文久二年十月(二)
その日から、岡田様はまた屋敷にいるようになった。
起きてるほとんどの時間を、稽古に費やす。
お酒は全然飲んでなくて、せっかく安い店で買いだめしておいたのにってお梅さんが嘆いてた。
顔を合わせるのは食事の時ぐらいで、相変わらず会話はなかったけど、前とは違って警戒されてる感じがないのが嬉しかった。
それから数日すぎて、先生から江戸に着いたっていう書状が届いた日の午後、部屋で先生の書状を読み返してると、お松さんがやってきた。
「お雪ちゃん、お客様よ」
「……え? わたしにですか?」
「そうなの。若いお武家様が三人。
『お雪という娘を呼べ』って」
「…………」
先生にはお客様がたくさん来てたけど、先生に言われたとおりなるべく会わないようにしてたし、わたしの名前を知ってる人は、ほとんどいないはず。
とまどいながら立ち上がって、ふと思いつく。
「あの、その人達、どこの国の人かわかりましたか?」
わたしには無理だけど、お松さんなら、わかったかな。
聞いてみると、お松さんは困ったような顔になった。
「うーん……京言葉っぽかったけど、話したのはほんの少しだから、よくわからないわ」
「そうですか……」
悩みながらも、廊下でお松さんと別れて、玄関に向かう。
玄関にいたのは、黒っぽい着物と袴の、二十歳ぐらいのお侍様三人だった。
近づくわたしを、じろじろ見てくる。
その視線に良くないものを感じながらも、玄関に正座し、三つ指をついて頭を下げる。
「お待たせいたしました、わたしが雪でございます。
御用は、なんでしょうか」
おそるおそる頭を上げて問うと、まんなかにいた人が言う。
「さるお方がおまえをお呼びだ。来い」
「ぇっ」
右端の人に左腕をつかんでぐいっとひっぱられて、あわてて膝立ちになりながら抵抗する。
「あの、さるお方とはどなたのことですか」
「おまえが知る必要はない。
いいから来い!」
「きゃっ」
つかんだ腕をぐいっとひっぱりあげられ、そのまま肩にかつぎあげられる。
普段とは違う高い視界に、くらっと目が回った。
「おい、駕籠を呼べ」
「はいっ」
一人が小走りに出て行き、わたしをかついだ人ともう一人は、のしのし歩いて玄関を出る。
玄関脇にちらっと竹三さんが見えたけど、相手がお侍様だからか、手出しできないみたいでおろおろしてた。
歩くたびに揺れる視界と、肩にかつがれてる状況に、攫われた時のことを思い出す。
とたんにぞくっと身体がふるた。
「ぃや……離して……っ」
ふるえる身体でなんとかもがいたけど、肩から降りるどころか、足を止めさせることすらできなかった。
それでもなんとかもがく。
「いや……」
「うるさい、おとなしくしてろ!」
どなり声に、全身がすくんだ。
抵抗すれば、よけい殴られる。
抵抗すれば、相手を喜ばせるだけ。
子供の頃からすりこまれた意識が、全身を固まらせる。
我慢してれば、じっとしてれば、相手はそのうち興味をなくす。
そのほうが、怪我は少なくてすむ。
そうやって、身を守ってきた。
だから、だけど。
混乱してる間に運ばれて、男達が門を出ようとする。
「待てっ!」
ふいに背後から聞こえた声に、全身を縛ってた見えない何かがゆるんだ。
顔を上げると、木刀を持った岡田様がすごい勢いで走ってくるのが見えた。
「岡田様!」
「何っ」
わたしが叫ぶのと、わたしをかついでる男がふりむいたのは、ほとんど同時だった。
ぐるんと回る視界の端で、岡田様がわたしをかついでる男に体当たりするのが、ちらっと見えた。
「ぐわっ!」
「ぁっ」
男の悲鳴とともに腰に回ってた手が離れて、空中に放りだされる。
ぎゅっと目を閉じて身体を固くしたけど、衝撃は少なかった。
「……?」
「大丈夫かっ!?」
知った声に目を開けると、岡田様が両腕でわたしを受けとめてくれてた。
「ぁ……」
「きさま、邪魔する気かっ!」
ほっとして、だけどすぐ近くから聞こえたどなり声にびくっとする。
地面でうずくまる男の横で、もう一人が刀の柄に手をかけながらにらみつけてきてた。
わたしをちらっと見た岡田様は、左腕に乗せるようにしてわたしを抱えなおした。
足下に落ちてた木刀を足の爪先でひっかけるようにして蹴りあげ、その根元を右手でぱしりとつかむ。
「こいつは渡さない、失せろ」
簡潔な言葉には、恐いほどの迫力があった。
男はひるんだように一歩引いて、だけどまた刀の柄を握り直す。
「ええい、邪魔をするなあっ!」
男が刀を鞘から抜くより早く、わたしを抱えたまま一歩踏みこんだ岡田様が、木刀で男の胸元を突いた。
「ふぎゃっ!」
男は悲鳴をあげて後ろにふっとび、門の外に転がる。
さらに岡田様は、足下でうずくまってた男を門の外に蹴りとばした。
「ぎゃあっ!」
「門を閉めろっ!」
「は、はいっ!」
おろおろしてた竹三さんが、岡田様にどなられて、あわてて門を閉め、閂もかける。
外でうめいてる男達の声が、小さくなった。
岡田様は大きく息をつき、抱えたままのわたしを見上げた。
「怪我はないか」
問いかけられて、だけど答えられずに、ぼんやり見返す。
腕に乗せるように抱えられてるから、岡田様の顔はわたしの胸元にある。
普段とは違う高さと、普段とは違う角度で見る岡田様の顔は、心配そうに見えた。
「……っ」
ふるえる手を伸ばして、その首に腕をからめるようにして抱きついた。
「おい」
驚いたような声が、腕の中から聞こえた。
かまわずぎゅっと抱きつく。
「……こわかった……」
恐かった。
どこに連れていかれるかわからなくて、逃げられなくて、恐くて、恐くて、恐かった。
「……もう、大丈夫だ」
なだめるみたいな、優しい声がする。
とんとんと、背中をたたかれた。
先生と、同じ言葉、同じしぐさ。
稽古の途中で走ってきてくれたせいか、上半身裸の岡田様の身体は、わたしよりかなり熱い。
着物越しにその熱がじんわり身体と心にしみこんで、ようやく助かったんだと実感できた。
それでも抱きついた腕をほどけずにいると、岡田様はわたしを抱えたままゆっくりと歩きだした。
玄関に向かい、膝をかがめて中に入る。
「お雪ちゃんっ」
お松さんの声に顔を上げると、玄関にお松さんとお梅さんがいた。
岡田様がまた膝をかがめて、わたしをあがり口におろしてくれる。
足に力が入らなくて、よろけてしまったけど、二人がしっかり抱きとめてくれた。
「ああ、無事でよかった!
どこも怪我はない!?」
「……はい……」
気遣う声とぬくもりにほっとする。
すがるようにお松さんの腕をつかんだ時、お梅さんが驚いたような声をあげた。
「お雪ちゃん、その手! どうしたの!?」
「え? ……あ」
とまどいながら自分の手を見て、意味がわかった。
左手の肘の下、さっきあの武士につかまれたところが、赤くなってた。
「かわいそうに……痛む?」
お松さんが、いたわるようにそっと肩を撫でてくれる。
「いえ……平気です……」
「……あいつらは、なんだったんだ。
何があったのか、話せ」
岡田様に言われて、お松さんと顔を見合わせる。
二人で交互に説明すると、岡田様は険しい表情になった。
「……竹三。
先生が帰ってこられるまで、門は閉めたままにしておけ。
客が来ても追い返せ。
どうしても会わせろという奴がいたら、俺を呼べ」
「は、はい、わかりました」
一緒に話を聞いてた竹三さんがうなずくと、岡田様は、ちらっとわたしを見た。
「おまえは、屋敷から出るな。
用事があれば、お松かお梅に頼め」
「……はい」
「お松、そいつの怪我を手当てしてやれ」
「かしこまりました。
さ、お雪ちゃん、行きましょ」
「……はい」
まだ足に力が入らなくて、お松さんに抱えるように支えられて自分の部屋に連れていかれる。
お松さんはわたしの手の赤くなってる部分に軟膏を塗って、包帯を巻いてくれた。
「本当に災難だったわね、でもこの程度ですんでよかったわ。
心配だからそっと様子を見てたら、あいつらがお雪ちゃんを攫っていこうとしたから、あわてて岡田様を呼びにいったのよ。
岡田様が助けてくださって、本当によかったわ」
「え……」
やけにタイミングが良かったのは、お松さんが呼びにいってくれたからなんだ。
「……ありがとうございます。
おかげで、攫われずにすみました」
深く頭を下げると、お松さんはにっこり笑う。
「いいのよ、間に合ってよかったわ。
それにしても、お雪ちゃんを攫わせるなんて、どこの誰の仕業かしら。
もしかして、先生と敵対してる人達なのかしら」
「……そうかも、しれません……」
大義を果たそうとしてる先生には、敵が多い。
だけど、わたしのことを知ってるなら、この屋敷に岡田様も住んでることも、知ってるはずだ。
一時期留守にしてたから、いないと思ったのかな。
そもそも、わたしを攫ったって、意味ないのに、どうしてだろう。
ぐるぐる考えても、答えはわからない。
「今日は手伝いはいいから、部屋でゆっくりしてなさい」
「……はい」
自分の部屋でぼんやり考えてみたけど、やっぱりわたしを攫おうとした相手が誰か、理由が何か、思いつかなかった。
考えるのに疲れて、台所に向かう。
お松さんにもお梅さんにも休んでるようにって言われたけど、何かしてるほうが気がまぎれるからって言って、配膳を手伝わせてもらった。
だけどお膳を運ぶのはやらせてもらえなかったから、奥庭で稽古してる岡田様を呼びにいくことにした。
廊下を半分ほど進んだ頃に、角を曲がって岡田様がやってくるのが見えた。
「あ、あの、岡田様、夕餉の支度ができました」
「……ああ」
二人で居間に向かい、お松さんが並べてくれたお膳の前に座る。
この時代では、食事は黙って食べるのが礼儀だ。
食べるのが遅くておしゃべりが苦手なわたしは、とても助かる。
だけど今は、先に言っておきたいことがあった。
きちんと座りなおして、お膳を横にずらす。
「あの、岡田様。
昼間は、助けてくださってありがとうございました」
三つ指をついて、深く頭を下げる。
「……礼なら、お松に言え。
俺を呼びにきたのは、お松だ」
ぶっきらぼうな言い方は、たぶん照れてるんだろう。
顔を上げると、岡田様はやっぱり照れてるような顔で目をそらしてて、思わず微笑む。
「お松さんにはお礼を言いました。
でも、来てくださったのは、岡田様ですから、岡田様にも言いたいんです。
本当に、ありがとうございました」
「……おまえに何かあったら、先生に合わせる顔がないからな」
目をそらしたまま言われた言葉に、以前と同じ先生への忠誠心が感じられて、嬉しくなる。
「先生がおっしゃられたとおり、岡田様がわたしを守ってくださいました。
もしかしたら先生は、こうなることを予想して、岡田様を残してくださったのかもしれませんね」
「…………そうかもな」
つぶやくように言った岡田様は、じっとわたしを見つめる。
「……なんですか?」
とまどいながら聞くと、岡田様は小さく首を横にふった。
「……いや。
……飯、食うぞ」
「はい」