文久二年九月(一)
岡田様が帰ってきても、わたしの生活はあんまり変わらなかった。
なんて呼べばいいか迷ったけど、お松さん達が『岡田様』って呼んでたから、同じように呼ぶことにした。
ついでに聞いてみたら、お松さん達が雇い主の先生を『先生』って呼ぶのは、岡田様がそう呼んでたかららしい。
わたしも未来で心の中でそう呼んでたから、今も『先生』って呼べるのが嬉しかった。
岡田様は、先生がでかけられる時は必ずついていって、先生が部屋にいらっしゃる時は庭で稽古をする。
先生は朝だけだけど、岡田様は屋敷で起きてる時間のほとんどは稽古してるんじゃないかって、お松さんが言ってた。
顔を合わせるのは、先生と岡田様が朝稽古をしてるところに朝餉の知らせにいく時と、先生と三人での食事の時ぐらいで、たまに屋敷のどこかですれちがっても、話しかけられることはなかった。
でも、警戒してるような視線は、いつも向けられてた。
特に先生と一緒にいる時は、すごく見られる、っていうか、にらまれた。
警戒されるのは当然だし、にらまれるだけで殴られたりはしなかったから、気にしないようにしてた。
こっちに落ちてきて半月ほどがすぎて、初めて迎えた月のものは、今までよりつらかった。
食事や生活は、以前より健康的になってるはずだけど、痛みよりめまいがひどかった。
お松さんに手当ての仕方を教えてもらって、普段してる仕事も休ませてもらって、部屋で横になる。
食欲はなかったけど、お梅さんがお粥を作ってくれるから、毎食お茶碗に半分ぐらいはがんばって食べた。
今まで一緒に食べてた先生達には、お松さんがうまく言っておくからって言ってくれた。
身体はつらかったけど、優しくしてくれる人のおかげで心はあったかくて、嬉しかった。
寝込んで三日目の夜、トイレに行った帰り、ふいに襲っためまいに視界が真っ白になった。
廊下の隅にしゃがんで、なんとかやりすごす。
ようやくおさまった頃に、背後から声がした。
「何やってる」
びくっとして、おそるおそるふりむくと、岡田様がいた。
浴衣をゆったり着てて、手に大きな酒瓶を持ってた。
この時代には、まだガラスの一升瓶はなくて、お酒はたいてい陶器の酒瓶を持ってって、はかり売りしてもらう。
土佐出身の岡田様はお酒好きで、いつも寝酒を酒瓶二つ分は飲むと、以前お梅さんがこぼしてた。
たぶん、お梅さんが食後に部屋に届けておいた分は飲んでしまって、台所におかわりを取りにいってたんだろう。
そんなことをぼんやり考えてるうちに近づいてきた岡田様は、足を止めてわたしを見下ろす。
いつも稽古してるから、かなりの筋肉質だ。
そのうえ、わたしより20センチ以上背が高いから、すぐそばから見下ろされると、かなり迫力がある。
ましてしゃがみこんでる今は、もっと大きく見えて、恐いぐらいだった。
ぎゅっと手を握りあわせて、ふるえる身体を押さえる。
「ここで、何をやってる」
岡田様の声は険しくて、トゲがあった。
この先に先生の部屋があるから、警戒されてるんだろう。
そういえば、まともに話をするのは、最初に挨拶をした時以来だ。
うつむいて深呼吸してから答える。
「……少し……めまいがして……すみません……」
「……お松が、おまえは具合が悪いと言ってたが、……先生に移るような病気じゃないだろうな」
さらに険しい声で言いながら一歩近づいた岡田様の素足が、うつむいた視界に入ってくる。
「……大丈夫、です……これは、移りませんから……」
「本当か? もし先生に移したら」
声が突然とぎれて、しばらく沈黙が続く。
「……おまえ、…………」
またとぎれた言葉に含まれたとまどいを感じて、おそるおそる顔を上げると、岡田様は、一歩下がって、気まずそうな顔で目をそらした。
ぼんやりとその顔を見上げて、ようやく思い出す。
お松さんが、剣の達人の先生と岡田様は、血のにおいに敏感だから、近づかないほうがいいって、言ってた。
たぶん、気づかれたんだろう。
やけに恥ずかしくて、頬が熱くなるのを感じた。
「……すみません……すぐ、部屋に、戻りますから……」
恥ずかしさをごまかすように言いながら、壁にすがるようにして立ち上がった。
だけど、まためまいがして、廊下に倒れこみそうになる。
「ぁ……」
「おい!」
ぎゅっと目を閉じたけど、倒れこむ途中で、がしっと肩をつかまれて、身体が止まった。
びくっとして目を開けると、目の前に、ゆるくはだけた襟からのぞく筋肉質の胸元があった。
倒れこみそうになったわたしを、岡田様がとっさに支えてくれたんだろう。
そう思う一方で、何かが、あふれそうになる。
「……おい」
答えないわたしを抱えなおすようにして、岡田様が顔を近づけてくる。
息が額にかかるのを感じたとたん、心の奥底に押しこめてあった記憶がはじけた。
押さえつける腕。
はだけた浴衣から見える胸元。
酒くさい息。
嘲うような笑い声。
「ぃやっ!」
思わずつきとばすように腕をつっぱったけど、力の入らない腕では、身体を離すこともできなかった。
逆に足が滑って倒れこみそうになって、さらに強く抱えこまれて、さらにパニックになる。
「お、おい」
「いや、いや、はなしてっ」
必死にもがいて、逃げようとするのに、逃げたいのに、逃げられない。
「おい、暴れるなっ」
「いやあっ」
「何をしている」
ふいに聞こえた声が、一瞬頭を冷やした。
声がしたほうを見ると、先生が厳しい顔で近づいてくるのが見えた。
「ぁ……」
腕をつかんでた力がゆるむ。
ふりはらうようにして、一歩踏みだす。
「せんせ……っ」
前のめりに倒れこみそうになったけど、先生がしっかりと受けとめてくれた。
先生の着物を強くつかんですがりつくと、そっと背中を撫でてくれる。
「……もう大丈夫だ」
優しい声で囁かれて、全身から力が抜ける。
へたりこみそうになったけど、先生が抱えなおしてくれた。
「……何をしていた」
「……そいつが、座りこんでいたから、声をかけただけです。
立ち上がろうとして転びかけたのを支えてやったら、急に暴れだして……」
「……そうか。
お雪は私が運ぶ。おまえは部屋に戻れ」
「……はい」
頭上でかわされる言葉を、目を閉じたままぼんやり聞く。
そっと抱きあげられて、運ばれる。
やわらかなところにおろされるのを感じて、ようやく目を開けると、自分の部屋の布団の上だった。
「大丈夫かい?」
「……はい……」
優しい声の問いかけに、小さくうなずいてから、思い出す。
「あ、あの……さっきは、わたしが、あわててしまっただけで、岡田様は、悪くないんです」
「ああ、わかっている」
先生は優しく言いながら、わたしに布団をかけてくれた。
「君は、男が恐いんだろう?」
静かな問いかけに、びくっとする。
先生に、気づかれてると思わなかった。
だけど、先生だから、気づかれて当然、なのかな。
「……はい、……あの、旅館で働いてた時に、酔っぱらったお客様に、押し倒されたことがあって……」
旅館ではわたしはお客様と接するような仕事はしてなかったけど、廊下で出会ったお客様にいきなり押し倒された。
中年の大柄な男の人だったから、押さえこまれて逃げられなくて、着物の上からだけど身体を撫で回された。
すぐにその人の連れが止めてくれたから、それ以上のことはされずにすんだけど、酒くさい息とはだけた胸元と一緒に、その時の恐怖が心に刻まれてしまった。
「……それに……さらわれた時のこともあって、……よけいに、恐くなって……」
先生は、ここに来た初日以外は、わたしにふれようとしたことはないし、岡田様はわたしを警戒して距離を取ってた。
先生はお酒を飲まないし、岡田様は部屋で一人で飲むから、お酌をしたこともなかった。
竹三さんは、お梅さんのだんな様だし、小柄で穏やかな人だ。
だから自分でも意識してなかったけど。
男の人が、恐い。
「……でも、先生は、大丈夫です。
むしろ、先生に抱きしめられて、安心しました」
見上げて言うと、先生は軽く目を見開いて、だけどすぐ優しい顔になる。
「……そうか。
さあ、眠って身体を休めなさい。
眠るまでここにいるから、何も心配いらないよ」
「……はい……」
促されるままに目を閉じる。
すぐそばに感じる気配に安心して、すぐ眠りに落ちた。
二日ほどしてようやくおちついて、久しぶりに先生達と一緒に朝餉を食べた。
あの日以来初めて顔を合わせた岡田様は、わたしに近づいてこないのは前と同じだったけど、なんとなく雰囲気が違うように感じた。
ちゃんと謝りたくて、朝餉の片付けをした後、奥庭に向かう。
今日はでかける予定はないって、先生が朝餉の後でおっしゃってたから、岡田様は稽古をしてるはずだ。
おそるおそる建物の角から奥庭をのぞきこむと、岡田様が上半身裸になって、木刀で素振りをしてた。
木刀が空を切る音は、重く鋭い。
動きに合わせて、汗が飛び散る。
その熱心さは、背後から離れて見ているわたしにも伝わってきた。
朝稽古の時と違って、先生がいない時に話しかけたことはない。
邪魔しないほうがいいかな。
迷ってると、ふいに岡田様が動きを止めた。
木刀をおろして片手に持ちなおして、だけどふりむかないまま言う。
「何か用か」
びくっとして、思わず一歩下がる。
どうしてわかったんだろう。
不思議だけど、どうせ邪魔をしてしまったのなら、ちゃんと言おう。
おそるおそる近づいて、背後じゃなく斜め後ろあたりに数歩離れて立つ。
それでも顔は見えないけど、面と向かって言う勇気はないから、ちょうどよかった。
「……あの、先日は、申し訳ありませんでした」
深呼吸してから、深く頭を下げる。
そのままじっとしてると、しばらくしてから、ぽつりと声がした。
「恐がられるのは、慣れている」
その声が、なんとなく寂しそうに感じて、おそるおそる顔を上げた。
岡田様は、背を向けたままだったけど、やっぱりなんだか寂しそうに見えた。
「……あの、わたし、岡田様は、恐くありません」
おそるおそる言うと、ぴくっと背中が揺れた。
「でも、あの、わたし、……男の人が、恐いんです。
前に、働いてたところで、酔っぱらった男の人に、押し倒されたことがあって、それで、恐くて、だから、あの時も、恐くなってしまって、でも、岡田様が、恐かったわけじゃ、ないんです。
わたしを、助けようとしてくださったのは、わかってます。
だから、岡田様は、恐く、ないです」
しどろもどろになりながらも、なんとか言葉をつなぐと、岡田様が少しだけふりむく。
わたしを見るまなざしには、いつもの険しさはなかった。
「…………変な女だ」
苦笑っぽい顔で言われて、どきっとする。
岡田様のやわらかな顔を見たのは、初めてだった。
「……先生は、違うのか」
「……え?」
問いかけの意味がわからず見上げると、岡田様は目をそらしてぼそぼそ言う。
「男が恐いと言うが、あの時おまえは、先生にすがっていた。
先生は、平気なのか」
「あ……はい、先生、ですから」
思ったままを言うと、岡田様は一瞬不思議そうな顔をして、だけどすぐ納得したようにうなずいた。
「そうか、先生だからか」
「はい」
先生を男の人だと思ってないわけじゃないけど、『先生』だから、恐くない。
出会う前の憧れは、一緒に暮らすようになって、はるかに強くなった。
わたしにとって、先生は特別で、唯一で、絶対の、すごい人だ。
岡田様にとってもそうだから、納得してくれたんだろう。
「……話は、それだけか」
「あ、はい、あの、稽古の邪魔して、申し訳ありませんでした。
どうぞ、続けてください」
「……ああ」
もう一度頭を下げて、その場を離れる。
背後からは、また素振りの音が聞こえてきた。
わたしが近づく前と変わらないその音に、なぜかほっとした。