文久三年三月(四)
以蔵様の拳から、そっと手を離す。
宙に浮いた指先を引くより早く、以蔵様につかまれた。
びくっとすると、以蔵様は両方の手でわたしの手を包みこむ。
わたしの手は、以蔵様の大きな手の中に、すっぽりおさまってしまった。
「……この時代の生まれじゃなくても、武士の家系じゃなくても、おまえが、心の底から先生を尊敬して慕ってると知ってる。
俺が知る女の中で、俺と同じぐらい先生を尊敬していると認められるのは、先生の奥様と、おまえだけだ。
今まで誰に何を言われたんだとしても、今は、俺と先生が、おまえを認めてるんだ。
自分をけなすようなことを言うな」
諭すような静かな声で言われても、握られたままの手が気になって、何も答えられない。
恐くは、ない。
むしろ、嬉しい。
だけど、どうしたらいいかわからない。
「俺も、おまえが妻なら、嬉しい。
諦めるつもりだったが、おまえが俺を望んでくれるなら、なのに我慢しようとするなら、諦めるのはやめた」
何かがふっきれたような、さっぱりした口調で言った以蔵様は、優しい顔でわたしを見つめる。
「俺の妻になってくれ」
「……………………」
こっちに落ちてきて先生に初めて会った時以上に、現実感がない。
だけど、手を包むぬくもりは消えなくて、わたしをまっすぐ見つめる目も揺るがない。
夢だとしか思えない現実に、もう何がなんだかわからなくなる。
「返事をくれ」
あまりにも優しい声で言われて、うっかりうなずきそうになって、あわてて首を横にふった。
「だめ、です、無理です……」
「なぜだ」
「だって、えっと、あの、……そうだ、確か、武士の結婚は、藩の許可がいるんですよね……?
だったら、未来から来たわたしでは、許可がおりるはずないです……」
思い出したことをなんとか言うと、以蔵様はちょっと驚いたような顔をしてから、小さくうなずく。
「確かに、武士の結婚は、藩庁に届け出て許可をもらう必要がある。
だが、先生のように身分が高いならともかく、身分が低い俺なら、とやかく言われることはない。
下級武士は、結婚相手が町人の娘でも農民の娘でも、知りあいの武家の養女にしてもらった後でなら、黙認されている。
先生も、最初はおまえを親戚筋の養女にして誰かに嫁がせるつもりだとおっしゃっていた。
お願いすれば、どなたかに頼んでくださるだろう」
そういえば、わたしが読んだ本にも、身分違いの場合は誰かの養女にしてもらってから結婚するっていうようなことが、書いてあった。
「……でも、やっぱり、だめ、です、わたしなんかを、妻にしたら、以蔵様が、悪く言われてしまいます……」
「自分をけなすようなことを言うなと、言っただろう。
陰口を言われるのは慣れているから、かまわない」
「え……?」
ぼんやり見上げると、以蔵様は苦笑いを浮かべる。
「俺は身分が低くて剣の腕しか取り柄がないのに、先生が目をかけてくださってるから、先生の弟子にしていただいた時からずっと、陰口は言われ慣れている。
今更それが多少増えたところで、気にならない。
それに、その程度の覚悟もなくおまえを妻にしたいと言ってるわけじゃない。
おまえの長所も短所も、おまえを妻にする利点も難点も、全てわかったうえで、それでも、おまえがいいんだ」
「…………」
静かだけど力のこもった言葉に、何も言えなくなる。
ぼんやり見つめてると、以蔵様は包みこむように握ったわたしの手の甲を、そっと撫でてくれる。
「他にもあるなら言え」
「……え……?」
「嫁ぐ相手が俺なら嬉しいと言ったくせに、返事をためらう理由だ。
全部言え。全部消してやる」
「…………」
ためらう、理由。
わたしではだめってことは、もう言ったっけ。
まともに動いてない頭を、なんとか動かす。
「……ご家族が、反対なさると思います……」
「俺の家族は、むしろ喜ぶだろうな。
長男なのにこの年まで独り身で、縁談も全て断っていたから、相手が誰だろうと大喜びするだろう」
「……でも、だったら、わたしじゃなくても……」
「俺が妻にしたいと思うのはおまえだけだから、他の女では意味がない」
きっぱり言った以蔵様は、ふと迷うような顔になる。
「……おまえが知る歴史では、俺には妻がいたのか?」
「……え……? いえ、わたしが知ってる限りでは、いなかったです……」
「そうか、だったら歴史が証明してくれているんだな」
ほっとしたように言われて、きょとんとする。
「何がですか……?」
「俺が妻にしたい女は、この時代にはいなかったということだ」
そういう、ことに、なるのかな。
「他にはないのか?」
以蔵様が、またわたしの手を撫でてくれながら言う。
優しい手つきに、きもちを持ってかれそうになって、必死に考える。
「……身元が怪しいわたしでは、土佐藩の人や、土佐勤王党の人に、反対されると、思います……」
「藩の奴らは、さっき言ったように、おまえを誰かの養女にしてもらえば、問題ない。
土佐勤王党の奴らは、党首である先生がおまえを気にいってらっしゃるんだから、やはり問題ない。
俺が何か言われて気になるのは、先生だけだが、おまえとの縁談を勧めてくださったのは先生だから、なんの問題もない。
他の誰に何を言われようと、気にしない」
「…………」
確かに、わたしも、先生が味方してくださるなら、誰に何を言われたって、気にならないけど。
「もう終わりか?」
優しい顔と声で言われて、優しく撫でてくれる手を見つめる。
優しくされて、嬉しいのに。
苦しい。
嬉しくて、苦しくて、あふれたきもちが、涙になってこぼれ落ちた。
「……やっぱり、だめです、だって、わたしは……いらない、人間、なんです。
親にさえ捨てられた、誰にも必要とされない、誰にも好きになってもらえない、ゴミ屑なんです……っ」
やっと自覚する。
以蔵様が、好き。
だからこそ、だめだ。
わたしは、以蔵様に、ふさわしくない。
握られた手を引きぬこうとしたけど、それより早く、しっかりと握りしめられた。
痛くはないけど、ふりほどけない強さで、包みこまれる。
「おまえにそう思いこませた奴らこそが、本当の屑だ」
何かをこらえてるみたいな、凄みのある低い声にびくっとすると、以蔵様は身体の中から何かを逃がすみたいに、ゆっくり深く息を吐いた。
静かな顔に戻って、わたしを見つめる。
「……確かに、おまえが生きていた未来では、おまえを必要とする者は、いなかったんだろう」
「……っ」
自分で言ったことなのに、以蔵様に言われると、すごく苦しいのは、どうしてだろう。
思わずもう一度手を引きぬこうとしたけど、もう一度握りしめて止められる。
「だから、神仏はおまえをこの時代に、ここに連れてきたんじゃないのか?」
「……え……?」
「俺が、いや、俺や先生やお松達が、おまえを必要として、おまえを好きになるとわかっていたから、神仏はおまえをここに連れてきたんだろう。
おまえは、幸せになるために、ここにやってきたんだ。
だから、幸せになることを恐がるな。
もっと幸せになっていいんだ」
以蔵様は、わたしの手を片手で握りなおすと、もう一方の手をゆっくり伸ばして、わたしの頬をつたっていた涙を指先でそっとはらってくれる。
「…………」
そんなふうに、考えたことなかった。
だけど、確かに、こっちに来て以来、出会った人のほとんどが、優しくしてくれた。
毎日すごく幸せだった。
先生や以蔵様の未来が心配だったけど、時々は恐いこともあったけど、それでも、幸せだった。
「おまえが自分をだめな人間だと言うなら、俺もだめな人間だ。
最初はおまえを疑って警戒していたし、やつあたりでおまえを傷つけたし、恐い思いもさせた。
守りたいと思っていたのに、今日は空回りして離れて、怪我をさせてしまった。
身分は低いし、財産はないし、剣の腕しか取り柄がない乱暴者だ。
幕府の奴らからすれば、武士のくせに倒幕を企てる党の一員で、天誅にも参加していた俺は、最低の屑だろう」
「そんな、以蔵様は」
言いかけた言葉を、また両手で包みこむように手を握られて遮られる。
「言わせてくれ。
俺は、良い夫になれるような男でもない。
俺と結婚したら、ここでのような、穏やかで気楽な生活はさせてやれないだろう。
苦労も心配も多いだろうし、危険なめに遭うかもしれない。
もしもおまえが知る歴史のとおりに、先生や俺が捕らえられたら、おまえにも被害が及ぶかもしれない。
……本当は、俺以外の相手と結婚したほうが、おまえは平穏な暮らしができるとわかっている。
だから、おまえのきもちを聞くまでは、諦めるつもりだった。
だが、おまえが自分を否定して俺を拒もうとするなら、遠慮はしない」
以蔵様は、じっとわたしを見つめて、優しく微笑んだ。
「おまえが好きだ。
俺にはおまえが必要なんだ。
だから、俺の妻になってくれ」
まっすぐな言葉が、今まで投げつけられた言葉達にぼろぼろに裂かれた心に沁みこんで、埋めていく。
わたしの手を包む大きな手から伝わってくるのと同じ、あったかいものが、心を満たしていく。
いいのかな。
このぬくもりにすがっても、いいのかな。
だけど、わたしは、なのに、でも、だって、だから。
言葉の切れ端が、頭の中をぐるぐるかきまわす。
その中から、ふいに何かが浮かびあがった。
「……お願いを、しても、いいですか?」
「ああ。なんだ?」
「何があっても、たとえわたしが死にかけてたとしても、先生を優先すると、約束してくださいますか……?」
以蔵様が好き。
それでも、わたしの中では、先生が一番。
きっと、以蔵様にとっても、先生が一番。
それが揺らぐような関係には、なれないし、なりたくないし、続かないだろう。
おそるおそる見つめると、以蔵様は驚いたような顔をして、だけどしっかりうなずいてくれた。
「約束する。
そのかわり、おまえも同じようにすると約束しろ」
「……はい。約束します」
そっともう一方の手を伸ばすと、以蔵様はわたしの手を包みこんでた手をいったん離し、改めて両手を握ってくれた。
「俺の妻に、なってくれるな?」
「……はい」
「ありがとう」