第4話
おひさ
人目を避けるため、極力路地裏を歩くようにしていた。幸いこの辺りはオフィスビルが多いらしく、まだ午前中ということもあるのか出歩く人はそこまで多くないようだ。とは言えそれでもまったくの無人とは当然いかず、物陰を探しながら移動しなければならない。いっそ堂々と往来のど真ん中を進むのもありかと思ったが、しかし、姫告さんが「それはやめてください」と言うのでやめた。
歩いていたつもりが少し小走りになっていた。風で体に巻く布がめくれ上がるが、今のところ人影は見えないので気にせず進んだ。ただ、都合よく物陰ばかり続くわけがない。そういうときは諦めて普通に歩いた。普通に歩くと言っても、女性的な所作を意識しながらなので端から見ると少しぎこちないと思う。この辺りは僕の精神、人格が男性であった名残といえるかもしれない。
そういえば、ついさっき杖を突いたおじいさんに孫と間違えられえた。どうやら、迷子になった孫を探している中で背格好の似ている僕を見て声をかけたらしい。冷静に考えてみれば、普通の人間がこんな乞食のような身なりをしているはずがない。ご老人曰く、年齢のせいか眼が悪くなってきたとかなんとか。さっき目覚めたばかりの僕に近頃の医療事情はわからないが、少なくとも老化を防止する技術はまだ一般人に手の届くまでには至っていないようである。
話が長くなる前に老人と別れ、また歩き出す。すると、すぐに姫告さんの声が聞こえてきた。
「もしもし、姫告です。聞こえていますか?」
「聞こえるよ。で、何ですか?」
「大したことではないのですが、提案があります」
「提案?」
「はい。今、普通に道なりに進んでますよね?」
「うん。路地裏をこそこそと」
「だと思っていました。そこで提案というのはですね、上に出たほうが速いのではないか、ということです」
「上?」そう言われ上を見る。
「なるほど、屋上か」
「そのとおりです。もしよかったら考えてみてください」
そう言ってすぐ通話が切れた。
確かに、この辺りはビル同士の間隔が狭く飛び移るのが楽そうだ。しかし、こういう場合勝手に屋上に上っていいのだろうか。映画や漫画を見るとそこらへんは気にせず我が物顔で飛び回っているが、違法な行為な気がする。彼女は僕に犯罪者になれというのか。いったいどれだけ波乱万丈な人生を歩ませたいのだろうか。
というわけで、近くの非常階段に乗った。恐らく、見つからなければ問題ない。かなり年季の入った非常階段で、動くと嫌な音を立てて軋む。慎重に上り、なんとか6階建ての屋上に出た。
下はそれほどでもなかったのだが、屋上は風が強い。とりあえず隣のビルに飛び移ろうかと思ったが、なびいた長い髪が邪魔で動きにくい。髪をまとめるものがあればいいのだが、周りを見遣ってもそんなものあるはずがない。仕方が無いので体に巻いていた布の端をちぎる。そして風が止んだ隙に、手でまとめた後ろ髪を前に持ってきて少し下の方を灰色の布できつく結んだ。結び終えると同時に風が吹き始め、後ろ髪が激しくなびくが、粗めの布とボサボサの髪がいい具合に噛み合って広がるのを防いでいる。前髪は変わらず暴れているが、特に問題はなさそうだ。
手始めにひとつ先のビルへ飛び移ろうと、助走をつけるために縁から距離をとる。適当な位置まで下がり、深呼吸した。ビル同士の間隔は2メートル弱というところだろうか。ここに来るまで何度か走ったが、その感じからすると余裕で飛び越えられそう。実際のところは分からないが、あれは相当な速度で走っていたと思う。急な角を曲がりきれず、コンクリートのビル壁に激突したことが一度あって、それ以来全力疾走は控えていた。
それはともかく、通行人が増えるであろう昼までには着くようにしたい。ここはさっさと飛んでしまおう。
利き足に力をこめ、助走を始める。風を切る感触を味わう暇はない。瞬く間に縁まで到達し、段差に足を掛け思い切り跳躍した。少し長い浮遊感の後、足が地に着く。
「これは飛びすぎたかな」と独り言が漏れてしまった。一つ先のビルの真ん中を狙って飛んだはずが、実際に着地した場所はその縁ぎりぎりであった。壁衝突事故のときもそうだが、大幅に向上した身体能力に慣れないとこの先も不自由しそうである。とはいっても、この程度の高さから落ちたところで何の問題もないのは経験済みだし、落ち着いたらゆっくりと慣らしていけばいいだろう。
その後いくつもビルを飛び超え、思いのほかすぐにオフィス街を抜けることが出来た。
飛んでいる途中で気がついたのだが、この格好だと下から丸見えである。パンツを穿いているのが唯一の救いだが、さすがに心もとない。早くまともな衣類を手に入れたいところだが、何せ文無しである。今は諦めるほかない。
地図を見ると、目的地のかなり近くまで来ていることに気づいた。目の前にはオフィス街を貫く道路、その先には山がある。どうやらこの山の中にあるらしい。
この周辺は遮蔽物が少ないので僕の姿が丸見えになる。少し恥ずかしいが、裏を返せば障害物がなく全力が出し易いということ。早速、羽織っていた布きれを風でめくり上がらないようバスタオルのように巻く。一応今は女性なので胸から下を隠すように巻こう。
「こ、これは……」
僕の体は、言ってしまえばすごくスレンダーで、引っかかる箇所があまりない。年相応と言えばそうなのかもしれない。年齢は10代と聞いたが多分前半だろう。普通の人間なら成長期というものがあるため悲観することはないのだが、この体は違う。人工的に作り出された肉体、いわば人形である。そもそも、肉体の成長を再現するのは技術的に難しいだろうし、必要性も感じない。しかしながら、せっかく女性の体になったのだからそういったことも体験しておきたいという好奇心も多少ある。これはあくまで僕の想像の話なので実際は成長するのかもしれないが、期待はしないでおこう。
そんな事を考えつつ、周囲に人影がないことを確認し、おもむろに手を胸の上に置く。
一度深呼吸しよう。
大きく吸って、少し止めて、吐いた。
咄嗟の逡巡ののち、意を決し、かなり控えめなそれに指を這わす。
「おお……!」
ふにふにである。続けて、少し力を入れ揉んでみる。
「……うん」
ふにっとした後に来るコリコリとした肋骨の感触。予想はしていたが少し悲しい。
「余計なことしてないで早く目標地点へ向かってください」
「ふゃん!?」
思わず変な声が出る。
「そこに着いたらいくら揉んでも構わないので」
「揉まないよ!」
「ではまた。次は目標地点で」
ここで通信が終わった。姫告さんはいきなり来るから心臓に悪い。せめて電話のようなコールが欲しい。
「さて、行きますか」
気を取り直してまた歩き出す。ここから目的地まではほとんど一本道だ。いくら土地勘がないといえ、迷うことはないはず。
ビル街から少し歩いて、目に映る景色も変わってきた。人通りも少ないのでさっさと走ってしまうのも手だったが、しかし、歩きならではの楽しみもある。
真っ先に目に入ったのは何かの畑だろうか、実はついておらず植物に詳しくない僕には何なのかさっぱりわからない。
しばらく畑や木々を眺めていた。するとなぜか懐郷の念がふつふつとわき上がってくる。
「懐かしい、か」
未だに記憶が混濁していて昔のことは思い出せないが、なぜか懐かしいという感覚だけ呼び起こされた。「田舎っぽい」風景を見たことに対する機械的な情動の反応かもしれないが、確かに懐かしいと感じた。
記憶といえば、子供時代の記憶は特に朧げだ。家族のことや学校のこと、友人のこと。無いことと思い出せないことではかなり意味合いが違ってくる。人格が過去の記憶で成り立っているなら、今の僕はとても曖昧な人格だ。そもそも今は人間ではないから、人格といえるかは怪しいのだが。
不意に、今の自分が何かの拍子に消えてしまいそうで少し怖くなる。
目覚めてから今までいろいろなことが起こりすぎて、考える暇も無かったからなんとかなっていた。起きた直後は現実感がまったくなくて、夢を見ているようだった。それが、少し落ち着いた今、少し余裕ができて、周りを見ると自分の見知ったものは何一つ無い。あるのは漠然とした記憶だけ。
気がついたら足は止まり、道ばたに立ち尽くしていた。
泣きじゃくるとまではいかないが、結構なむせび泣きようだと思う。羽織った布きれでぬぐい取るが思いのほか量が多く、すぐにびしょびしょになった。
そんなことをしていたら「おーい」と、誰かに呼ばれていることに気がついた。知らない女性の声だが、すぐに振り向いた。
「おっす!」
「ん……どなた……ですか?」
ずるずると鼻をすすりながら訊く。
「うーん、誰と聞かれると少し困る!」
「は、はあ」
不審者だろうか。
「仕事中は答えちゃいけないことになってるんだけど……まあ、この辺の見回り中? です」
「はぁ……」
ずるずる。そういえば深めのフードと真っ白な仮面で顔を隠している。これは絶対危ない人だ。
「とにかく不審者じゃないから、安心していいと思うよ」
「……わかりました」
わかったと言いながらあまり信用はしていない。ただ、害意はなさそうだ。声の感じからして若い女性のようだが、顔が見えないためなんともいえない。身長は僕より少し高く感じる。
「あーーーーーー!!!!」
謎の女性がいきなり大声を上げた。
「あっ、いきなりごめん」
今度は小声になる。
「泣いてるから声を掛けてみたんだけど、実は結構深刻な事態だったり……?」
「い、いやこれは……」
「服装のこともあるし、とりあえず場所を変えよう」
そういうと謎の女性が僕の手を摑む。
「じゃあ目をつむって」
「は、はい」
言われるがまま目をつむる。
「一歩進んだら目を開けて」
これもまた言われたとおり、一歩足を踏み出した。
「ん?」
地面の感触に違和感を覚える。今までは舗装された道路の上にいたのだが、それとはまるで違う感覚だ。確かめるためにまぶたを開けた。
「え?」
全く知らない場所、それも屋内だ。周りには椅子や書類棚、それにベッドがあった。
「よーし着いた!」
「あの、ここはどこ……ですか?」
「どこって、学校だけど……君、ここの生徒でしょ?」
「い、いやたぶん違う――」
「え? データベースに照合掛けてみたけど、登録されてるよ?」
全く意味がわからない。学校は姫告さんが手配したものなのだろうか。何気に地図を見ると、目的地の三角マークと現在地のマークがほとんど重なっている。
「ちっ、私としたことが……しくじりました」
突然舌打ちとともに姫告さんの声が聞こえてきた。今までの無感情な話し方ではなく、はっきりとした怒りがこもっている。
「ネットワークとの接続はすべて切断していたはずなのですが、いったいどこで……すみませんすぐそちらに向かいます」
そう言って通話が終わった。
「ん? どうしたの?」
「あ、すみません。ぼーっとしてました。もう一度お願いします」
「いや、ちょっと予備の制服か体操着でもないか探してくるからまっててねって」
「なるほど、お手数をおかけします」
「じゃ、その辺に座って待ってて」
謎の女性はそそくさと部屋を出て行った。すると部屋の外で、
「あっ、先生こんにちは!」
「こんにちは、今日も元気ですね」
という謎の女性の声と聞き覚えのある別の声が聞こえてきた。会話が終わり、元気な方は走って行ったらしい。聞き覚えのある方の足音が部屋の扉の前で止まった。
「こんにちは、お久しぶりです」
わかってはいたが、扉を開けて入ってきたのは姫告さんだった。
「ずいぶん早いですね、さっき話したばかりなのに」
それにしても早すぎる。今までどこにいたのだろうか。
「いやぁ、やらかしちゃいました」
「そうだ、さっきの人が僕がここの生徒だとかなんとか」
「彼女と先に先に出会ったのもそうですが、まさか最初から登録済みだったとは……想定外でした」
姫告さんはかなり焦っているようで、なかなか的を射ていない。
「えーと、つまり?」
「これからあなたはここの生徒として2年間過ごさなければならないということです」
「えっ」
「二度目の青春、謳歌できるといいですね」
突然やってきてよくわからないことを言い始める姫告さん。さて、どうしたものかと考える。
「それは……なかなかハードなことをおっしゃる」
「その間になんとか打開策を考えるので、最長で2年です」
頭の中をいろいろな考えをめぐらすが、どれもいまいちはっきりしない。問題が山積で脳の処理能力が追いつかない感覚。前回の人生でもよくあったような気がするが、思い出したくない。