文久三年一月(二)
坂本様を加えたにぎやかな夕餉の後、台所で片付けをしてると、以蔵様がやってきた。
「お雪、先生がお呼びだ」
「…………はい」
もしかしたら、呼ばれるかもしれないって思ってたから、小さくうなずいてお梅さんに声をかけて、台所を出る。
廊下にいた以蔵様は、出てきたわたしを見て心配そうな顔になる。
「顔色が悪いぞ。
まだ具合が悪いのか?」
「……いえ、大丈夫です……」
「なら、いいが……。
ああ、龍馬のことは、気にするな。
先生のご命令どおり、近づかなくていい。
もしあいつから近づいてきて何かされたら、すぐに俺に言え」
「……はい。ありがとうございます」
さらに心配そうに言われて、小さくうなずいた。
たぶん以蔵様は、わたしが坂本様を苦手だって思ってるのに気づいてるから、かばってくださるんだろう。
坂本様には申し訳ないけど、ちょっと、嬉しい。
以蔵様とそこで別れて、先生の部屋に向かい、襖の前に座って深呼吸してから声をかける。
「失礼いたします、雪でございます」
「入りなさい」
「はい」
中に入ると、先生は上座に座って書状を広げてた。
「呼びつけてすまないな」
「いえ……御用は、なんでしょうか」
先生の前に座っておそるおそる言うと、書状をたたんだ先生は、静かに私を見つめる。
「夕餉の後で、龍馬が以蔵に勝海舟様の護衛を頼みたいという話をした後、顔色が悪かった。
何か気になったんだろう?」
やっぱり、先生には気づかれてたんだ。
うつむいて、ぎゅっと手を握りあわせる。
「……すみません」
「いや、何が気になったのか、教えてくれないか」
「…………」
わたしが知る歴史では、以蔵様が勝様の護衛をするのは、時期ははっきりわからないけど、一月に脱藩した後のことだ。
だから、以蔵様が脱藩しなかったら、起こらないできごとだと、思ってた。
だけど、坂本様がその話を持ってきた。
わたしが知る歴史でも、坂本様の紹介だったらしい。
そういえば、この時期の坂本様は、先生と縁遠くなっていたらしいけど、今は泊まりがけで訪ねてきてる。
さけられた歴史、さけられない歴史。
変わった歴史、変わらない歴史。
その違いはどこにあるんだろう。
「お雪」
静かに呼ばれて、はっとする。
「あ……すみません……」
質問の答えを探してるうちに、考えがまとまらなくてぐるぐるしてしまうのは、わたしの悪い癖だ。
「すべてを話さなくてもいい、だが、私達が気をつけるべきことがあったら、教えてほしい」
先生はあくまでも静かに、諭すように言う。
何度か深呼吸しながら、考えをまとめた。
「……今回のことは、先生は、直接は関係なかった、はずです。
ただ、以蔵様が、しばらく先生の元を離れられるのが、不安なのと、……勝様の護衛中に、刺客に襲われたっていう話が、伝わってるので、以蔵様が、心配で……」
「……そうか」
刺客は三人で、以蔵様が一人を斬り殺し、残り二人は逃げたらしい。
わかってるのはそれだけで、以蔵様が無事だったのかは、わからない。
達人の以蔵様が、殺さなきゃいけないほど強い相手だったなら、怪我をしたのかもしれない。
そう思うだけで、身体がふるえてくる。
「確かに、以蔵がいないと一人で出歩くことになるから、身辺には気をつけよう。
以蔵にも、油断しないよう言っておく。
だから、そんなに心配しなくていい」
優しい声で言われて、少しだけほっとした。
「……はい」
その後、わたしが知ってる坂本様の話をしてから、先生の部屋を出た。
台所に戻る途中で、灯りが漏れる客間の前を通って、ふと思いつく。
しばらく迷ってから、台所に行った。
夕餉の後片付けは終わってて、お梅さんはもう自分の家に帰ったみたいだった。
台所の隅にまとめて置いてある酒瓶の中から、お梅さんが一番上等だって言ってたお酒を探す。
それを大きなとっくりに入れて、燗をした。
その間に、肴になりそうなものを探す。
いくつかを小皿に乗せ、お猪口も用意して、とっくりからお銚子にお酒を移して、全部をお盆に載せた。
お銚子を揺らさないよう慎重に歩いて、客間に向かう。
襖の前で座ってお盆を置いて、何度か深呼吸してから、おそるおそる声をかけた。
「雪でございます、少しよろしいでしょうか」
「おっ? ああ、どうぞ」
「失礼いたします」
もう一度深呼吸してから、襖を開ける。
奥の壁によりかかるようにして座って、横に置いた行灯の灯りで紙に何か書いてた坂本様は、筆を置いてわたしを見て、にっこり笑う。
「てっきり嫌われたのかと思ってたけど、お雪さんのほうから来てくれるなんて、どうしたんだい?」
「……お礼を言いたくて、まいりました」
散乱する物を踏まないように気をつけて歩いて近づいて、ななめ前に座ってお盆をさしだすと、坂本様は嬉しそうに笑った。
「酒を持ってきてくれたのか! ありがとう」
「いえ、あの、少なくて申し訳ありません……」
うわばみだって、以蔵様が言ってたから、本当は酒瓶ごとのほうがよかったんだろうけど、先生や以蔵様に止められてたから、小さめのお銚子にした。
「いやいや、ないよりは全然ましだ。
うん、いいにおいだ」
坂本様はお酒をお猪口にそそいでくいっとあおると、ぽんっと膝を叩く。
「うん、うまい!
だけど、どうしてかな?
武市には止められただろう?」
「……お礼を、言いたかったからです」
「そういやさっきもそう言っていたけど、何のことだい?」
「……坂本様は、ご存知ないことなんですけど、わたしは、坂本様のおかげで、救われたんです」
坂本龍馬っていう有名人のおかげで、わたしは幕末に興味を持って、いろいろ調べて、先生を知ることができた。
先生への憧れが、あの頃のわたしを支えてくれた。
こっちに落ちてきてからも、あの頃の知識のおかげで、先生のお役に立ててる。
すべて、坂本様のおかげだ。
「……うまく、言えないんですけど、でも、本当に、感謝してます。
ありがとうございます」
三つ指をついて、深く頭を下げる。
突然こんなことを言われても、困らせるだけだとわかってるけど、それでも、どうしても、言いたかった。
ゆっくり頭を上げると、坂本様はにっこり笑った。
「なんだかわからないけど、俺が役に立てたなら、よかったよ」
「……はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
その度量の広さは、さすが坂本龍馬、なのかな。
「じゃあ、俺からもお礼を言わせてもらおうかな。
ありがとう」
お猪口を置いた坂本様は、背筋を伸ばすと、膝に手をつき、深く頭を下げた。
「……えっと、あの、何がですか……?」
お酒のお礼なら、さっき言われたし、何か違う気がする。
頭を上げた坂本様は、優しい顔で言う。
「武市と以蔵を変えてくれたからだよ。
あの二人は真面目すぎて心配だったんだが、今日会ったら雰囲気がやわらかくなってて、驚いた。
君と話してる時の二人を見て、わかったよ。
二人を変えたのは、お雪さんだ。
だから、ありがとう」
「……でも、あの、わたしは、何もしてません」
「そんなことないよ。
真面目なのは悪いことじゃないが、真面目すぎて融通がきかないと、うまくいかないことがある。
ひとつのやり方でだめなら、他を試す、手当たり次第やってみるって発想が、あの二人にはない。
それでいつか命を落としかねないと、心配だったんだ。
だが、今の二人なら、大丈夫だと思えて、安心した」
そういえば、先生が切腹させられたのは、尊王攘夷にこだわりすぎたからだっていう説を、読んだことがある。
時代の主流が開国に向かい、公武合体派に藩内の意識が傾いていた中では、土佐勤王党が弾圧されるのは目に見えてたって。
わたしが知る歴史をお伝えしたことで、先生はそれに気づかれたのかもしれない。
だけどわたしが知る先生は、いつでも優しくて、何か変わったようには思えなかったけど、わたしより先生とのつきあいがはるかに長い坂本様がそう言うなら、変わったんだろうか。
だとしても。
「……わたしは、何もしてません。
先生や以蔵様が変わられたのなら、それはお二人自身が努力なさったからだと思います」
きっかけのひとつぐらいには、なったかもしれないけど、その程度だ。
「……そうか」
わたしをじっと見つめた坂本様は、またにこっと笑う。
「俺ははちきんな女のほうが好きだと思ってたけど、普段はおとなしいけど芯は強い子っていうのも、なかなかいいものだな」
「……えっと……」
『はちきん』は、確か土佐の方言で、男勝りの気の強い女性のこと、だったはず。
代表例は、坂本様のお姉さんの乙女さん、だったっけ。
わたしがそうじゃないのはわかるけど、芯が強いっていうのも、あてはまらない気がする。
「そういえば、以蔵が君は男が恐いんだと言ってたけど、何か嫌なことでもあったのかい?」
急に変わった話題に、とまどいながらも答える。
「あの……前に働いてたところで、酔っぱらったお客様に押し倒されたことがあって、それで……」
「……なるほど」
坂本様は手にしたお猪口を見て、苦笑する。
「それは、武市も知ってるんだね?」
「……はい」
「道理で、二人して酒を飲ませるなと言うわけだ」
「あ、あの、でも、酔っぱらったからって、誰でもそうなるって、思ってるわけじゃありませんから」
あわてて言うと、坂本様はさらに苦笑して、お猪口を置いた。
「それでも、君が恐がることを少しでも減らそうとしたんだろう。
以蔵が酒をやめたと言ってたのも、君のためかな」
「いえ……それは……」
わたしのためじゃなく、先生のためだ。
だけどそれを説明するには、以蔵様が一時期酒におぼれてたことも話さないといけなくなる。
困ってると、坂本様はくすっと笑った。
「そんなに困った顔をしないでくれ。
また以蔵がわりこんでくるよ」
「すみません、でも、あの、……『また』?」
なんだか気になって聞いてみると、坂本様は笑顔でうなずく。
「そう、『また』。
夕方、君が俺をここに案内してくれた時、以蔵は君を心配して部屋の前にいたんだよ。
だから、君を助けにわりこんできたんだ」
「……あ」
あの時、やけにタイミングがいいって思ったのは、気のせいじゃなかったんだ。
「以蔵は君を大切にしてる。
武市の命令だからじゃなく、自分の判断でそうしてるように見えた。
それも、今日驚いたことだな。
俺が知ってる以蔵は、武市のことしか見てなくて、武市の命令に従うことしか考えてなかった。
だけど、あいつもやっと自分で考えることをおぼえたみたいだ。
その意味でも、君に感謝するよ。
ありがとう」
「…………それも、わたしは何もしてません。
以蔵様が変わったんだとしたら、以蔵様自身が、変わろうと努力なさったからだと思います」
坂本様はわたしを見つめて、ふんわり笑う。
「じゃあ、お互い様ってことだ」
「……え?」
「俺も君も、自分ではよくわからないことで感謝されてる。
お互い様だから、いいよね」
「あ……」
確かに、わたしは坂本様にはわからない理由で感謝してるんだから、お互い様、なのかもしれない。
ううん、お互い様ってことで、受けいれたほうがいいんだろう。
「……そう、ですね。
じゃあ、『どういたしまして』」
さっきの坂本様を真似して答えると、坂本様は嬉しそうに笑った。
「うん。
さて、本当に以蔵がどなりこんでくると恐いから、君はそろそろ戻ったほうがいい。
酒はありがたく飲ませてもらうよ」
「……はい。おやすみなさいませ」
「おやすみ」
不思議とあったかいきもちで、部屋を出た。
坂本様は、三日間泊まっていった。
以蔵様とのかけあい漫才みたいな会話が面白くて、つい笑ってしまうことが多くて、話しかけられてもあんまり緊張しなくなった。
以蔵様は、坂本様と一緒に出て、勝様の護衛をしにいった。
心配だったけど、数日後に戻ってきた時には、怪我もなくて、安心した。
やっぱり刺客が襲ってきたけど、動けない程度に倒して生け捕りにして、依頼主を聞きだしたらしい。
勝様に、護衛を続けないかって言われたらしいけど、断ったらしい。
先生への報告を横で聞いてて、ほっとした。
歴史は、少しずつ変わってきてる。
だからきっと、先生や以蔵様の死をさけることも、できるはずだ。