文久二年十月(三)
二日後の昼前、廊下の掃き掃除をしてると、あわてた様子のお松さんがやってきた。
「お雪ちゃん大変、薩摩の大久保様の使いの方が見えたわ」
「え……大久保様の?」
「そうなの、これをお雪ちゃんに渡してくれって」
お松さんがさしだした書状をとまどいながら受け取って、開いてみる。
まだひらがなを読むのも苦労するぐらいだけど、比較的簡単だったから、なんとか読めた。
だけど、よけいとまどってしまう。
「なんて書いてあったの?」
「……一昨日のことを詫びに、今日の午後訪ねていくって、書いてあるみたいなんですけど……」
お松さんに書状をさしだすと、ざっと目をとおして、ゆっくりうなずく。
「そうみたいね……」
「でも、一昨日のことって、なんでしょうか……」
大久保様に会ったのは九月の一度きりだし、一昨日に何かあったかな。
「……もしかして、お雪ちゃんを攫おうとした奴らのことかしら」
「え……?
あ……じゃあ、あの人達は、薩摩の……?」
「わからないけど、でも他に『一昨日のこと』って、心当たりないでしょ?」
「……はい……でも、えっと、どうしましょう……」
お松さんと顔を見合わせて、しばらく考えこむ。
「……岡田様に相談してみたら?」
「……そうですね。
あ、大久保様の使いの方は、まだいらっしゃるんですか?」
「ううん、これを渡して、すぐ帰られたわ」
「そうですか……」
返事はいらないってことなのかもしれないけど、断れないってことでもある。
いったい、なんなんだろう。
あの時は、側女にしてやるって言われて驚いたけど、先生が断ってくださったし、その後忠告をくださったぐらいだから、先生がおっしゃるとおり、怒ってなかったんだと思ってた。
なのに、今更、どうしてだろう。
悩みながら、縁側を回って奥庭に向かう。
岡田様は、今日も木刀で素振りをしてたけど、わたしが声をかけるより早く動きを止めた。
木刀を持ったまま近づいてくる。
「どうした」
「……あの、さっき、薩摩の大久保様から、この書状が届いたんです」
書状をさしだすと、岡田様は木刀を腰にさして受け取った。
さっと読んで、険しい顔になる。
「……一昨日の奴らは、大久保様の手引きだったということか」
「……でも、あの、『詫びたい』って書いてあるので、大久保様が指示したことじゃ、なかったのかもしれません」
「……そうかもしれないが……」
しばらく考えこんでた岡田様は、ふとわたしを見た。
「おまえ、大久保様と面識があるのか?」
「あ……はい、あの、九月に、大久保様が先生を訪ねていらした時に、少しだけ……」
岡田様はしばらく視線をさまよわせてからうなずく。
「……ああ、あの時か。
なら、奴らがおまえの名前を知ってたのも、大久保様から聞いたからか」
「……たぶん……でも、あの時の話は、先生が断ってくださいましたし、その後も怒ってらっしゃらなかったと、先生がおっしゃっておられました。
なのに、どうして今頃……」
もしかして、先生が江戸に行っているから、なのかな。
だけど、大久保様は、先生がいない隙にわたしを攫おうとするようなずるい人には、思えなかった。
「……『あの時の話』とは、なんだ。
大久保様を怒らせるようなことをしたのか?」
岡田様の問いかけに、びくっとする。
そうだ、あの話を知ってるのは、わたしと先生と大久保様だけ、のはず。
言わないほうが、いいのかな。
だけど、一昨日のことの原因がそれなら、話さないわけにもいかない。
「……あの、大久保様に、お茶をお出しした時に、わたしの言葉が、どこの国の者かわからなくて、面白いって、言われて……」
薩摩弁をわかってしまったことは、言わないほうがいい気がする。
「……それで、なぜか、側女にしてやるって、言われたんです」
「なっ……」
岡田様が驚いたような声をあげる。
「でも、あの、すぐ先生が断ってくださって、だから、わたしも、さっきまで忘れてたぐらいなんです」
あわてて言うと、岡田様はまた考えこみながら書状を見てたけど、やがてため息をついた。
「……先生が留守とはいえ、大久保様を追い返すことはできないだろう」
「……そう、ですよね……」
「そのかわり、俺が同席する」
「……え?」
「おまえだけで会わせるのは心配だ。
大久保様ほどの方が無理強いなさるとは思えないが、念の為だ」
「………はい、ありがとうございます」
よかった。
岡田様が一緒なら、恐くない。
急いで客間を念入りに掃除しなおして、岡田様と一緒に早めの昼餉を食べる。
お梅さんに、高いお茶っ葉を買いにいってもらって、うんと濃く淹れるよう頼んでおいた。
岡田様は、昼餉が終わっても稽古には行かずに、わたしと一緒に居間にいてくれた。
お湯で身体を拭き清めて、いつもよりいい着物を着て身支度した岡田様は、いつもより凛々しく見えて、頼もしかった。
それでも不安なきもちをおちつけようと、先生に借りた本を読もうとしたけど、ちっとも頭に入らない。
何度も同じページを読んでると、かすかな足音が近づいてきた。
「失礼いたします」
びくっとすると、襖を開けたお松さんが、わたしと岡田様を順に見て言う。
「大久保様がいらっしゃいました。
客間にご案内して、お梅さんが茶の準備をしております」
「わかった。……行くぞ」
「は、はい」
立ち上がった岡田様に促されて、あわてて立ち上がる。
胸に手を当てて深呼吸すると、部屋を出ようとしてた岡田様がふりむいた。
「そんなに緊張するな。
何かあれば俺が対応する」
呆れたように言われて、ほっとする。
「すみません……よろしくお願いします」
「ああ」
岡田様の後をついて部屋を出て、廊下を進む。
客間の手前で、岡田様が足を止めてわたしをふりむいた。
「大久保様が訪ねてきたのはおまえだ。
おまえが先に行け」
「…………はい」
小声で言われて、小さくうなずいた。
おそるおそる岡田様の横を通って、客間に向かう。
前回と違って、廊下にお供の人はいなかった。
ほっとして襖の前に座り、声をかける。
「失礼いたします、雪でございます」
「入れ」
「はい、失礼いたします」
深呼吸してから、そっと襖を開けた。
上座に座ってた大久保様は、わたしを見た後、わたしの背後を見て、眉をひそめた。
わたしが大久保様の向かいに座ると、岡田様はわたしの右斜め後ろに座る。
姿勢を正して、三つ指をついて頭を下げた。
「ようこそ、いらっしゃいませ。
お久しぶりでございます」
「……ああ」
軽くうなずいた大久保様は、脇息に頬杖をつくと、わたしと岡田様を見比べる。
「なぜ岡田君が同席するんだ?」
「……それは、あの……」
どう言えばいいかわからなくて、岡田様をちらっと見る。
「俺は先生から留守の間のことを頼まれておりますので」
「……ほう」
つぶやくように言った大久保様は、今度はじろじろと岡田様を見つめる。
岡田様は、まっすぐ大久保様を見つめ返す。
にらみあいみたいな雰囲気にとまどってると、お松さんがお茶を持ってきた。
緊張がとぎれて、思わずほっと息をつく。
お茶を一口飲んだ大久保様は、軽く眉を上げる。
「この前よりはいい茶だな。私が普段飲んでいるものには劣るが」
「……申し訳ございません」
この界隈で買える一番高級なお茶っ葉だって、お梅さんが言ってたけど、それでも大久保様が普段飲んでるものにはかなわないんだ。
さすがは大藩の重鎮だ。
「まあいい。今日は茶の批評をしにきたわけではないからな」
もう一口飲んで湯呑を置いた大久保様は、姿勢を正してわたしを見る。
「私は毎日忙しいが、一昨日は少し暇ができた。
ちょうど江戸詰めの者から武市君が随行している勅使について知らせる書状が来ていたから、茶を飲むついでにおまえに話してやろうと使いをやったんだが、どうやら使いの者に不手際があったようだな」
「あ……えっと、あの……」
どう言ったらいいのか迷ってる間に、岡田様が言う。
「名乗りもせずに、嫌がる娘を肩にかついで連れていくのが、薩摩流の茶の誘い方ですか?」
「お、岡田様っ」
まるでイヤミみたいな言い方にあわてたけど、大久保様はなぜか面白そうな顔になる。
「なるほど。
使いにやった者は、京で世話になった人の馬鹿息子と取りまきで、頼まれて預かっているんだが、どうやら子供でもできる使いすらこなせない大馬鹿者だったようだ。
しかも私には『女を連れてこようとしたらいきなり現れた男に邪魔をされ、狼藉をふるわれた』などと言っていたが、そんな人攫い同然のやり方だったなら、撃退されて当然だな。
近いうちに私直々に教育しておこう」
やけに楽しそうに言われて、どう答えていいかわからない。
「嫁入り前の娘の肌に三日経っても消えない跡を残すような乱暴者には、念入りな教育をお願いします」
「何?」
また岡田様がイヤミっぽく言うと、大久保様は今度は眉をひそめた。
「馬鹿どもに怪我を負わされたのか?」
鋭い視線を向けられて、びくっとする。
「……あ、いえ、あの、たいしたことなくて、もう、大丈夫ですから……」
痛みはたいしてなかったし、数日痣が残る程度なら、怪我っていうほどじゃない。
「見せろ」
「……あの……」
「お見せしろ」
困って岡田様を見たけど、岡田様にまで言われてしまった。
そういえば、岡田様にも毎朝確かめられて、今朝も『まだ消えないのか』って、なぜか悔しそうに言われたんだった。
「…………はい」
しかたなくうなずいて、左手の袖をそっとめくって大久保様のほうに腕を伸ばす。
肘のすぐ下あたりにうっすら残る赤い跡を見て、大久保様の視線が険しくなる。
「おまえは肌が白いから、よくわかるな……。
まだ痛むのか?」
「いえ、あの、跡が残ってるだけで、もう大丈夫です」
視線をさけるように腕を引いて袖を戻すと、大久保様は大きくため息をついた。
「すまなかった。
あの馬鹿どもは、私が責任を持って念入りに教育しておく」
軽くとはいえ頭を下げられて、びくっとする。
薩摩の重鎮の大久保様が、わたしなんかに頭を下げるなんて。
「いえ、あの、ほんとに、大丈夫ですから、気にしないでください、これぐらい、慣れてますから」
「……どういう意味だ?」
また鋭くなった視線に、またびくっとする。
「え、あの、えっと」
「慣れるほどに、普段からそういう怪我をさせられている、ということか?」
言いながら、大久保様が岡田様をじろっとにらむ。
ようやく大久保様が何を疑ってるかわかって、あわてて首を横にふった。
「いえ、違いますっ、こちらにお世話になってからは、一度もそんなことありません。
慣れてるっていうのは、こちらに来る前のことで、わたし、あの、グズで馬鹿だから、祖父の家でも旅館でもしょっちゅう殴られてて、でも昔のことで、このお屋敷では、殴られたこともいじめられたことも、一度もありませんっ、皆さんすごく優しくしてくださいますっ」
必死に言葉をつなぐと、じっとわたしを見てた大久保様は、なぜか面白そうに笑った。
「焦るとお国なまりが出るようだな。
どこの国かはわからないが、確かに北国っぽいなまりだ」
「え……あ、すみません……」
思わず口元を押さえてうつむくと、大久保様が静かに言う。
「以前の奉公先でなまりを怒られたと言っていたな。
……つまり、殴られていたのか。
それでお国言葉を使わずに話すようになったのか」
「……はい」
「だが、武市君も岡田君も、そして私も、そんなことは気にしない。
他の国の者と話す時に意味が通じないのは困るが、意味が伝わる程度なら、お国言葉を使うことを遠慮する必要はない」
おそるおそる顔を上げると、大久保様は優しい顔でわたしを見てた。
「おまえの怯える様子はなかなかそそられるが、何もかもに怯える必要はない。
ましてここには、私の申し出を拒んででもおまえを守ろうとする後見人がいるんだ。
気を楽にしていればいい」
そうだ、ここには、先生も岡田様もいる。
恐いことがあっても、わたしを、守ってくれる。
「……はい」
うなずくと、大久保様はにやりと笑った。
「もし跡が消えなかったら言え。
私が責任を取って妾にしてやる」
「……え?」
前回は『側女』だったけど、今回は『妾』だ。
側女はまだ使用人の意味もあるけど、妾は完璧に愛人の意味、のはず。
どうしてそうなるんだろう。
きょとんとしてると、岡田様が硬い声で言う。
「大久保様には、奥様がおられるはずですが」
「ああ、いるとも。
妾も一人いるが、もう一人増やすぐらいの甲斐性はある。
だから遠慮するな」
大久保様は、やけに堂々とした口調で言う。
「えっと……あの……」
遠慮してるわけじゃないけど、どう言えばいいんだろう。
困って岡田様を見ると、岡田様がさっきよりさらに硬い声で言った。
「こいつのことは、後見人である先生が考えておられます。
大久保様に責任を取っていただく必要はありません」
「……ほう。
ずいぶんと仲が良いんだな」
「え?」
大久保様は、さっきまでと変わって、からかうような笑みを浮かべて、わたしと岡田様を交互に見る。
「岡田君はやけにお雪を守ろうとするし、お雪は岡田君を頼っている。
おまえ達は、親密な仲なのか?」
「え、っと……」
思わず岡田様を見ると、岡田様はなぜか目をそらした。
だけどすぐ大久保様をにらむように見る。
「違います。
こいつは、妹弟子のようなものです」
「なるほど、武市君を師とあおぐ者同士、というわけか」
大久保様はなぜかにやにや笑いながら言い、岡田様は黙って大久保様をにらむ。
話の流れについてけなくて、おろおろしながら二人を見比べてると、大久保様はお茶を一口飲んで、真面目な顔になる。
「さて、では本来の目的をはたそう。
武市君達が江戸についてからの話だ」
さらっと話題を変えられて困ったけど、先生の名前が出たから、思わず身をのりだした。
「はいっ、教えてくださいっ」
大久保様はなぜか面白そうに笑ってから、いろんな話をしてくれた。
半分ぐらいは先生の書状に書いてあったのと同じだったけど、残りは知らない話で、どきどきしながら聞く。
岡田様も真剣な顔で聞いていた。