文久二年十月(四)
「……と、まあこんなところだな」
そう言って先生の話を終えた大久保様は、二杯目のお茶を飲む。
「ありがとうございました。
先生のお話が聞けて嬉しかったです」
「そうか、まあ詫びのかわりだ」
もう一口飲んだ大久保様は、真剣な顔になってわたしと岡田様を見た。
「おまえ達に、もうひとつ話がある。
平井収二郎を知っているか?」
ふいに出てきた名前に、びくっとする。
岡田様はわたしをちらっと見てから言う。
「先生のお供をしている際に、何度か会ったことはあります」
「そうか。
平井君は武市君と同じく土佐の他藩応接役だが、最近どうも不審な動きをしている」
「不審、とは」
「いくつかの宮家に取り入り、高貴な方への橋渡しを頼んでいるようだ。
それが誰かまではわからないが、おそらくは令旨をいただいて国許へ働きかけるつもりだろう。
だが、容堂公は最近の土佐勤王党の台頭を快く思われていないようだから、露骨な動きは気をつけたほうがいい。
武市君がいれば諌められるだろうが、いやいないからこその軽挙だろうが、目を光らせておいたほうがいいだろう」
「……わかりました」
岡田様と大久保様の会話が、意識を素通りしてく。
先生は、江戸出立前に対策をしておくとおっしゃってたけど、だめだったのかな。
このまま、平井様達が動き続けたら、容堂様を怒らせてしまったら、わたしが知る歴史が実現してしまう。
先生が。
「お雪」
ふいに呼ばれて、びくっとする。
「え、あ」
あわてて顔を上げると、大久保様がじっとわたしを見てた。
「顔色が悪いぞ。具合が悪いのか」
「あ、いえ……」
「……武市君から、平井君について何か聞いているのか」
静かな問いかけに、またびくっとする。
「あ、の……」
「責めているわけではない。
だが、何か知っているなら、話せ」
「…………」
うつむいてぎゅっと手を握りあわせて、きもちをおちつける。
「……先生が、江戸に発たれる前に、少し……。
自分が留守の間に、平井様達が勝手なことをしないように、話しておくと、おっしゃってたんです……」
実際はわたしが知る歴史で彼らが勝手なことをするって話したからで、順番が逆だけど、止められるならなんでもよかった。
だけど、止められなかったんだろうか。
岡田様は、止められたのに。
「そうか、武市君も危惧していたんだな。
だったら、江戸へ早馬を出して、このことを知らせたほうがいいかもしれないな」
「え……」
「武市君に知らせて、武市君から平井君達に軽挙を諌める書状を送ってもらえば、少しは効果があるだろう。
それとは別に、私のほうでも平井君達が誰に取り入ろうとしているか、探っておこう。
わかったら知らせてやる」
「……ありがとうございます。
でも、……よろしいんですか?」
薩摩の大久保様が、土佐の内情にかかわって、大丈夫なのかな。
大久保様はわたしを見て、にやりと笑う。
「私は土佐に倒幕勢力の一翼を担ってもらいたいと考えている。
ここで武市君達に潰れられては困る。
ひいては薩摩のためだから、問題ない」
あえて軽い口調で言うのは、わたし達への気遣いなのかな。
「……ありがとうございます」
駕籠に乗って帰ってく大久保様を、玄関で岡田様と一緒にお見送りする。
駕籠が見えなくなっても動かない岡田様を不思議に思って見上げると、岡田様はちらっとわたしを見た。
「でかけてくる。
帰りはいつになるかわからないから、夕餉はいらないとお梅に言っておけ」
「え……あ、はい……」
「おまえは屋敷から絶対に出るな。
客が来ても会うな。追い返せ」
「……はい」
お酒をやめてまた屋敷にいるようになってから、岡田様がでかけるのは、初めてだ。
それも、いきなり、どうしたんだろう。
不思議に思いながらも、でかける岡田様をお見送りした。
お梅さんを手伝って夕餉を作り、お松さん達と一緒に食べる。
わたしひとりだともったいないから、お風呂は沸かさずに、お湯で身体を拭くだけにした。
いつもなら寝る時間になっても、岡田様は帰ってこなかった。
竹三さんの話では、遅くなるから屋敷の戸締りをしっかりしておけって、岡田様がでかける時に声をかけられたらしい。
もしかして、お酒を飲みにいったのかな。
先生は飲まないけど、土佐の人は酒好きらしいし。
あの頃みたいに浴びるように飲むのは、よくないだろうけど、たまに飲むくらいなら、わたしが口出しできることじゃない。
だけど、なぜか、おちつかない。
不安なきもちを、裁縫をしてごまかす。
未来ではほつれた服の修理やボタンつけぐらいはしてたけど、和服を縫ったことなんてなかったから、針の使い方からお松さんに教えてもらった。
雑巾や小物で練習を重ねて、今は自分用の浴衣だ。
一針ずつ丁寧に縫うように心がける。
きりのいいところまで縫い終わると、ちょっときもちがおちついた。
布と裁縫道具を片付けて、寝る用意をする。
寝る前に水を飲もうと、手燭を手に廊下に出る。
角を曲がったとたん、向こうから歩いてくる岡田様が見えた。
「ぁっ」
思わず足を止めて、だけど急いで近づく。
「あ、あの、お帰りなさいませ」
「……ああ」
岡田様は、ちょっととまどったような顔をしたけど、答えてくれた。
帰ってきてくれたことにほっとして、お酒のにおいがしないことにさらにほっとする。
どこに行ってたかはわからないけど、帰ってきてくれたなら、それでいい。
「…………」
岡田様はしばらくわたしを見つめてから、ぽつりと言った。
「平井様に会ってきた」
「ぇっ」
「先生のご意向にそむくようなことはするなと、釘を刺してきた。
おそらくもう勝手な動きは慎むだろう」
「え、あの、でも……どうやって……?」
平井様のことは、名前ぐらいしか知らないけど、先生と同じく他藩応接役を命じられてたぐらいだから、それなりに身分の高い人のはず。
先生の弟子とはいえ、身分は低い岡田様の言葉を、素直に聞いてくれるとは思えない。
とまどいながら見上げると、岡田様はさらっと言う。
「脅した」
「ぇえっ!?」
簡潔すぎる言葉に驚くと、岡田様は凄みのある笑みを浮かべる。
「たとえ同郷の者であろうとも、身分が上であろうとも、先生のご意向に逆らうようならば容赦はしないと、脅した。
俺が先生のご命令なら暗殺でもなんでもすると、平井様も知ってるから、納得してくれたようだ」
「…………」
それは、『納得』、なのかな。
疑問は残るけど、それでも。
「……よかった……」
平井様達の事件がなければ、容堂様が土佐勤王党を弾圧するきっかけがなくなる。
完全に安心はできないけど、それでも、最初のきっかけはなくなったんだ。
ほっと息をついて、岡田様を見上げる。
「岡田様、ありがとうございます、本当に、ありがとうございます!」
岡田様はわたしの勢いに驚いたのか、軽く目を見開いて、なんとなく照れたような顔で目をそらす。
「先生のために、俺ができることをしただけだ」
「それが嬉しいんです、ありがとうございます」
「……何度も礼を言われるようなことじゃない」
「そんなことありません、岡田様のおかげです。
本当に、本当に、ありがとうございます」
「……もういい」
やっぱり照れたような顔のまま言って、わたしの横をすりぬけて歩いていこうとした岡田様は、二歩進んだところで足を止めてふりむいた。
「以蔵と、呼べ」
「……え?」
きょとんとして見返すと、岡田様は目をそらして、ぼそぼそ言う。
「……俺を、兄弟子のように思ってると、言ってただろう」
「……はい」
「門下生同士は、たいてい名前で呼びあう。
だから、おまえも、以蔵と呼べ…………お雪」
「…………あ」
初めて、名前を呼んでくれた。
それは、つまり。
わたしを、妹弟子だと、認めてくれるって、意味。
昼間大久保様と会ってる時にもそう言ってくれたけど、大久保様の前だからだって、思ってた。
でも、本当に、そう思ってくれてるんだ。
嬉しくて嬉しくて、笑ってしまいそうになった顔をあわててひきしめて、姿勢を正して深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。
改めまして、これからもよろしくお願いします……以蔵様」
「……ああ。
……もう遅い。さっさと寝ろ」
「はい。おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
足早に去っていく背中を見つめて、もう一度深く頭を下げた。