文久二年十二月
短いです。
先生が江戸から帰ってきたのは、わたしが知る歴史どおり、十二月に入ってからだった。
数日前に知らせが届いて以来、お松さんやお梅さんと分担して、屋敷の隅々まで掃除してぴかぴかに磨きあげた。
竹三さんも念入りに庭の手入れをして、門や塀の細かな修繕もしてた。
準備万端でお迎えした先生は、長旅のせいか少し疲れた様子だったけど、それでも、見慣れた静かな顔だった。
「ただいま」
「お帰りなさいませ。
無事のお戻りを心よりお喜び申し上げます」
玄関で皆で声をそろえて言って頭を下げると、先生は顔をゆるませる。
「皆元気そうで何よりだ。
留守中に何かあったかい?」
腰からはずしてさしだされた大刀を、袂でくるむようにして受けとる。
最初は重くてうまく持てなくて、よろよろしちゃって、先生に心配された。
この重さをまた受けとれたことが嬉しくて、ぎゅっと抱きしめる。
「いえ、特には。
先生は、お怪我などなさいませんでしたか?」
「ああ、護衛とはいえ、実際に戦うようなことはなかったからね。
あれだけの大人数では、盗賊も襲ってこないよ」
「それはよかったです」
部屋へと歩く先生の後をついていき、大刀を刀かけに置く。
旅行用の着物から普段着へ着替えられるのを手伝ってると、先生はわたしを見て真面目な顔になる。
「君は、本当に何もなかったのかい?」
「え……?」
「薩摩の大久保様から、書状をいただいた。
自分の不手際のせいでお雪に怪我をさせて申し訳ないと、詫びておられた」
「あ……」
あの後半月ほどして、大久保様はまた訪ねてきた。
平井達はおとなしくなったようだと、以蔵様を見ながらおっしゃったから、以蔵様が脅したのをご存知だったんだろう。
わたしの手の跡が消えたのを確認して、良かったが残念だと笑って、また先生の江戸での話をしてくれた。
でも、先生にあのことを伝えたとは、教えてくれなかった。
思わず部屋の隅にひかえてた以蔵様を見ると、以蔵様も困ったような顔をしてた。
「大久保様からの書状でだいたいのことは知っているが、詳しく話してくれ」
着替え終わって上座に座った先生に促されて、おそるおそる先生の向かいに座る。
以蔵様が隣に座ってくれて、少しだけきもちがおちついた。
深呼吸してから、ぽつぽつと話す。
「……十月の終わり頃に、大久保様が、わたしをお茶に誘ってくださったんです。
でも、あの、その使いの人達が、なぜか、大久保様の名前を言わなくて、とにかく来いって言われて、断ろうとしたら、無理やり連れていかれそうになったんですけど、以蔵様が、助けてくださいました」
「嫌がるお雪を肩にかついで、無理やり連れていこうとしたんです」
以蔵様が硬い声で言うと、先生の顔が険しくなった。
「……それで?」
「お松が、お雪が攫われそうだと知らせにきたので、門の前でお雪を取り返して、使いの奴らは追い出しました」
「……そうか。
怪我をしたのはどこだ?」
「あの、左手、です、でも、たいしたことなくて、もう治りましたから」
「肘の下あたりをつかまれた跡が、五日ほど残っていました」
わたしの答えに以蔵様がつけたして、先生の顔がさらに険しくなる。
だけどゆっくりため息をついて、静かな顔に戻った。
「……そうか。
本当に、もう痛みも跡もないんだね?」
「は、はい、大丈夫です」
わたしの答えに、先生はもう一度ため息をついてから、かすかな笑みを浮かべる。
「道中苦労することが多かったが、以蔵を残していって正解だったな。
以蔵、ご苦労だった」
「……はっ」
先生のねぎらいの言葉に、以蔵様は一瞬とまどったような顔をしてから、深く頭を下げる。
「そんなにご苦労なさったのですか?」
おそるおそる問いかけると、先生は疲れたような顔でうなずく。
「ああ、人数は多くても、私の意志を汲んで的確に動ける者は少なくてね。
ここに以蔵がいたらと、何度思ったことか。
だが、お雪を守ることができたなら、私の苦労は無駄ではなかったということだ」
最後はどこか嬉しそうに言われて、わたしも嬉しくなる。
「はい、先生がおっしゃられたとおり、以蔵様がわたしを守ってくださいました。
先生に苦労をさせたことは申し訳ないですが、以蔵様を残してくださって、ありがとうございました」
「私は君を守ると約束したのだから、そのために最善を尽くすのは当然のことだ。
だが、守る以上の効果があったようだね」
「え……?」
きょとんとすると、先生は優しい顔でわたしと以蔵様を見比べる。
「お互いに名前で呼んでいるんだろう?
私が江戸に行く前は、話すらまともにしていなかったようなのに、ずいぶんと仲良くなったものだ」
「あ……」
からかうみたいな口調で言われて、なぜか頬が熱くなった。
「あの、それは、大久保様の、ことがあって、それで、あの……」
しどろもどろに言葉をつなぎながら、ちらっと以蔵様を見ると、以蔵様もなんとなく赤くなって、目をそらしてた。
「そうか。
災い転じて、というところかな」
「……はい……」
「その他には、何もなかったかい?」
「あ、はい、特には何も」
何度も深呼吸して、頬の熱を散らす。
「……あの、お疲れでなければ、道中のお話を聞かせていただけませんか?」
何度か書状をもらったし、大久保様からもいろいろ教えてもらったけど、やっぱり直接先生から聞いてみたい。
「かまわないよ。
そうだな、最初の苦労は……」
先生は夕餉の支度の時間まで、道中の苦労や、江戸城での話をしてくださった。
以蔵様も一緒に聞いてたけど、なぜか硬い顔をしてたのが、なんとなく気になった。