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文久二年十月(一)

「江戸に行くことになった」


 その日の夕餉の後、お膳を下げようとしたわたしをひきとめて先生がおっしゃった言葉に、びくっとした。

「三条様と姉小路様が勅使として江戸に向かわれる。

 その護衛として随行することになった」 

 いったん言葉を切って、先生は黙って聞いてた岡田様を見る。

「おまえはここに残れ。

 この屋敷を頼む」

「なっ」

 声をあげる岡田様にかまわず、先生はわたしに視線を移す。

「お雪は、お松に礼儀作法を習いなさい。

 留守の間に何かあれば、以蔵に言うように」

「……はい、かしこまりました」

「……………………」

 岡田様はぐっと拳を握りしめると、黙って部屋を出ていく。

 険しい雰囲気におろおろしてると、先生がため息をついた。

 どこか困ったような顔でわたしを見て、苦笑する。

「私の江戸行きは、君の知る歴史のひとつなのかな」

「……はい」

 今まで先生に聞かれたことは、徳川幕府がどんなふうに終わって、新しい時代がどういうふうにできていって、未来はどんな世の中なのか、とかの大きなことが中心で、先生自身のことは聞かれなかった。

 わたしも、先生が後三年たらずで切腹するとは言いにくくて、黙ってた。

「江戸行きの間に、私が注意すべきことはあるのかな」

「あ、の、えっと……先生の江戸行き自体は、問題なかったと思います。

 でも、確か……」

 こっちに来て一ヶ月以上がすぎて、あちらでの細かな記憶は少しずつ薄れてきてる。

 必死に記憶をたどって、ようやく思い出す。

「……あ、確か、長州の高杉様や久坂様に、横浜の異人館襲撃計画に、誘われて、それに、土佐勤王党の、弘瀬様が関わってて、それで、先生が容堂様にお願いして、長州藩の毛利様に高杉様達を説得してもらって、計画を中止してもらった、はずです」

「……そうか。

 確かに、勅使に随行中にそのような騒ぎを起こすのはまずいだろうな」

 先生は難しい顔で考えこむ。

「はい……それに……」

 連鎖的に思い出したことに、すうっと血の気が引いた。

 この時期に起こったことが、いずれ土佐勤王党への弾圧へ、そして先生の死へとつながる。

 だけど、それを、どこまで先生に言っていいんだろう。


「他にも何かあるのかい?

 良くないことなら、なおさら知っておきたい。

 話してくれ」

 なだめるように言われて、ぎゅっと手を握りあわせる。

「……先生が、京を離れてる間に、先生と同じ他藩応接役の、平井様や間崎様たちが、青蓮院宮様に令旨を賜って藩政改革を断行しようとして、それが容堂様のお怒りを買って、……後々、土佐勤王党が弾圧されることに、つながっていくんです……」

 黙ってたのは、本当は、言いたくなかったんだって、今気づいた。

 生きてる先生や岡田様と暮らしてると、二人がもうすぐ死ぬだなんて思えなくて、思いたくなくて、無意識に考えないようにしてた。

 だけど、そうやってさけてたって、わたしが知る歴史は近づいてきてたんだ。

「……そうか」

 ぽつりと言った先生をおそるおそる見ると、先生は静かな顔でわたしを見返した。

「もう少し詳しく話を聞いておきたい。

 夕餉の片付けはお梅たちに任せて、私の部屋に来てくれ」

「はい……」


 急いでお膳を台所に運び、お茶を持って先生の部屋へ行く。

 必死に記憶をたどって、土佐勤王党の弾圧について話した。

 ご自分が投獄され切腹するって知っても、先生は、動揺してないように見えた。

「公武合体派に藩政を握られたら、そうなるのは当然だ。

 それを阻止するための方策を、今から考えておかないといけないな」

「……はい……」

 冷静な先生にほっとする一方で、罪悪感に胸の奥がちくっと痛む。

 おぼえてる限りのことを、すべて先生に話した。

 だけど、ひとつ、ううん、一人に関してだけ、話してないことがある。


 岡田様のこと。


 来年一月に脱藩し、酒に溺れ、盗人として捕らえられ、投獄され、拷問され、打ち首になる。

 岡田様の自白が、先生や他の土佐勤王党の人の死につながったと言われてた。

 だけど、わたしは、どうしてもそれが納得いかなかった。

 歴史資料でも、岡田様の先生への忠誠心はよくわかった。

 先生を裏切るようなことを、すると思えない。

 実際に会って、よけいそう思った。

 何か、理由があるはずだ。

 それを確かめるまで、先生には、言いたくなかった。

 もしかしたら、その理由がわかったら、歴史を変えられるかもしれない。





 準備期間はあっという間にすぎて、先生は江戸へ旅立った。

 未来でなら、京都から東京へは新幹線で数時間で着いたはずだけど、この時代はすべて徒歩だから、行くだけでもものすごく時間がかかる。

 わたしが知る歴史どおりなら、先生が京都に戻られるのは十二月のはず。

 その間に、岡田様の裏切りの理由を、なんとか確かめたかった。

 だけど、岡田様は、先生が旅立たれてから、屋敷にいることが少なくなった。

 一日中やってた稽古もせずに出歩き、たまに深夜に帰ってきて、翌朝またすぐ出ていく。

 たまに昼間屋敷にいる時は、部屋にこもってお酒を飲む。

 お梅さんが、いくらお酒を買ってきてもすぐなくなってしまうと嘆いてた。

 お酒を飲んでる時にまともな話ができるとは思えないし、酔っぱらいに対する恐怖感もあって、話しかけられない。

 悩んでるうちに、先生が旅立ってから十日近くがすぎてった。



 岡田様に会えないまま、また一日が終わる。

 どうしたら、いいんだろう。

 このままじゃいけないことは、わかってる。

 だけど、どうすれば止められるのかが、わからない。 

 そもそも、岡田様がどうして変わってしまったのかが、わからない。

 それがわかれば、なんとかなるかもしれないのに……。

 毎日同じことをぐるぐる考え続けて、疲れてため息をつく。

 布団に入ってだいぶ経った気がするけど、眠れない。

 水でももらおうと、起きあがる。

 旧暦の十月は、現代で言えば十一月頃で、深夜の空気はかなり冷たい。

 京都は底冷えするって聞いてたけど、北国生まれで、暖房器具のない部屋ですごすことが多かったわたしには、着込まなくても耐えられる寒さだった。

 それでも一応寝巻の上に綿入れをはおって、部屋を出る。

 裁縫が得意なお松さんが、わたしのために作ってくれたものだ。

 綿の厚さよりも、その心が嬉しくて、あったかいきもちになる。

 灯りを落とした廊下を手燭を頼りに進み、台所に入った時、物音がした。

 びくっとして、思わず手燭をかかげる。

「だ、だれ?」

 お松さんはもう帰ったし、お梅さんと竹三さんも門の脇の家に戻った。 

 先生がいない今、屋敷にいるのは、わたしと……。

「……岡田様……?」

 昨日今日と、姿を見てなかったけど、帰ってきたのかな。


 おそるおそる一歩進むと、庭から台所に入る裏口が開いた。

 入ってきたのは、やっぱり岡田様だった。

 わたしを見て、驚いたように動きを止める。

「あ、あの、お帰りなさいませ」

「……………………」

 手燭の灯りの輪の外にいる岡田様の姿は、ぼんやりしてて、顔つきはわからない。

 だけど、なんだか険しい感じがした。

 初めて会った頃に警戒されてたのとはまた違う、なんだか恐い雰囲気だった。

「岡田様……?」

 おそるおそる声をかけると、岡田様は乱暴な動きで戸を閉め、草履を脱いだ。

 大刀だいとうを抜いて手に持ったまま土間からあがって、壁際に置かれてた大きな陶器の酒瓶の口をつかんで持ちあげると、わたしのほうに向かってくる。

 わたしが出入口の前にいるんだから当然だけど、なんだか恐くて、あわてて身体を引くと、岡田様は顔をそむけてわたしの前を通った。

 手に持つ灯りの輪が、岡田様の姿を照らす。

 その頬に、何か赤黒いものが点々とついてるのが見えた。

「……血……?」

「!」

 思わずつぶやくと、岡田様はびくっと身体を揺らした。

 だけどふりむかずに、大股に歩いていった。


「…………」

 声をかける間もなく姿が見えなくなって、途方にくれる。

 追いかけたほうが、いいのかな。

 あの血が岡田様のものなら、手当てをしないと。

 だけど、岡田様のものじゃないなら。

 誰かを、斬ってきたのかな。

「……天誅……」

 岡田様は、他の藩の人たちと一緒に、京都で複数の暗殺事件に関わったと言われてた。

 この時期にも、確かあったはず。

 だとしたら、やっぱりあの血は、誰かの。

「…………っ」

 考えがぐるぐる回って、何がなんだかわからなくなる。

 台所の隅の水瓶から柄杓で水を汲んで、数口飲んだ。

 何度か深呼吸して、ようやく少しだけおちついた。

 あれが岡田様の血なら、手当てが必要。

 そうじゃないなら、詳しいことは聞かずにおく。

 それとは別に、話をしたい。

 さっきは酔ってたふうに見えなかったし、今持ってったところなら、まだそんなに飲んでないはずだ。

 

 廊下をおそるおそる歩いて、岡田様の部屋に向かう。

 襖の隙間から灯りは見えないけど、かすかに物音がしてた。

 深呼吸してから、声をかける。

「失礼いたします、雪でございます。

 少しよろしいでしょうか」

 びくびくしながら言って、しばらく待っても、返事はなかった。

 寝てしまったのかなって思った頃、小さな声がした。

「なんの用だ」

 不機嫌そうな声だったけど、答えてくれたことにほっとする。

「あの、お話したいことが」

「…………」

「それに、あの、……」

「………」

 何を言ったらいいかわからなくなって、ぎゅっと手を握りあわせて覚悟を決めた。

 今を逃したら、次にいつ岡田様に会えるかわからない。

 取り返しがつかなくなる前に、なんとか、しなきゃ。

 勇気をかき集めて、襖に手をかける。

「失礼いたします」

 襖を半分ほど開けると、部屋の中央に胡坐で座りこんでた岡田様が、驚いたようにふりむくのが、廊下に置いた手燭の灯りでぼんやり見えた。

 スイッチひとつで灯りをつけられるわけじゃないから、この時代の人は暗闇に慣れてる。

 わたしもだいぶ慣れたけど、話をするには、手燭の灯りだけだと足りない気がする。

「……灯り、入れますね」

 言い訳のように言って、手燭を持って立ち上がり、部屋の中に入る。

 壁沿いに歩いて、部屋の奥にある行灯あんどんに火を入れ、手燭をその横に置いた。

 部屋の半分ぐらいが、ぼんやり照らされる。

 岡田様は、最初の位置から動いてなかったけど、うつむいて酒瓶の口を握りしめてた。

 大きく回りこむように歩いて、ななめ横あたりの位置に座る。

 さっき頬に見えた赤い点は、もうなかった。

 岡田様が怪我したわけじゃ、ないみたいだ。

 そのことにほっとして、誰の血だったのかは考えないことにした。


「……あの、岡田様」

 おそるおそる声をかける。

 岡田様は、わたしのほうを見ないまま、酒瓶の口をつかんで持ちあげて、直接口をつけた。

 ごくごくと飲み干す音とともに喉が動き、お酒のにおいが広がる。

 わたしを拒絶するような雰囲気に、ひるみそうになりながらも、言葉をしぼりだす。

「近頃、屋敷に帰ってらっしゃいませんが、どこにいらっしゃったのですか?」

「……おまえには、関係ない」

 ぼそりと返された言葉は、冷たく響く。

 それでも、答えてくれたことに、ほっとする。

「心配、なんです。

 そんなふうにお酒を飲んでばかりでは、身体を壊してしまいます。

 先生も、きっと心配なさると」

 どんっと酒瓶を畳に叩きつける音に、びくっとして言葉がとぎれた。

「……おまえが、先生のことを語るな」

 うなるようなすごむような、怒りのこもった響きだった。

 険しいまなざしと目が合って、びくっとして目をそらす。

 だけど、視界の端を何かがよぎったと思ったとたん、ぐるんと、天井が回った。

「ぇっ!?」

 何が起こったのかわからない間に、畳に押し倒されてた。

 わたしの両肩をつかんだ岡田様が、のしかかるようにして顔をのぞきこんでくる。


「夜更けに、酒飲んでる男の部屋に、一人でのこのこやってきたんだ。

 何されても文句言えないよな……?」


 行灯を背にしてるから、その顔はわからない。

 だけど、囁くような声には、わたしをいじめた人達から聞き慣れた、獲物をいたぶる響きがあった。

「……っ」

 その響きに、肩を押さえつける手の強さに、のしかかる身体の重さに、酒くさい息に、いくつもの記憶が連鎖する。

「ぁ……っ」

 がたがたと身体がふるえ、恐怖が心を埋めつくす。


 恐い、こわい、こわい、こわい……!


「ゃ……」

 あふれた涙に、のしかかる影の輪郭がにじむ。

 ふいに、肩をつかむ手の力が抜けた。

 そのほんの少しの、だけど大きな変化に、恐怖に塗りつぶされてた心が、少しだけおちついた。

「…………」

 のしかかる大きな身体は、重かったけど、それ以上動こうとはせず、肩をつかむ手にも、力はこもってなかった。

 そう確認して、さらにおちついた。

 それでようやく思い出す。

 そうだ、この人は、わたしをいじめようとしてる『男の人』じゃない。

 『岡田様』だ。

 そっと深呼吸してから、岡田様を見上げた。

 ぴくっと、岡田様の肩が揺れるのが、つかまれた手を通して伝わってくる。


「逃げないのか?」

 ふいに落とされた言葉は、なんとなく、とまどってるみたいだった。

「……はい」

「……恐くないのか?」

 重ねられた問いは、さらにとまどいを含んでた。

 じっと、岡田様を見上げる。

 身体のふるえは止まらない。

 それでも、なぜか、心はおちついてた。

「……この状況は、恐いです。

 でも、岡田様は、恐くありません」

「!」

 息を飲んだ岡田様が、わたしを見つめてるのがわかる。

 しばらく見つめあった後、ふいに重みが消えた。

 身体を離した岡田様は、わたしに背を向けるようにして座る。

 手をついて身体を起こし、乱れた裾を直して、肩から落ちた綿入れをはおりなおした。

 ようやく身体のふるえがおさまって、きちんと姿勢を正して正座する。

「…………出ていけ」

 背を向けたまま、声がする。

 感情の含まれない声は、今何をどう思ってるのか、わからない。

 だけど、何か、言わなくちゃいけないと思った。

 何か、何を。

 必死に考えてると、ふいに思いついた言葉があった。


「岡田様は、わたしにとって、兄弟子のようなものなんです」


 岡田様の背中が、ぴくりと揺れる。

「わたしは、先生に出会って、まだわずかですが、先生が、すばらしい方だということは、充分にわかってます。

 先生を、尊敬してます。

 先生のお役に立ちたいと、いつも思ってます」

 ふりむかない背中を見つめて、ぽつぽつと話す。

「わたしには、剣の腕も学もありません。

 先生の門下生にはなれません。

 それでも、わたし以上に先生を尊敬してる岡田様を、兄弟子のように、思ってるんです。

 だから、岡田様が、心配なんです」

「…………俺は、先生には、もう、弟子だとは、思われてない」

 とぎれとぎれの言葉には、苦悩と悲しみがにじんでた。

「弟子だと思ってるなら、江戸行きにも連れていってくださったはずだ。

 他の奴らは連れていったのに、俺だけ……置いていかれた。

 江戸への剣術修行にも、西国遊歴にも、一番に声をかけてくださったのに、今回は、……っ」

 悔しそうに言葉をとぎらせた岡田様は、酒瓶をつかむと、また直接口をつけてごくごくと飲む。

 ため息みたいな吐息とともに、酒瓶を畳に叩きつけた。

「……俺には、剣の腕しかない。

 暗殺をひかえよと言われたら、俺にできることはない。

 先生の、お役に立つことができない。

 だから、置いていかれた。

 だから、もう俺は、弟子じゃないんだ……」


 まるで泣いてるみたいなかすれた声に、ようやくわかった気がした。

 暗殺をひかえるように言われたことと、江戸行きに同行できなかったことで、先生に見捨てられたと思ったんだろう。

 先生への忠誠心がとぎれてしまったことが、脱藩や自白につながってしまったんだろう。

 ここが、分かれ道だ。

 どうにかしなければ、わたしが知る歴史が実現してしまう。 

 何度も深呼吸して心をおちつけて、考えをまとめる。


「……それは、違います。

 先生は、岡田様を今でも弟子だと思ってらっしゃいます」

「……なぜ、おまえに、わかる」

 そう言う声は、拒むようで、だけどすがるようでもあった。

「江戸へ行くことになったと教えてくださった時に、先生がおっしゃったでしょう。

 『留守の間何かあれば、以蔵に言うように』って」

「…………」

「それに、江戸に行かれる前の日の夜にも、わたしにおっしゃられたんです。

 『留守の間に何かあったら、以蔵を頼りなさい。私のかわりに、以蔵が君を守ってくれる』って。

 自分のかわりができると、おっしゃるぐらい、岡田様を信じてらっしゃるんです」

 びくっとした岡田様が、わたしをふりむく。

「……先生の、かわり……?」

 とまどうような問いかけに、しっかりうなずいた。

「はい。

 だから、先生は岡田様を弟子だと思ってらっしゃるはずです。

 信頼してる弟子だからこそ、この屋敷を、任せていかれたんだと思います。

 先生の部屋には、今までに先生が書かれた物や、やりとりした書状が、たくさんあるんですから」

 それらを持ち出されて悪用されたら、先生の身が危なくなるかもしれない。

 わたしやお松さん達がいるとはいえ、大事な物がある屋敷を任せていくのは、岡田様を信頼してる証のはず。

 それにたぶん、わたしのことも、含まれてるんだろう。

 わたしが不安にならないように、岡田様を残してってくれたんだと思う。


「……………………」

 うつむいて長い間黙りこんでた岡田様は、わたしを見ないまま言った。

「出ていけ」

「……岡田様」

 まだ、伝わらなかったのかな。

 後、何を言えば、わかってくれるんだろう。

「……ひとりで考えたいから、おまえは自分の部屋に戻れ」

 少し間を置いて言い直された言葉に、ほっとする。

「……はい」

 うなずいて立ち上がり、行灯の横から手燭を取って、壁沿いに歩いて襖に向かう。

「……悪かった」

 襖を開けた時に、ぽつりと聞こえた声に、思わずふりむく。

 行灯の灯りにぼんやり浮かぶ横顔は、気まずそうだった。

 それが、押し倒されたことだとわかって、思わず苦笑する。

「……いえ、おやすみなさいませ」

「……ああ」

 


 翌朝、身支度を終えてすぐ岡田様の部屋を見にいく。

 襖が開いてたから、おそるおそる中をのぞきこんだけど、岡田様はいなかった。

 わかってくれたと思ったけど、やっぱりだめだったのかな。

 『考えたい』って言ってたから、そのうちわかってくれるかな。

 悩みながら台所に向かおうとして、ふとかすかな音に気づいた。

 以前聞いたような、聞き慣れたような、音。

 しばらく考えて、ようやくその音に思い当たる。

 あわてて縁側を回って、奥庭をめざした。

 そこでは、岡田様が木刀で素振りをしてた。

 もうすぐ冬なのに、上半身裸で、全身から湯気みたいななものが立ちのぼってる。

 動くたびに、汗が飛び散ってた。

 いったいいつからやってたんのだろう。

 見つめてると、素振りをやめた岡田様が、ちらっとわたしを見た。

「あ、あの、おはようございます」

 あわててその場に正座して、頭を下げる。

「……ああ」

 しばらく間を置いてから、岡田様が言う。

「……おまえの言うことを、信じてみる」

「え?」

 顔を上げると、岡田様はなんとなく照れたような顔で、目をそらした。

「……あ」

 わかって、くれたんだ。

「……ありがとうございます!」

 思わず出た大声に、岡田様は驚いたような顔をして、苦笑する。

「……変な女だ」

 それは、以前と同じ言葉だった。

 だけど、あの時より、優しく感じた。

「朝餉の用意ができたら、お知らせにまいりますね」

「……ああ。頼む」

「はい」 

 素振りを再開する岡田様をしばらく見つめてから、台所へと向かった。

 

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