第9話:転校生の本心
以外にもクルスとはすぐに再会した。
クルスは自分の教室の前にたたずみ、今にも「ぐぬぬ」と聞こえてきそうなほど苛立ちで肩を震わせていた。拳も血管が浮くまで固く握られ小刻みに震えている。早々に下校したものだと思っていたレキとモモと伊勢の三人は揃って首をかしげた。
「おいおいクルス。ひょっとしてお前も教室にカバン置きっぱなしなのか?」
放課後は日直が教室を施錠し、カギを担任の先生に返すのが決まりとなっている。だから校舎に残って友達と遊ぶにせよ部活動に汗を流すにせよ、カバンは必ず教室から持ち出さなければならない。時たま伊勢のようなうっかり者が教室にカバンを忘れて担任の先生に迷惑をかける羽目になる。
「だからどうしたというんだ」
伊勢の小ばかにした煽りを受けたせいで、クルスの苛立ちは彼の喉笛を掻き切りかねない勢いまで達していた。溢れる怒気をもろに浴びた伊勢は俊敏な動作でレキの背後に隠れた。
「ばっ、ちょっとストップストップ! ついでにお前のも取りにいってやるよ、ってことだよ。だから腰を深く落として拳を構えるの止めろっつーの!」
「できるのか?」
「まぁ、ちょっと待ってな」
伊勢は教室の窓枠の出っ張りにつま先を乗せ、扉の真上にある換気用の窓に手を触れる。横に長いその窓は指先の力だけで簡単にスライドした。
伊勢は出っ張りを上手に利用し開いた換気窓によじ登り、教室への進入を果たした。ツンツン頭の少年の影がすりガラス越しに映っていた。
間もなくして換気窓からカバンが二つ、続けざまに廊下側へ飛び出してくる。最後に伊勢が頭から順に出てきて、空中で身体を捻らせながら見事に着地した。
「ほらよ」
廊下に落ちているカバンを拾ってクルスに差し出す伊勢。
「ありが――」
自然と途中まで言いかけて、クルスは慌てて口をつぐむ。
「かっ、借りは返す」
「それ、俺ン中で『ありがとう』って変換して受け取っておくぜ」
「勝手にすればいい」
ようやくクルスの本心を引きずり出せた伊勢は胸をそらせて勝ち誇っていた。
照れ隠しでそっぽを向いたクルスの正面にモモが回り込む。
「クルスくん、今度みんなでケーキ食べにいこうね」
「ケーキ、だと?」
「今朝クルスくんが持ってたチラシのケーキ屋さんだよ」
クルスは一瞬だけ逡巡した後、頷いた。
「おい、どうして諏訪さんのときだけ素直なんだよ!」
帰り道の別れ際、クルスは一度だけレキたちのほうを振り返った。とはいえ、別れの挨拶を交わすわけでもなく彼はすぐに踵を返してしまった。
かすかに動いた唇は「ありがとう」の五文字を紡いでいた。
アパートに帰ると、レキの隣の部屋から鈴珠が掃除機を重そうに抱えて出てきた。
しかもなにやらアズマに対する恨み言をぶつくさと垂れている。
続いてアズマも部屋から現れる。彼も三角巾をかぶってモップとバケツを両腕に持っていた。
「鈴珠さま、ただ今帰りました」
「おおっレキ、遅かったではないか!」
鈴珠は掃除機をその場に放り捨ててレキに泣きついてくる。年代物の掃除機は落下の衝撃で致命的な音を立て、ふたの開いた本体後部から限界まで膨れたごみパックが転がり落ちた。
獣の耳が二つ生えた頭を制服に擦り付け、精いっぱい甘えてくる鈴珠。ねばねばの蜘蛛の巣やホコリの塊が髪にいくつも絡まっており、レキは眉をひそめた。
「ホコリだらけではありませんか。あの部屋は確か空き部屋だったはず」
「アズマの陥穽にかかってしまったのじゃ。ワシが昨日と同じようにアズマの部屋で茶を飲んでおったらの、あやつに『食べた分だけ働け』と無理矢理寒空の下に引きずり出され、空き部屋の掃除をさせられたのじゃ」
「……至極真っ当ですよ」
後ろポケットの手ぬぐいで額の汗を拭ったアズマは、ひと仕事終えた後の疲労がもたらす満足感に浸りつつ、タバコを口にくわえてライターに親指をかけた。
重石で開きっぱなしのまま固定された扉。そこから覗ける空き部屋は塵一つなく丁寧に清掃されていた。代償として、アズマも鈴珠も煙突でも潜り抜けてきたのかと疑うほど全身汚れきっていた。
「どういう風の吹き回しですか」
「どうもこうも、立派な管理人の仕事じゃないか」
清掃業者も雇わず半年近く放置していた張本人に言われても白々しさ以外の何も感じなかった。
アズマの話によると、近々この部屋に新たな入居者がやってくるとのこと。すぐにでも入居したいという希望者のお願いになんとなく頷いてしまったアズマは、唯一の空き部屋が荒れ放題だったのを後から思い出して大至急で掃除したのだという。猫の手ではなく狐の手を借りて。
「入居希望者の名は、もしやクルスといいますか?」
「いや、フォルテって名前だったな」
「ねっ、猫の入居を許可したのですか!」
目をまんまるに開いて口をぱくぱくさせるレキの表情は金魚鉢の金魚を髣髴とさせる。対してアズマは「はぁ?」と額にしわを寄せていた。
「立派な人間さまだよ、異国のな。いくら懐の深い俺でも猫の入居は躊躇うぞ。おっと、もちろんお狐さまは大歓迎だ」
鈴珠の髪を乱暴にかき回しながら「はっはっはっ」と笑い、そのままの勢いでくしゃみをした。ホコリまみれになった挙句アズマのくしゃみまで真っ向から浴びて、鈴珠は無残な有様となっていた。
汗が引いたアズマは冷気を帯びた冬の風に身を震わせる。おしゃべりを切り上げた彼はタバコを携帯灰皿に押し込んで、レキから受け取ったポケットティッシュで鼻をかみ、掃除用具の片づけを再開した。
「ワシが神格を取り戻したら、真っ先にあやつを祟ってやるわ」
「とりあえず鈴珠さま、お風呂に入りましょうか」
陽が没すると、鈴珠が待ってましたとばかりにビニール袋を肘に提げ、洗濯物を畳むレキのそばまで駆け寄ってきた。
鈴珠が持ってきたのは花火セットだった。
打ち上げ花火に線香花火、ロケット花火。色とりどり、形さまざまな花火が袋に詰め込まれている。
「花火じゃ。花火をするぞい!」
胸の高鳴りを抑えきれない鈴珠は上下にジャンプを繰り返している。
花火セットは隣の空き部屋を掃除していたときに鈴珠が見つけたものだった。おそらく前の入居者が残していったものであろうが、どうせ捨てるしかないからとアズマからもらったのである。
「少し古そうですね。湿気で駄目になっているかもしれません」
「駄目かの」
「試してみましょうか」
きっと駄目でしょうね、とはしょぼくれる鈴珠を前にして言えなかった。
花火をするとなると火が必要で、アズマも呼ぶ必要があった。
「火くらいワシが起こせるわい」
「火の扱いは原則保護者同伴です」
レキが花火セットの注意書きを指差しながら大真面目に言った。
幸いにも雪はまだ降っておらず、風もない。黒い夜の海に光る粒が寒々と漂っている。二人は風邪を引かぬよう充分厚着した。
玄関を出た直後、二人は若い青年と鉢合わせた。
開けた扉が危うくぶつかりそうだったためレキが謝ると、青年は「なに、平気さ」とさわやかな対応を取ってくれた。
「レキも鈴珠も奇遇だね。これも何かの縁だ。僕を管理人の部屋まで案内してもらえないかな」
青年が書類らしき紙をひらひら風に揺らす。
初対面にもかかわらず青年は自分たちの名前を知っていて、あまつさえ妙に馴れ馴れしい態度を取ってくるのでレキは戸惑った。青年は美男子と呼ぶに相応しい端正な顔立ちをしており、とりわけ新雪のごとき銀色の髪が特徴的だった。以前会っていたとしても忘れようがない。
「おぬし誰じゃ」
「ああ、鈴珠とは初対面だったね。申し遅れた、僕の名はフォルテ。ご覧の通り白猫さ」
「どっ、どっからどう見ても人間じゃぞ!」
そう狐の神さまに驚かれた。
レキと鈴珠、アズマ、そして白猫――もとい、銀色の髪の青年フォルテの四人はアパートの裏庭で慎ましく線香花火を散らした。
近所迷惑だからと打ち上げ花火とロケット花火を没収されてふてくされていた鈴珠も、小さな火花の誕生と消滅の刹那にいつしか見入っていた。
命の鼓動は耳を澄ましてようやく聞こえるほど小さい。
「人間の姿にもなれるのか。どうして普段は猫の格好でいるんだ」
「面白いことを訊くね。ヒトの姿が最も生物として完成されている、なんて考えは人間の驕りから生じる固定観念以外の何物でもないよ」
フォルテが皮肉を交えて肩を揺らすと、線香花火の先から火花がちぎれて落ちた。不注意で儚い命を半ばで絶ってしまった罪悪感に、繊細な彼は心を痛めていた。
「猫がしゃべると怪しまれるのではと私は言いたかったのだが……」
「モモや伊勢はすぐに順応したじゃないか」
「モモは心が広く、伊勢は何も考えていないだけだ」
芝居がかった言い回しは他者をからかおうとあえてそうしているのか、はたまた素の性格なのか。いずれにせよ独特の感性を持つフォルテはアズマとはまた違った類の手ごわさがあった。
感傷に浸るのにも飽きた鈴珠は線香花火を束ねて巨大な火花を作って遊びはじめた。もはや風情やわびさびなどかけらもない。アズマは庭の木に背を預け、花火ではなく口元の白い筒に火を灯していた。心もとなき火の一滴の美しさに魅入られているのはレキとフォルテだけであった。
フォルテは二本目の線香花火をつまみ、火の揺らめくロウソクに掠めさせる。洗礼を受けたその先端に新たな生命が宿った。
「こんなに美しいものがあるなんて知っていたらクルスも連れてきたのに。残念だよ」
「彼は結局引っ越さないのか?」
「引っ越すよ」
何を根拠に断言しているのかわからなかったものの、彼が当然とばかりに言い切ったのでレキは二の句が告げずにいた。
「フォルテ、もう一つ訊いていいか。大したことではない。その、昨夜うたた寝してしまった私に毛布をかけてくれたのは――」
「ああ、クルスもなんだかんだでやさしいだろう?」
フォルテが人間になれると知って生まれたわずかな不安は、彼の返事によってきれいさっぱり拭われた。
甲高い笛の音がにわかに夜の大気に響き渡る。
小さな炎が煙の尾を引いて地上から空へ、緩やかな弧を描いて飛んでいく。静けさを保っていた冬銀河がまばたきを数度繰り返すうちだけ華やいだ。
鈴珠がロケット花火の発射に熱狂していた。
飛翔するロケットに興奮していた鈴珠はアズマの羽交い絞めによってあっけなく拘束された。自分に甘く他人に厳しいアズマは、罰として朝の玄関掃除一週間を鈴珠に命じた。
朝食を用意する寸前まで眠りこける日々が続いていた鈴珠にとって、今回の件で早寝早起きを習慣づけられれば塞翁が馬。少なくとも身から出たさびで終わらせるにはもったいない機会であったので、助けを求められてもレキは心を鬼にして知らん顔を決め込んでいた。
翌朝、あくび交じりの鈴珠は箒を手に、アパートの玄関前に散らかる落ち葉を掃いていた。
地面が湿っているせいで落ち葉が張り付いてしまい、じれったそうに同じ箇所を何度も何度も掃いている。裏庭に咲いている椿の花もあちこちに散っていて鈴珠を煩わせていた。
風が吹くたびに両腕を抱いて歯をかちかち鳴らす。
鈴珠の頑張りを物陰から見届けたレキはゴミ捨て場に燃えるゴミを捨てにいった。
「おい、サムライ」
そこで意外な人物に声をかけられた。
「燃えるゴミは今日でよかったのか」
金髪碧眼の少年が愛想の『あ』の字もないぶっきらぼうな態度で尋ねてきた。
「何を呆けている。さっさと答えろ」
少年の手には生ゴミの詰まったゴミ袋。相づちの一つもしないレキに苛立っていて、右足の靴をしきりに鳴らしている。
足元には白猫。
「ああ。月木土は燃えるゴミの日だ。それと、おはようクルス」
「……」
――おはよう。
虫の音もない冬の朝だからこそ、彼の微かな返事をレキは聞き逃さなかった。
なんだかんだで彼はいい人だった。




