文久二年九月(二)
「誰かいないか!」
突然聞こえた大声にびくっとして、廊下を掃いてた箒を握りしめる。
おそるおそる廊下の角から声がした玄関のほうを見ると、知らないお侍様が玄関に立ってるのが見えた。
先生にお客様が来ることは多いけど、たいていは先に知らせがあるし、やってきたら門番の竹三さんが教えてくれる。
いきなりやってきた人を出迎えたことはなくて、どうしたらいいかわからない。
奥の部屋を掃除してるお松さんを呼びにいったほうがいいかな。
「そこの者! こっちへ来い!」
「ぇっ」
迷ってる間に見つかってしまって、大声で呼ばれた。
とりあえず箒を壁にたてかけて、埃よけにかぶってた手拭を取り、おそるおそる玄関に向かう。
「早く来い!」
「は、はいっ」
またどなられて、早足で近づくと、玄関にいたのは、大柄なお侍さんだった。
その背後に、大きな駕籠と、数人のお侍様と、その脇で竹箒を持っておろおろしてる竹三さんが見えた。
そういえば、庭掃除するって言ってたから、お客様に気づかなかったのかな。
ぼんやり考えながら、うつむきがちに近寄って、玄関で正座して頭を下げる。
「お待たせして、申し訳ございません。
あの、どのような御用でしょうか」
「武市半平太殿にお会いしたい」
びくびくしながら言うと、お侍様はえらそうに言う。
「あの、先生は、外出なさっておられます」
「戻られるのは、いつごろだ」
「……昼前には戻ると、おっしゃっておられましたが……」
「なら、待たせてもらおう」
わりこんできた声は、静かだけど、迫力があった。
声がしたほうを見ると、駕籠から降りてくる人が見えた。
立派な着物を着たお侍様だった。
駕籠のまわりにいるお供の人らしいお侍様も、上等そうな着物を着てるし、身分の高い人みたいだ。
駕籠から降りた人は、大刀を抜いて、横にいた人に渡す。
「娘、案内しろ」
「は、はいっ」
先生と同い年ぐらいに見えるけど、先生が貫禄がある感じなのに比べて、この人は威厳っていうか迫力がある。
命令することに慣れてる、偉い人って感じ。
迫力に押されるように答えて、あわてて立ち上がった。
客間へ案内すると、偉い人は上座に座り、ついてきてたお供の人二人に軽く手をふる。
「おまえ達は廊下で待っていろ」
「ですが」
「うるさい、目障りだ、さっさと出て行け」
まるで追い払うように手をふられて、お供の人二人は顔を見合わせた後、なぜかじろっとわたしをにらんでから、深く頭を下げて出ていった。
「娘、茶を持ってこい。
この屋敷で一番良い茶葉で、できる限り濃く淹れろ」
「は、はい、かしこまりました」
急いで客間を出て、台所に向かうと、廊下でお松さんに会った。
「お客様みたいだけど、どちらの方?」
聞かれて初めて、名前を聞いてなかったことに気づく。
「……すみません、聞いてないです」
「そうなの? でも薩摩の方じゃないかしら。
玄関の近くを通った時にお供の人の話し声が聞こえたんだけど、薩摩なまりだったから」
お松さんは、先生や岡田様の前では今までどおりだけど、わたし達だけの時なら、くだけた話し方をしてくれるようになった。
「そうなんですか……?」
わたしにはなまってるように聞こえなかったけど、そもそも薩摩なまりがどんなのかわからない。
「ええ、たぶん間違いないと思うわ」
「そうですか……じゃあ、失礼がないようにしないと。
あ、わたし、お茶を持ってくるよう言われてたんです」
「あら、じゃあ私はお供の人達にお茶を出すわ」
「すみません、お願いします……」
急いで台所に行って、二人でお茶の用意をしながら、お梅さんに頼んで、先生用のお茶っ葉を出してもらう。
先生は食べ物にはこだわらないから、高いものではないらしいけど、この屋敷で一番いいものがこれらしいから、しかたない。
言われたとおり、うんと濃くお茶を淹れてて、ふいに何かが記憶の底でひらめいた。
薩摩、偉い人、濃いお茶。
「……大久保利通……?」
薩摩の重鎮で、渋い玉露を好んだって、何かで読んだ気がする。
それと、すごくおしゃれな人、だったらしい。
さっきの人は、濃紺の着物の袂や裾に細かい刺繍がしてあったし、脇差の鞘にも何か細工がしてあった気がする。
わたしが知る歴史では、先生と大久保様が会談したとかの情報はなかったけど、先生は薩長同盟を締結させようとなさってたから、大久保様と会っててもおかしくない、はず。
大久保様じゃないとしても、すごく偉い人みたいだから、何か失敗して、機嫌をそこねてしまったら、先生に迷惑がかかってしまう。
緊張しながら、そろそろ歩いて、湯呑を載せたお盆を運ぶ。
客間の手前で、襖を挟んで左右に座るお供の人に、またじろっとにらまれた。
びくっとしてしまったけど、お盆は落とさずにすんだ。
軽く会釈してその前を通り、襖の前に座ってお盆を置いて声をかける。
「失礼いたします、お茶をお持ちいたしました」
「入れ」
「はい、失礼いたします」
緊張しながら中に入り、上座に座ったままの人に近づいて座ってお盆を置き、湯呑をさしだす。
「どうぞ。ご指示のとおりに、濃くいたしました」
「ああ」
受け取った人は、一口飲んで、顔をしかめた。
「安物だな……だがまあ武市君では仕方ないか」
ひとりごとっぽくつぶやくと、じろっとわたしを見た。
「なんだ」
様子をうかがってたのを、気づかれたみたいだ。
「あ、あの、申し訳ございません、よろしければ、お名前を、教えていただけないでしょうか」
びくびくしながら言うと、その人はわたしを見つめて、なぜか面白そうな顔になった。
「そういえば名乗ってなかったな。
薩摩藩の大久保利通だ」
「……やっぱり……」
思わずつぶやくと、大久保様は軽く眉を上げる。
「どういう意味だ」
「あ、いえ、あの、申し訳ございません、他の者が、薩摩の方のようだと、申しておりましたので……」
「……娘、名はなんという」
急な問いかけに、とまどいながらも答える。
「あ、あの、高田、雪と申します」
「女中か」
「いえ、あの……行儀見習いでございます……」
「土佐の者ではないようだが、京言葉でもない。
出身はどこだ」
問いかける大久保様の声は鋭いのに、顔は面白そうなままで、混乱する。
「……北の、ほうです……」
「北の、どこだ」
「……秋田、いえ、出羽の、久保田藩です……」
未来にいた頃、日本史の本で調べたとおりに答える。
「私は江戸で多くの藩の者に会った。
北国の者にも会ったが、おまえのような言葉を話す者はいなかった」
「……それは、あの、……前に、奉公先で、なまりが強くて何を言っているかわからないと怒られて、直した、ので……」
これは本当のことだ。
わたしが売られた旅館は、祖父の家と同じ秋田県内だったけど、女将さんは東京の人で、従業員達には標準語を使わせてた。
秋田弁でしゃべるたびに、叩かれたり食事抜きにされたから、必死に標準語をおぼえた。
「吉原では全国から集めた女達がなまりが出ないように 廓言葉を使わせるそうだが、おまえの言葉もそれに近いようだ。
だが……」
言葉を切った大久保様は、じろじろわたしを見る。
「さっき、『他の者が、薩摩の方のようだと申しておりましたので』と、言ったな」
「……はい」
「おまえは、わからなかったのか」
「……はい」
「おまえは薩摩弁を知らないのか?」
「……はい、あの、薩摩の方に、お会いしたことがないので……申し訳ございません……」
大久保様は、なぜかにやりと笑う。
「それはおかしな話だ。
薩摩弁を知らないくせに、なぜ私の言葉がわかる」
「……え……?」
「私はさっきから、薩摩弁で話している。
薩摩弁を知らない者には、ほとんど理解できないだろう。
だがおまえは、私の問いに正確に答えた。
薩摩弁を知らなければ、できないことだ。
なのになぜ知らないと嘘をつく?」
「……でも、あの、わたしには……」
普通に標準語で聞こえてるのに。
そう思って、ようやく気づく。
土佐出身の先生や岡田様の言葉も、京都出身のお松さん達の言葉も、同じように標準語で聞こえてる、ってことに。
江戸時代のお国言葉は、今よりもっと土地ごとの違いが大きくて、言葉だけで出身地がわかるほどだったらしい。
なのに、わたしは、その違いがわからなかった。
言葉がわかるのは不思議だって思ってたけど、同じ日本人だからかなって、軽く考えてた。
だけど、本当は、何か異常な力が、働いてるのかもしれない。
誰の言葉でも標準語に聞こえるってことは、翻訳されてるってことかもしれない。
それは、わたしをここに連れてきた神様の、サービス、なのかな。
「何を考えている」
ふいに耳元で声がして、びくっとする。
「ぇっ」
いつの間にか、大久保様がすぐ横に胡坐をかいて座ってた。
息がかかるほどの距離で、じっと見つめられる。
「あ、あの」
思わず身体を引くと、さらにずいっと顔が近づいてくる。
「間者、ではないな。
言葉の違いに気づかず、真横に寄られても気づきもしない間抜けでは、間者はつとまらない。
だが、普通の娘でもない。
……面白い」
言葉どおり、大久保様は面白そうにくつくつ笑う。
「おまえ、私の」
「失礼いたします」
大久保様の言葉を遮るように声がして、襖が開いた。
声だけでわかる。先生だ。
ほっとしてふりむくと、襖を開けた先生はわたし達を見て眉をひそめたけど、何も言わずに中に入り、襖を閉める。
「何をしておられるのですか」
なぜか不機嫌そうな先生の問いかけに、大久保様はにやりと笑う。
「ちょうどいい。
武市君、この娘をよこせ」
「…………」
先生は、わたし達から少し離れたところに座り、大久保様とわたしを見比べる。
説明したほうがいいんだろうけど、どう言ったらいいかわからない。
「よこせ、とはどういう意味でしょうか」
「この娘、ここで行儀見習いをしていると聞いた」
「そうです」
「だったら、私の側女にしてやろう。
薩摩藩の重鎮である私の側女だ、行儀見習いより待遇は良いぞ。
京の女はどうも気に入らなかったが、この娘は面白い。
身体は貧弱だが、怯える顔がそそられる。
仕込み甲斐がありそうだ」
『側女』って、身分の高い人のお世話をする女性のことだったはずだけど、ほとんど愛人扱いだったはず。
そんなこと、絶対無理だ。
だけど。
「いいな、武市君」
決まったことのように言う大久保様をじっと見つめた後、先生はわたしを見た。
「お雪」
「は、はい」
「君は、どうしたい?」
「……え……」
「大久保様にお仕えしたいかい?」
「…………わたし、は……」
側女なんて、絶対無理だ。
だけど。
先生に迷惑かけたくない。
守るって言ってくれた。
味方だって言ってくれた。
先生の、役に立ちたい。
薩摩の重鎮の大久保様と仲が悪くなるのは、先生が大義を果たすためには、障害になるはずだ。
大きく深呼吸してから、先生を見つめて、ゆっくり言った。
「先生が、そうしろとおっしゃるなら、そうします」
先生は、一瞬驚いたような顔をして、だけどすぐ嬉しそうになった。
大久保様に向きなおって、深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんが、そのお話は、なかったことにさせてください」
「断るのか?」
大久保様の顔と声が険しくなる。
顔を上げた先生は、静かに言う。
「お雪自身が望むなら、是非もありません。
ですが、そうでないなら、私はお雪の後見人として、その話を受けるわけにはまいりません」
「私の機嫌をそこねても、か?」
脅すような言葉に、びくっとして大久保様を見る。
だけど先生は揺るがなかった。
「大久保様ほどの方が、藩や国の行く末を決めるための交渉に私情を挟むようなことは、なさいませんでしょう」
「……………………」
にらみあう二人の雰囲気はぴりぴりしてて、何もできないわたしはおろおろ二人を見比べる。
しばらくの沈黙の後、先に目をそらしたのは大久保様だった。
「……仕方ない、今回は引いてやろう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げた先生は、わたしを見て優しい顔で言う。
「君はもう下がりなさい」
「は、はい、失礼いたします……」
あわてて部屋を出て、廊下にいるお供の人の視線をふりきるように早足で歩く。
角を曲がって、ようやくほっと息をつけた。
大久保様は、その後昼餉を挟んで夕方近くまで、ずっと先生と話をしてた。
先生と一緒に戻ってきてた岡田様は、その話に参加できないのが悔しいらしくて、大久保様のお供の人と同じく廊下に座りこんでた。
お茶や昼餉を運ぶのはお松さんにお願いしたから、お二人がどういう様子なのかわからなくて、心配だった。
だけど、お松さんの話では、もめてるようじゃなかったらしいから、大丈夫、なのかな。
心配しながらも、また顔を合わせるのはまずい気がして、大久保様がお帰りになるまで、台所でお梅さんを手伝ってた。
夕餉はいつもどおり先生と岡田様と一緒に食べた。
食後のお茶を先生の部屋に持ってくと、呼びとめられた。
「少し話がある」
「……はい」
びくびくしながら、手招きされるままに先生に近づき、向かいあって座る。
「大久保様から、君が薩摩弁を正確に理解していると聞いた。
だが、君自身はそれに気づいていないようだ、とも」
「……はい。わたしも、そう言われました……」
「他の藩の者の言葉を正確に理解するのは、難しい。
それを自覚していないと、いらぬ誤解を招くことがあるから気をつけたほうがいいと、大久保様がおっしゃっていた」
「……誤解、ですか……?」
わたしがこの時代の者じゃないとバレる、ってこととは、少し違う気がする。
「わかりやすく言えば、間者だと疑われるということだ」
「え……」
意外な言葉に、きょとんとする。
どうしてそうなるんだろう。
「君自身にそのつもりがなくても、疑われる可能性があるなら、気をつけたほうがいいということだ」
「……はい」
よくわからないけど、先生がそうおっしゃるなら、そうなんだろう。
「このことに関しては、私の不手際だな。
君の言葉がどこの藩のものかわからないことも、私やお松達と問題なく話せていることも、気にするべきだった」
そう言って、先生は小さくため息をつく。
「えっと、あの、どうしてですか……?」
「言葉で出身地がわからないということは、身元がわからないということだ。
身元がわからない者は、無宿人として扱われることもある。
もし外に出た時に同心や岡っ引きに目をつけられたら、捕らえられていたかもしれない」
「……そんな……」
『同心』とか『岡っ引き』って、この時代のおまわりさん、だったはず。
今まで何度か、お松さんやお梅さんと一緒にでかけたことがあるけど、そんな危険があったなんて、思わなかった。
「もちろん絶対にそうなる、というわけではない。
だが、そうなるかもしれないと考えておくのは、大事なことだ」
「……はい」
なだめるように言われて、こくんとうなずく。
気にしないよりは、気にしておくほうがいいんだろう。
「それと、君が相手の言葉をどんなふうに聞いているのかも、確めておきたい。
私はさっきから土佐弁で話しているが、君にはどういうふうに聞こえているのかな」
「え……あの、今までと同じ標準語、ええと、わたしが話す言葉と、同じように、聞こえてます、けど……」
「君が話す言葉は、『標準語』と言うのかい?
それは未来では皆使っているのかい?」
「あ、いえ、標準語っていうのは、皆がわかるけど、皆が使ってたわけじゃなくて、ええと……」
確か、江戸時代には、標準語っていうか共通語はなかったらしいけど、江戸で暮らす全国の武士たちは、お互いわかりやすいように、江戸言葉っていうのを使って会話してたらしい。
でも、幕末の志士たちは、基本お国言葉で話してて、そのせいでいさかいもあったらしい。
標準語の基本になったのは、確か明治以降の山の手の言葉で、山の手言葉は確か……。
「お雪、おちつきなさい」
以前読んだ本の内容を必死に思い出してると、先生がなだめるように言う。
「慌てなくてもいい、一つずつ確かめていけばいいんだ」
優しい声で言われて、空回りしてた頭が少しおちついた。
「……はい、すみません……」
「いや、私も話を急ぎすぎた。
まずは、君が話している言葉は、標準語というんだね?」
「はい……」
「私やお松や大久保様の言葉も、君には標準語に聞こえているんだね?」
「……はい」
「未来では、そんなふうに出身地に関係なく、同じ言葉で聞こえていたのかい?」
「……いえ、未来でも、お国言葉はあって、標準語とは違うように聞こえてました」
「その時は、お国言葉の意味は理解できたのかい?」
「わかる時もありましたけど、わからないこともありました……」
先生の質問に答えるたびに、違和感が増していく。
どうして今まで気づかなかったのか、不思議なぐらいだ。
「では、君がお国言葉を理解できるのは、こちらに来てから、なんだね?」
「……はい……」
「そうか……」
先生はしばらく考えこんでいたけど、やがて小さく息をついた。
「だとしたら、それは君がこちらに来たのと同じ、神仏の力なのだろう。
私ではどうすることもできないようだ」
「…………はい」
わたしも、そうとしか思えない。
「後は、君自身がおぼえるしかないな。
君は、標準語以外に、お国言葉は知らないのかい?」
「あ、いえ、知ってます。
でも、あの、旅館、奉公先の、宿屋で、わからないって怒られたから、標準語を話すようにしたんです」
わたしは標準語で話してるつもりでも、なんかなまってるって、先輩達によく怒られた。
だけど、標準語を知らない先生達には、わたしが多少なまってても、違いはわからないんだろう。
「そうか……だったら、忘れたわけではないんだね?」
「……はい、たぶん……」
「では、これからは少しずつでいいから、お国言葉を使うようにしなさい。
そうすれば、疑われることも減るだろう」
「……でも、あの、京都にいるのに、故郷の……北の言葉を使ったら、それはそれで、怪しまれませんか?」
江戸時代では、普通の人は基本自分の国から出ないで一生すごしたらしい。
東北出身者が京都にいたら、かえって怪しまれる気がする。
「確かに怪しいが、遊郭には全国から売られてきた娘が集まっているし、国を出る者がいないわけではない。
現に土佐出身の私が京にいるのだから」
「それは……そうですけど……」
「さっきは脅すようなことを言ったが、武家娘の身なりをしていれば、いきなり捕らえられることはないはずだ。
だが、念の為に、外に出る時は誰かと一緒に出て、外ではなるべく話さないようにしなさい。
それと、この屋敷の主が私であることも、言わないようにしなさい。
今のところ私の命を狙ってくるほど敵対している相手はいないが、用心はしたほうがいい」
「…………はい」
もともとまだ道をおぼえてないから、ひとりででかけたことはないし、知らない人と話すのは苦手だから、お店の人とも最低限しかしゃべったことがない。
だから、よけい気づかなかったのかもしれないけど。
ぼんやり考えて、ふと思い出す。
「……あの、先生」
「何かな」
「あの、大久保様は、あの後、怒ってらっしゃいませんでしたか……?」
おそるおそる問うと、先生は優しくうなずいてくれる。
「ああ、怒ってはいらっしゃらなかったよ。
忠告してくださったぐらいだから、心配はいらない」
「……そうですか……よかった……」
ほっと息をつくと、先生は真面目な顔になる。
「だが、すべての客がそうとは限らない。
君はなるべく奥にいて、客の対応はお松に任せるようにしなさい」
「……はい」
その後、先生にいろんな言葉を言ってもらって確認したら、わたしが知らない言葉は、わたしが知ってる意味が近い言葉に直されるけど、わたしがこっちに来る前から知ってた昔の言葉は、そのまま聞こえるみたいだってわかった。
『間者』とか『かもじ』とか『朝餉』とか『側女』とか『同心』とかだ。
先生は、わたしの知識を元にしてるからだろうっておっしゃったけど、私にはよくわからなかった。
神様の翻訳って、便利なのか不便なのか、よくわからない。
でも、翻訳されないと先生達と話ができなくなるみたいだから、感謝しておこう。
いわゆる言語チートですが、お雪はネット小説もラノベもゲームもマンガも知らないので、チートの概念すらわかりません。