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文久二年閏八月(二)

 暗闇の中で目をさます。

 慣れてるけど、なんだか、何かが、違う気がする。

 よくわからないまま、いつもの癖で壁に手をついて身体を起こそうとする。

「ぇっ」

 だけど、手が当たるはずの壁はなくて、横向きに倒れこんだ。

「ぃたっ」

 変に身体に力がかかったのか、手首と、足の裏もずきっと痛んだ。

「失礼いたします」

 ふいに女の人の声がして、びくっとすると、襖が開く音がして、右奥のほうがぼんやり明るくなった。

 手に灯りを持った着物の女の人が静かに歩いて近づいてきて、わたしの横に膝をつく。

「どうかなさいましたか」

 心配そうに言われて、あわてて身体を起こした。

「いえ、あの、ごめんなさい、なんでもないです、急に動いて、ちょっと傷が痛かっただけなんです」

「そうでございましたか。まだ痛みますか?」

「あ、いえ、だいじょぶです……すみません……」

「いえ、よかったです。

 喉は渇いてらっしゃいませんか?

 湯冷ましをお飲みになりますか?」

「あ……すみません、いただきます……」

「かしこまりました」

 女の人は少し離れたとこに手に持ってた灯りを置いて、布団の枕元にあったお盆の前に座る。

 素焼きのとっくりっぽい瓶から、湯呑に水を半分ほどそそいで、両手で持ってさしだしてくれた。

「どうぞ」

「ありがとうございます……」

 おそるおそる出した両手で受けとって、そっと口をつける。

 ぬるい水にほっとした。

 全部飲んで息をついて、ようやく思い出す。

 そうだ、この人は、松さん、だ。


「おかわりはいかがですか?」

「あ、いえ、もういいです、ありがとうございました」

「いえ」

 松さんはちょっと笑ってわたしから湯呑を受け取ると、お盆の上に戻す。

「そろそろ暮れ六つ刻ですが、お食事はいかがなさいますか?」

「え……あの……、あんまり、食欲なくて……」

「ではお粥をお持ちしましょう。

 四半刻ほどお待ちください。

 その間そばを離れてもよろしいでしょうか」

「あ、はい、だいじょぶです、すみません……」

「これが私の勤めですから、気になさらないでください。

 灯りはつけていったほうがよろしいですか?

 もう一度お休みになりますか?」

「あ、えっと、あの、じゃあ、つけといてもらえますか?」

「かしこまりました」

 小さな灯りを手に立ち上がった松さんは、部屋の隅にあった何かに近づく。

 しばらくすると、それがぽうっと明るくなった。

 あんどん、かな。

 先輩が休憩時間に見てた時代劇で、見たことある気がする。

 弱いけど、あったかい色合いだ。

「では、しばらく失礼いたします」

「はい……」

 静かに松さんが出ていって、襖が閉まる。

 眠くはなかったけど、横になって、布団をかぶる。

 狭い部屋の狭い二段ベッドでの暮らしが長かったから、周囲に広い空間があるのは、なんとなくおちつかない。

 深く息を吐いて、身体を丸めて目を閉じて、ゆっくり考えてみる。

 

 起きても、何も変わらなかったってことは。

 これは、やっぱり現実なんだろうか。

 ここは、京都のお屋敷で。

 わたしを助けてくれたのは、武市先生。

 だとしたら、今は幕末、黒船がやってきて攘夷に揺れる時代のはず。

 つまりは。

「タイムスリップ……?」

 夢を見てるっていうより、現実感がないけど。

 夢じゃないなら、タイムスリップしたことになる。


 わたしが幕末が気になったのは、『坂本龍馬が暗殺されてなかったら、今の日本はもっと違う姿だったはずだ』って、誰かが言ってるのを聞いた時から。

 もし○○なら、っていう仮定は、歴史の話ではよくあることみたいだけど、たった一人の生死が歴史を変えるって言われるなんて、すごいと思った。

 図書館に通って、いろいろな本を読んで、幕末の人物について調べた。

 その中で、一番好きになったのが、武市先生だった。

 文武両道で、尊皇攘夷をめざして土佐勤王党を作り、坂本龍馬にも影響を与えた。

 志半ばで投獄され切腹させられたけど、ある意味最後まで自分の意志を貫きとおした、すごい人だ。

 政敵を暗殺する非情なところがある一方で、子供ができなくても離婚せず奥さんを大事にする誠実な人柄だったらしい。

 その強さと優しさに、憧れた。

 図書館に通って、いろんな本を読みあさって、武市先生の情報を探した。

 インターネットで検索したら、もっといろんな情報があるらしいけど、わたしはパソコンも携帯も持ってなかったし、図書館のパソコンはいつも行列が出来てたから、がんばって本で調べた。

 わたしはものおぼえが悪くてよく怒られたけど、武市先生に関することだけは、すぐおぼえられた。

 会えるはずがない人だから、会いたいと思ったことはないけど、それでも憧れてた。


 その武市先生と、今同じ屋敷にいる。

 

 ふいに思い出す。

 あの男の人達に攫われる前、コンビニめざして歩きながら、いつものように武市先生のことを考えてた。

 もし武市先生や坂本龍馬が死んでなかったら、日本はどんなふうに変わってたんだろうって、考えてみたけど、政治も経済もわからないわたしには、想像がつかなかった。

 それでも、もう少し楽な暮らしができてたかもしれないって、思った。

 武市先生がめざした改革が成功してたなら、きっと、もう少し優しい国になってたはずだ。

 そうだったらよかったなって、思った。


 ……あの、時も。

 崖から落ちて、死を覚悟した時も。

 もし生まれ変わることができるなら、もう少し優しい人生がほしい。

 そう思いながら、目を閉じたら。

 武市先生が生きてる時代に、落ちた。

 

 タイムスリップが、偶然起きるとは思えないから、誰かの、神様の、しわざなんだろう。

 それは、神様の、優しさ、なのかな。

 あんなふうに死んだわたしを哀れんで、武市先生のところに連れてきてくれたのかな。

 だけど、わたしより悲惨な死に方をした人は、たくさんいたはず。

 その人たちが皆タイムスリップしてたなら、もっと話題になってるはずだけど、わたしは聞いたことない。

 わたしが知らないだけで、本当は珍しくないことなのかな。


「失礼いたします」

 ふいに聞こえた声に、びくっとして起きあがる。

 さっき松さんが出ていったのとは違うほうの、左奥あたりの襖が開いた。

 入ってきた松さんは、わたしを見てちょっと笑って、持ってたお盆を枕元に置く。

「お粥をお持ちしました」

「あ、ありがとうございます……」

 松さんは、右奥の襖から隣の部屋に行って、すぐ戻ってきた。

 上着っぽいものをわたしの肩にふわっとかけてくれてから、枕元に座った。

 小さな土鍋みたいなものからお茶碗にお粥を軽くよそって、木のれんげと一緒に渡してくれる。

「どうぞ、熱いから気をつけてくださいね」

「はい……」

 そういえば、お粥って、味見以外で食べるのは初めてかもしれない。

 見た目は、現代でわたしが作ってたお粥と、たいして違わないみたいだ。

 れんげで軽くすくって、息を吹きかけてさましてから、おそるおそる口に運ぶ。

 ほんのり塩味がして、じんわりおなかがあったかくなる。

「お味はいかがですか」

「……おいしい、です……」

「お口に合ってよかったです。

 おかわりもありますから、ゆっくりお食べください」

「はい……」

 少しずつ食べるわたしを、松さんは黙って見守ってくれる。

 今まで、大人の女の人に、こんなに優しくされたことなんてない。

 緊張したけど、なんとかこぼさずに食べきることができた。


「ごちそうさまでした……」

「おかわりはよろしいですか?」

「はい、ごめんなさい、もうおなかいっぱいです……」

 わたしは元から小食だし、今は頭パンクしそうなせいか食欲も感じないから、本当におなかいっぱいで、苦しいぐらいだ。

「……かしこまりました。

 ではまたおなかがすかれましたら、お申し付けください」

「はい、すみません……」

「いえ。

 お休みになられますか?」

「はい……」

 おなかがいっぱいになって、身体があったまったせいか、急に眠くなってきた。

 松さんはわたしの肩にはおらせたものを取ると、身体を支えて横にならせて、布団をきちんとかけてくれた。

「私は隣の部屋にひかえておりますから、御用の際はお呼びください」

「……でも、あの、ずっといてもらうのは、申し訳ないので……」

 見上げると、松さんは優しい顔で言う。

「隣が、私の部屋なんです。

 自分の部屋にいるだけですから、気になさらないでください。

 もしかしたら、ぐっすり寝ていて気づかないかもしれませんから、その時は遠慮なくたたき起こしてください」

 さっきまでよりちょっと軽い口調で言われて、ほっとした。

「……はい」

「では、おやすみなさいませ」

「おやすみなさい……」

 松さんが出ていくと、すぐ眠気に負けて、目を閉じた。





 次に目がさめたのは、朝だった。

 ぼんやりしてると、松さんがやってきて、またお粥を持ってきてくれた。

 また軽く一杯分しか食べられなかったけど、松さんは特に何も言わずに、わたしが渡したお茶碗をお盆に置く。

「お身体の具合はいかがですか?

 体調が良いなら、話をしたいと先生がおっしゃっておられました」

「あ……」

 そういえば、あれからずっと寝てばっかりだった。

 話の途中でわたしがぼんやりしちゃったから、寝かせてくれたんだよね。

 何を話したらいいかはよくわからないけど、でも、話をしなきゃ。

「だいじょぶ、です。

 あの、わたしの着物、どこですか?」

 昨日松さんに脱がされた着物は、部屋の中には見当たらなかった。

 松さんが預かってくれてるのかな。

「お嬢様の着物は汚れておりましたから、今洗っております。

 かわりを用意いたしましたので、そちらをお召しください。

 でもその前に身支度をいたしましょう。

 まずはお手水ですが、足の怪我はいかがですか?」

「……あ、平気、だと思います……」

 松さんの手を借りながら、おそるおそる立ち上がる。

 足の裏がちょっと痛かったけど、我慢できないほどじゃなかった。

 松さんに支えてもらいながら、おそるおそる歩いて部屋を出た。


 板張りの廊下は、きれいに磨かれてて、滑りやすそうで恐かったけど、着物ですり足に慣れてたせいか、なんとか転ばずに歩けた。

 たどりついたトイレは、和式の汲み取りだったけど、祖父の家で慣れてたから、たいして気にならなかった。

 上があいてたのは、のぞきこまれそうで恐かったけど、すぐそばで松さんが待っててくれたから、誰にものぞかれずにすんだ。

 またそろそろ歩いて部屋に戻ると、松さんが小さな盥に水を汲んで持ってきてくれたから、顔を洗った。

 盥をさげてった松さんは、今度は着物を持ってきてくれた。

 柄なしの濃いグレーで、帯は黒だった。

 旅館の制服が着物だったから、自分で着付けできるけど、松さんに渡された着物は着付け用の道具がだいぶ少なくて、どう着ればいいのかわからなかった。

 困ってたら、松さんがてきぱき着せてくれた。

 着付けのしかたが違うのか、締めつけられてる感じがなくて、身体が楽だ。

 松さんは、ついでに髪を軽く木の櫛で梳いて整えてくれた。


「おかわいそうに……つらいめにあわれたのですね。

 まだ痛みますか?」

 わたしの手と足の包帯を取りかえて軟膏を塗りなおしてくれながら、松さんが慰めるように言う。

 もしかしたら、先生から、何か話を聞いてるのかもしれない。

 聞いてないとしても、手と足に怪我をして、着物を汚して、先生に運ばれるような状態だったから、大変なめにあったと思ってるのかもしれない。

「いえ……もう平気です……」

 先生の手当てがよかったのか、手首の傷には薄いかさぶたができて、痛みもあんまりなかった。

 はずした包帯とかを持っていったん部屋を出てった松さんは、すぐに同じ年頃の女の人を連れて戻ってきた。

 知らない人を見てびくっとすると、松さんが優しく言う。

「髪結いですよ。

 髷を結わずに人前に出るのはよくありませんからね」

「……あ、でも、わたし……」

 返事に困って、思わず自分の髪をさわる。

 旅館では、さすがに髷は結ってなかったけど、結ぶのが楽だから、前髪も後ろと同じ背中のまんなかぐらいの長さにして、うなじの上で団子にしてた。

 長いと洗う時面倒だけど、冬は首筋があったかいから、子供の頃から伸ばしてた。

 それに、わたしの髪は細くてやわらかくて少ないから、きちんと団子にするには長さが必要だった。

 逃げ回ってる間に団子にしてたネットもピンもなくなってしまったから、今はおろしてるけど、この時代の女性は基本髷を結ってたはずだから、結ったほうがいいってことなんだろう。

 だけど、この長さでは、髷を結うには全然たらないはず。

「大丈夫ですよ、かもじをたせば、その長さでも結えますから」

 髪結いさんが愛想よく言って、わたしに近づいてくる。

 『かもじ』って、つけ毛のことだったかな。

「ですが切り口が少し斜めになってますから、先に切りそろえましょうね」

「……はい」

 切ってくれる人なんていないから、子供の頃から自分で適当に切ってた。

 三日前に切った時、斜めになってたのは気づいてたけど、どうせ団子にするからいいやと思ってた。

 でも髪結いさんは気になるみたいだ。

 正座して座ったわたしのまわりに、松さんと髪結いさんがいろんな道具を並べて、準備する。

「女の髪をこんなぶつ切りにするなんて、なんて悪党だろう」

 髪結いさんはぶつぶつ言いながらも、手際よく髪を切りそろえてくれた。

 どうやらわたしの髪が短いのは、誰かに切られたと思ってるみたいだ。

 ほんとのことは説明できないから、黙ってじっとしてた。



「できましたよ」

 だいぶ長い時間がすぎて、ようやく髪結いさんが満足そうに言う。

 べっとりした油をつけられたりひっぱられたり縛られたり重くなったりで、座ってるだけでもなんだか疲れたから、その言葉にほっとする。

 松さんが、足のついた丸い鏡をわたしの前に置いてくれた。

 鏡はくもってて見にくかったけど、髪がふんわり丸い形に結われて、かんざしっぽい飾りとかもつけられてるのがわかった。

「……ありがとうございます」

「いいええ、ちょっとかもじ多めなので重いかもしれませんけど、我慢してくださいね」

「はい……」

「ありがとう、急に呼んで悪かったわね」

「お得意さんだもの、いいわよ」

 松さんと髪結いさんは知りあいなのか、気楽な口調で話してたけど、わたしを見ると、松さんはきちんと姿勢を正して改まった口調で言う。

「では、先生にお嬢様の支度ができたと伝えてまいりますので、しばらくお待ちください」

「……はい」

 松さんが髪結いさんと一緒に出てって、ほっと息をつく。

 もうすぐ、先生に会える。

 嬉しいけど、緊張する。


 どきどきしながら待ってると、松さんが戻ってきた。

「お待たせいたしました。ご案内いたします」

「……はい」

 また松さんの手を借りながら、ゆっくり歩いて先生の部屋に向かう。

 襖の前で、松さんはわたしを壁際に立たせてから、きちんと正座する。

「失礼いたします、お嬢様をお連れいたしました」

「入りなさい」

「はい」

 松さんはすっと障子を開けると、立ち上がってわたしに手を貸してくれる。

「……失礼します」

 小さな声で言ってから、おそるおそる部屋に入る。

 昨日先生と話したのと、同じ部屋みたいだった。

 奥のほうで窓を背に座ってた先生は、わたしを見てちょっと目を見開く。

 このかっこ、おかしいのかな。

 びくびくしながら、先生の前まで歩いてって、ゆっくり正座する。

「よく似合っているね。

 お松、ご苦労だった」

「いえ」

 わたしの背後にひかえた松さんが、短く答える。

「彼女と大事な話があるから、人払いをしておいてくれ。

 呼ぶまでは誰も近づかないように」

「かしこまりました」

 松さんが出ていって、襖が閉まる。

 先生と二人きりになって、とたんに緊張が増した。


「傷は痛むかい?」

「いえ、もう平気です」

「そうか。

 着物と髷がよく似合っているね。

 武家の娘にしか見えないよ」

「そう、でしょうか……」

「ああ」

 ゆっくりうなずいた先生は、優しい顔でわたしを見てるから、なんだか恥ずかくなる。

「……ありがとうございます。

 あの、お話って、なんでしょうか」

「ああ、そうだったね。

 君のことを聞きたいんだ」

「……わたしの……?」

「ああ。

 今後の身の振り方を考えるために、君の生まれや両親や育ちのことを知りたい。

 だが、言いたくないことは話さなくていい。

 話してもいいと思えることだけでかまわないから、教えてほしい」

「…………」

 江戸時代は、身分制度が厳しかったらしいから、生まれによって今後の扱いが変わるってこと、なのかな。

 さっき『武家の娘』って言ってたから、先生はわたしを武士階級の娘だと思ってるみたいだけど、名字を言ったから、かな。

 この時代は、名字があるのは武士だけだったらしいし。

 だけど、そもそも、わたしはこの時代の人間じゃないってことを、どう説明したらいいんだろう。

 しばらく迷ったけど、とりあえず自分のことを話すことにした。


「……わたしは、秋田の……北の生まれです。

 親は、顔も知りません。

 よっつかいつつぐらいの時に、捨てられて、母方の祖父の家に、ひきとられました」

 母の実家は、山奥の土地持ちの旧家で、お屋敷といえるぐらい大きな家で、分家の人やお手伝いさんとかも一緒に暮らしてた。

 母は末っ子で、大人いわく『ふしだらな娘』で、中学を卒業した後家の金で遊びまわったあげく、かけおちして出ていったらしい。

 当主の祖父は、厳しい人で、そんな母を勘当してたから、役所の人がわたしを連れてきた時、最初は断ろうとしたらしい。

 だけど、世間体を気にして、結局はひきとってくれた。

 食事も服も分家の子達の残り物で、お手伝いさん用の離れの物置部屋に住まわされて、きつい仕事をさせられて、いろんな人にいじめられた。

 だけど、十歳ぐらいまでのことは、よくおぼえてない。

 たぶん、生きるのに必死だったから。

 『グズ』、『馬鹿』、『邪魔』、『ゴミ』、『役立たず』、『まだ生きてたの』、『さっさと死ねばいいのに』……投げつけられた言葉は、今も忘れられないのに。

 それでも、なんとか、生きようとがんばった。


「……中学を卒業、ええと、十五になった頃に、祖父の知り合いの、旅館……宿屋に、連れていかれて、それからずっと、そこで働いてました」

 思いつく言葉を、なんとか言いなおしながら、ぽつりぽつりと話す。

 最初からちゃんと言えればいいけど、わたしにはこれがせいいっぱいだ。

「わたしには名字がありますが、親がそうだっただけで、わたし自身は、もっと身分が低くて、農民……お百姓さんより下、かもしれません。

 武家の娘では、ないんです……」

 先生の反応が恐くて、うつむいて小さな声で言う。

 優しくしてくれたのは、武家の娘だと思ってたからかもしれない。

 百姓より下だとわかったら、どうなるか、恐い。


「……そうか。苦労したんだね。

 君は、武家の出ではないとしても、教養はあるように思える。

 祖父の家で教えられたのかい?」

 静かな口調で言われて、ほっとする。

「……はい……一応、学校……寺子屋みたいなところにも、通わせてもらいました」

 義務教育だったから、だろうけど。

「宿屋での年季はまだ残っているのかい?」

「……よく、わかりません。

 突然連れていかれて、ここで働けって、言われたので……」

 たぶん、売りとばされたってことなんだと思う。

 わたしの稼ぎの、半分ぐらいは祖父に送られて、残りから食費とか寮費とか小物代とか、その他よくわからない費用まで引かれた後の、平均三千円ぐらいが、わたしの『お給料』だった。

 まったくもらえない時もあったけど、わたしが壊した物や汚した物の弁償費用にしたって言われたら、文句なんて言えなかった。

 それでも、宿泊客の残り物とはいえ一日二食は食べさせてもらえたし、制服の着物は支給されたし、寮の物置の隅の狭い二段ベッドだけど寝るところもあったから、ホームレスの人に比べたらまだましな生活だったと思う。


「君が働いていた宿屋が、京の町のどのあたりだったかは、わかるかい?」

 静かな問いかけに、びくっとする。

 何度も深呼吸しながら、言葉を探す。  

「……わたしが、働いてたところは、京都じゃ、ありませんでした。

 秋田の、山奥で、……逃げ回ってた林も、落ちた崖も、その近くです」

 車で移動した時間は、十五分もなかったと思うから、県内からは出てなかったはずだ。

 先生の視線を感じながらも、顔を上げられなくて、手元を見つめたまま小さな声で言う。


「……わたしが、生きてたのは、平成と、いって、江戸時代が終わってから、だいぶ後の、時代です。

 わたしは、……今から、百五十年ぐらい先の未来から、……ここに、落ちてきたんです……」


 先生が京の三条小路の屋敷で暮らしてたのは、文久二年から三年にかけて、西暦でいうなら一八六二年から三年にかけて、だったはず。

 百五十年先の未来から来ました、なんて、秋田から京都まで瞬間移動しました、って言うより怪しい。

 だけど、わたしには、そうとしか言いようがない。

 先生は、わたしが突然現れたことは現実だと言ってくれたけど、はるか未来から来たってことは、信じてくれるのかな。

 

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