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文久二年閏八月(三)

「……百五十年先の未来、か。

 なるほど、そう考えれば辻褄が合う」

 ひとりごとっぽい声に、おそるおそる視線を上げる。

 先生は、静かな顔で、わたしを見てた。

 目が合って、思わずぱっと顔を伏せてしまうと、優しい声が言う。

「そんなに恐がらなくていい。

 私は君の言葉を信じると、昨日言っただろう」

「……すみません……」

 誰かと目が合うと、にらまれたりどなられたりすることが多かったから、目が合うのは苦手だ。

 背が低いせいもあって、つい相手の目じゃなくて顎のあたりを見てしまう。

 深呼吸してきもちをおちつけて、でもやっぱり顔を上げられなくて、うつむいたまま言った。

「……でも、あの、……わたし自身、ほんとにそうなのか、よくわからないんです……」

 一番現実的な答えが『タイムスリップ』だなんて、おかしすぎる。

「そうか。

 だが、君の持ち物を見れば、少なくとも日本よりはるかに進んだところから来たことは理解できる」

「え……?」

 意味がわからなくて、おそるおそる顔を上げると、先生は懐から手拭を取り出した。

 掌に乗せてわたしのほうにさしだし、そっと開く。

「あ……」

 そこにあったのは、わたしの時計だった。 

 ほしかったけど、買ってほしいなんて言えないし、自分で買うお金も持ってなかったから、本家の子が腕時計のバンドが切れて捨てたのをこっそり拾って、紐をつけて時計部分だけ使ってたものだ。


「お松が、君を着替えさせた時に見つけたそうだ。

 高価な物のようだからと私のところに持ってきた。

 これは、時計だね?」

「……はい」

 持ってたの、忘れてた。

 帯の間に挟んでたから、落とさずにすんだのかな。

「舶来品の懐中時計を見たことがあるが、これはそれよりもはるかに薄く小さくて、なのに正確に動いている。

 他にも、君が縛られていた縄や、君の着物や、身につけていた物は、見たことがない物ばかりだった。

 君のいたところは、今よりはるかに進んだ技を持っているのだろう」

「……はい……」

「だが君は着物を着ていて、言葉もわかる。

 異国からやってきたと思うよりは、遠い未来からの日本からやってきたと思うほうが、まだ納得できる」

 わたしが知ってる日本では、着物着てるほうの人が少なかったし、言葉もよくわからない感じのが流行ってたけど。

「……納得できる、んですか……?」

 思わず言うと、先生は苦笑っぽい顔になる。

「すべてに、というわけではないがね。

 神隠しにしても、なぜそんなことが起きたのかという謎は残る。

 だが、君が未来からやってきたと言うのなら、私はそれを信じて、そのことを踏まえたうえで、話を進めよう。

 ……江戸時代は終わったと、言ったね。

 江戸というのは、武蔵国の江戸の町のことかな」

「……あ、ええと……」

 そうだ、『江戸時代』っていうのは、後の時代になってからつけられた呼び方だったんだ。

 当時のことを理解したくて、日本史とか風俗史とかの本も読んだのに、すっかり忘れてた。


「……江戸時代っていうのは、この時代のことで、えっと、……あ、あの、今は、文久二年、で合ってますか?」

 そこを確かめとかないとよけいこんがらがるから、おそるおそる聞くと、先生はちょっと驚いたように目を見張ってから、うなずいた。

「ああ、文久二年の閏八月の末だ」

 じゃあ、先生が京にやってきてすぐってことだ。

「……江戸っていうのは、町のことでもあるんですけど、徳川幕府が日本を支配してた二百年ぐらいのことを、わたし達は江戸時代って呼んでたんです」

「……では、徳川の御世は、君の時代よりはるか前に終わったということかい?」

 真剣な顔で聞かれて、こくんとうなずく。

「はい……」

「……終わるのはいつか、今から何年後なのか、わかるかい?」

「…………それ、は……」

 言っても、いいのかな。

 でも、信じてもらうには、言うしかない。

「……慶応三年、今から、六年後、ぐらいです……」

「……六年……」

 噛みしめるように言ったきり、先生は黙りこんでしまった。

 いろいろ考えてるんだろう。

 どうしたらいいかわからなくて、黙って待つ。


 しばらくして、先生は大きく息をついて、わたしを見た。

「君は歴史に詳しいようだが、君の時代の人は皆そうなのかな。

 それとも、君が特別詳しいのかい?」

「いえ、あの、わたしは、特別ってほどじゃなくて、本を読んで勉強したぐらいです。

 でも、幕末、あ、徳川幕府が終わる前の十五年ぐらいが、幕末って呼ばれてたんですけど、幕末に興味があったから、いろいろ調べてて、だから、ちょっとだけ、詳しいです」

「……もしかして、私のことも、詳しいのかな」

 静かな問いかけに、どきっとする。

「昨日名乗った時、君は驚いたような顔をしたから、もしかしてと思ってね」

「…………はい」

 言い訳を思いつかなくて、こくんとうなずく。

「えっと、土佐藩の上士格の白札郷士で、奥様の名前は富子さんで、鏡心明智流の塾頭で、土佐勤王党の党首で、尊王攘夷をめざしてる……んですよね」

 おそるおそる言うと、先生はゆっくりうなずいて苦笑する。

「……ああ。

 ……私以外に、君が知っている幕末の人物で、私が知っていそうな者はいるのかな」

「えっと、あの、先生の弟子の岡田以蔵さんとか、親戚の坂本龍馬さんとか、でしょうか」

「ああ、二人ともよく知っているよ。

 つまり私達は、歴史書に載って後世に伝えられているということなのかな」

「はい……」

「そうか……どんなふうに伝えられているのか気になるが、私の話は後にしよう。

 今は君の話だ」

「あ……はい」

 静かに言われて、びくっとして姿勢を正す。


「君は、元いたところに、帰りたいかい?」

「…………」

「昨日私は、君が元いたところに帰れるよう手伝うと言ったが、百五十年先の未来では、難しそうだ。

 文献を調べてみるが、望みは薄いだろう。

 ……それでも、君は、帰りたいと思うかい?

 どうしてももう一度会いたいと、思う人がいるかい?」

 静かな言葉が、心に刺さる。

「…………いいえ」

 うつむいて、小さく首を横にふった。

「帰りたいと、思いません。

 会いたいと思う人も、いません。

 会えないのが悲しいと思う人もいないし、……わたしがいなくなって、迷惑だと怒る人はいるだろうけど、悲しむ人は、いないと思います……」

 祖父の家の人達も、旅館の先輩達も、グズで馬鹿なわたしを嫌って、いじめて、ストレス発散のはけ口にしてた。

 イヤミを言われるのも、服で見えないところをつねられたり殴られたりするのも、いつものことだった。

 それでも、他に行くところがなかったから、死にたくなかったから、我慢した。

 祖父も、旅館の女将さんも、地元の警察の偉い人と仲が良かったから、もしどこかに逃げ出したとしても、きっとすぐ連れ戻された。

 特に旅館では、逃げて、だけど連れ戻されて、ひどい折檻を受ける人を見せられたから、逃げることを考えられなかった。


「だったら、ここで生きていくことを考えるといい」

 静かな声で言われて、おそるおそる顔を上げる。 

 先生は、やっぱり静かな顔で、わたしを見てた。

「君は、何かしたかったことはあるかい?」

「……したかったこと、ですか……?」

「そうだ。

 宿屋で働いていたのは、君が望んだことではないようだからね。

 他にしたいことがあったなら、私が後見人となって、願いをかなえる手伝いをしよう」

「……したい、こと……」

 くりかえしてみても、何も思いつかない。 

 しいて言えば、先生のことをもっと調べてみたかったけど、今先生に会ってるんだから、願いはかなってる。

「思いつかないかい?」

「……はい……」

「そうか。すぐには無理かもしれないな。

 では、質問を変えよう。

 君にとって、幸せとはなんだい?」

「……幸せ……」

「そうだ。君が幸せだと思えるのは、どういう時かな」

「……食べる物と着る物と寝るところがあって、わたしをいじめる人がいなかったら、幸せ、です」

 思いついたことをそのまま言うと、先生はなぜか、悲しそうな顔になった。

 だけどすぐ静かな顔に戻って、わたしを見つめる。

「……そうか。

 ここにいれば、食べる物と着る物と寝るところはあるし、君をいじめる者がいたら私が守ってあげよう。

 私は君の味方だ。

 何も心配はいらない。

 だから、それ以外の幸せを考えてごらん」

 静かな、だけど力強い声で言われて、目を見開く。

 じっと見つめてた先生が、ふいにぼやけた。

「……っ」

 手にぽたっと雫が落ちて、ようやく自分が涙を流してることに気づく。

「……すみ、ませ……」

 あわててうつむいて、松さんから渡されて袂に入れてた手拭で、目元を押さえた。

 それでも、止まらない。

「……どうしたんだい?」

「……すみません、うれしく、て……」

 困ったような問いかけに、なんとか答えようと、必死に言葉をつなぐ。

「……今まで、わたしの、味方だって、言ってくれた、ひと、だれ、も、いなかったから、ずっと、ひとり、だったから、……うれしくて……、すみません……」


 祖父の家では、権力者の祖父の意見に逆らえる人はいなくて、祖父が認めないわたしは、誰からも認められなかった。

 学校でも、地元の有力者の祖父に逆らおうとする人はいなくて、先生達はわたしを見ないふりしてた。

 旅館でも、女将さんがわたしを嫌ってたから、優しくしてくれる人はいなかった。

 ずっと、ひとりだった。

 帰りたいと思わないぐらい、会いたいと思う人がいないぐらい、ひとり、だった。

 なのに、昨日会ったばかりの先生が、味方だって、言ってくれた。

 ずっと尊敬してた先生が、言ってくれた。

 嬉しくて嬉しくて、涙が、止まらない。



「……すみません……」

 ようやく涙が止まったのは、それから五分ぐらいしてからだった。

 恥ずかしくてうつむいたまま小さな声で謝ると、先生は優しい声で言う。

「いや、悲しい涙でなかったのなら、かまわないよ」

「……はい」

「話の続きをしてもいいかな」

「……はい、すみません……」

 もう一度目元を拭ってから、顔を上げる。

 先生は、変わらず優しい顔でわたしを見てくれてて、ほっとした。

「では、もう一度言おう。

 今君が考える幸せは、私が保障しよう。

 だから、それ以外の幸せを考えてごらん」

 優しい声で言われて、考えてみる。

「…………わたし、たぶん、崖から落ちた時に、死んだんです。

 その時、もし生まれ変われるなら、もう少し優しい人生だといいなあって、思ったんです」

「……そうか」

「はい。

 でも、なぜか、生まれ変わるんじゃなくて、ここに、この時代に、落ちて、きたんです」

「……ああ」

「だから、もし、できるなら、……未来を、変えたいです」

 それは、なんとなく口から出た言葉だった。 

 だけど、心にぴったりくる気がした。

 平成の時代のわたしが江戸時代にタイムスリップした時点で、歴史は変わり始めるのかもしれない。

 わたし一人ぐらいでは、影響ないのかもしれない。

 それでも、できることなら。

 未来の日本を、変えたい。

 戻りたいわけじゃないけど、未来の日本に、もう少し優しい国になってほしい。

 そのために、先生のお手伝いをしたい。

 今が文久二年なら、先生が切腹させられるまで、後三年ぐらいある。

 先生なら、わたしが知る歴史を伝えたら、切腹をさけられるように行動できるはず。

 先生が生きのびて、先生の考える改革が成功したなら、きっと、日本はもっといい国になるはずだ。


「……わたしに、先生のお手伝いをさせてください。

 わたしが知る歴史が、どれぐらい本当になるかはわからないけど、それでも、少しは役に立つと思います。

 だから、先生のお手伝いをさせてください。

 お願いします」

 姿勢を正して、三つ指をついて、深く頭を下げる。

 髷を結った頭が重くて、ちょっとくらっとしたけど、我慢してそのままじっとしてると、静かな声がした。

「頭を上げなさい」

「……はい」

 おそるおそる顔を上げると、先生は、優しい顔でわたしを見てた。

「こちらからもお願いするよ。

 君の知る話は、我々の今後にとても役立ちそうだ。

 だからここで、この時代での生き方を学びながら、私に未来のことを教えてくれないだろうか」

「……っ、はい!

 よろしくお願いします」

 嬉しくて、思わず大きな声が出る。 

 先生はちょっと驚いたような顔をして、でも優しく笑ってくれた。

 

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