どこかで。はて、どこじゃったか……ううむ、わからん」
「マガツナギか。僕もそんな名前のアーティファクト聞いたこともないな」
真白大神が『禍津薙』と呼んだアーティファクトは一見したところ何ら変哲のない扇。しかし、魔的な封印が施されているのか、いくら力を入れても扇は開かない。試しに鈴珠に渡してみても徒労に終わった。どのように用いれば黒騎士と魔導士を倒す力となるのか。レキは当惑しきっていた。
「考えるんじゃない、感じるんだ。虚空に精神を委ね、霊感を研ぎ澄まして。きっとアーティファクトは応えてくれる」
「じょ、冗談はよしてくれ……」
フォルテの無茶振りにレキは焦燥する一方だった。
彼女らを焦らせる問題がもう一つ発覚した。現世と超高次元領域を繋いでいたひずみがなくなっていたのだ。もしくはひずみがあった場所を見失ってしまっていた。
辺りは濃霧に包まれており上下以外の方向を把握する目印はない。二人と一匹は救いようのない迷子に陥っていた。
「落ち着くんだ。僕らはひずみがあった場所から三歩も移動していない。ならばひずみを消したのは畢竟するに真白大神ということになる。アーティファクトを授けたのに僕らを閉じ込める真似なんてするだろうか。わかるかい?」
レキは精神を集中させ、おおしけの思考の海が凪を迎えるまで深呼吸を繰り返す。
「……外の世界に出るための手段が用意されていて、真白さまはそれを利用するよう私たちを誘導している」
「ご明察。そして『外に出るための手段』とは無論」
レキは手にしている扇に目を落とす。
「ハラカラよ、禍津薙の声は聞こえたかい?」
「だっ、だから無茶振りされても困る!」
レキが破れかぶれに禍津薙を振り回したとき、異変は起こった。
上から下へ、水平に振り下ろされた扇の軌跡に沿って空間に裂け目が生じた。布を刃物で断ち切ったかのように、わずかな手ごたえもなかった。
めくれた裂け目の先にあったのは元の世界。
雪が降り積もる廃れた神社で金髪の少年と漆黒の騎士が剣を打ち合っている。
レキたちは裂け目をくぐった。




