第3話
ついさっき投げ捨てた布きれで汗を拭う。
彼女は始め、「私も詳しくは分からないのですが」と断ったあと説明を続けた。
「その身体については見ての通り、10代の人間の女性がベースになっています。見た目こそ人間ですが、中身はヒトのそれとは大きく異なっているので……とりあえず今のところは注意してくださいとしか言えないです」
「はい」と、生返事。
「以上です」
「はい?」
「私の知っている情報は以上です」
いくら何でも少なすぎだ。せめて、さっき言っていた「この体が作られた目的」くらいは教えてほしい。
「本当にそれだけ?」
嘘をついている可能性も否定できない。むしろ嘘であるほうがしっくりくる。世話係を自称するくらいなら、それなりに詳しい情報を与えられていて当然だろう。
「はい、それだけです」
しかし、彼女はなぜ嘘をつくのだろうか。僕が詳しい情報を知ることで、彼女もしくは彼女の所属する組織が何らかの不利益を被るからとか。それとも、僕自身の精神的な負担を考慮して情報を小出しにしているのか。正直なところ、よく分からない。それを判断するための材料でさえ不足している。
「この体が作られた目的とかも?」
「知りません」
ついさっき「詳しくはこれから話す」と言っていたのは一体何だったのだろうか。
とにかく、これ以上話しても有益な情報を得ることは難しそうだ。
となると、僕は一体何をすればいいのか。この部屋から出ない以上、家には帰れそうにないし。
僕があれこれ考えを巡らせている間は彼女も黙っていたと思う。しばらく無言が続いたが、突然「あ……」と、彼女が何か思い出したかのように声を出した。
「忘れていましたが、あなたは一度死んでいます」
「……」
「憶えていないと思いますが、結構惨い死に方だったそうです」
彼女はさらりと重要なことを言ってのけた……と、思う。僕は、多少驚きはしたものの、なぜかあまり現実味が湧かない。
それはとても不思議な感覚だった。テレビのニュースで見た知らない町の殺人事件に対して覚えるような、他人事であるという前提があって成立する感情。それを自らに起こった事象に対して覚えるというわけの分からない感覚。本来なら起こってしかるべきの情動が、全くと言っていいほど起こらない。その理由を知りたいとも思わない。
「どうですか」
突然、姫告さんがそう口にした。
「え?」
「今私の話を聞いて、特定の感情が引き起こされましたか?」
「残念ながら何も。至って平常心ですよ」
「そうですか……やはりそうなりますか……」
そう言うと彼女はおもむろにタブレットPCを取り出した。何か情報を入力しているようだが、今の受け答えで何が分かったのだろうか。
操作を終え、「さて」と彼女は言った。立ち上がり、入り口とは反対の壁に向かう。壁の前で止まり、右手をちょうどその真ん中あたりに置く。
「少し下がってください。危ないので」
僕は言われるがまま、扉の前まで下がる。すると、彼女は予備動作一切なしに壁に腕を突き刺した。
コンクリートの砕ける音と、鉄筋が折れ曲がる音が耳に優しくない。よく見ると、腕がほとんど壁にめり込んでいた。どれほどの力を込めればこんな状態になるのだろうか。
すぐに彼女は腕を引き抜き、開いた穴に白衣のポケットから取り出した物体を入れた。今度は反対のポケットから取り出したものを、タブレットPCの上部に装着した。
「部屋の外に出てください。すごく危ないので」
また僕は言われるがまま、扉を開け外に出た。扉が閉まってすぐ、爆発音がした。そこまで大きいわけではないが、間髪入れずに来られると心臓に悪い。さらに、二、三度振動があって、少しして扉が開いた。
「こちらへどうぞ」と、埃まみれで出てきた姫告さんが促す。あっけにとられて放心していたが、腕を引かれ我に返った。
中に入ると、ものすごく埃っぽい。視界もかなり悪く、机も椅子もどこにあるか分からない。一体どうしてこうなったのか。その原因である姫告さんが隣に立っているが、見る間に前の方へ歩き出していた。
「げほっ……私についてきてください」
そう言われて閉じていた目を開く。視界は多少良くなったものの、涙の量は一向に減らない。それよりも、この目の前に開いた穴は何なのか。小窓の一つもない部屋だったが、ずいぶんと大胆なアレンジで見違えるようだ。願わくは埃をもう少しはき出してほしいが、外に出られるのだから文句は言えまい。
「元々、室内の気圧と外の気圧が同じなので」と姫告さんは言う。しかし、それはもうどうでもいい。出口があるならさっさと出たい。
「あの……何でこんな穴を?」と、一応目的は訊いておく。
「あなたがここを脱出できるようにです」
「普通の出口じゃだめなんですか?」
「ほかの職員に見つかってはまずいのです。ともかく、理由は後にして早急に出てください」
その口調からは急かすような意図を感じ取れないが、彼女がそう言うのなら断る理由もない。壁の穴の前まで移動する。
「って危ない!」
埃でよく分からなかったが、外に足場がない。それに、これはたぶん落ちたら死ぬ。
「あ、飛び降りてもらってかまいませんよ」
生き返って早々死ねというのか。たちの悪い冗談である。
「見かけによらずその体は頑丈ですし、痛覚も自動的に緩和されますし……何にしろ、脱出するなら今しかないですよ」
姫告さんがそう言った直後、僕は臀部に受けた衝撃に冷や汗を浮かべた。
バランスを崩し踵が浮く。
前のめりの体を立て直すことができない。
上半身が穴の外に出る。
視界にねずみ色の地面が見えた。ここに今から落ちるのか。
つま先が床から離れる。
後は重力に従って落ちるだけだ。
こういう状況だと、普通は走馬燈を見たりするものだろうが、残念なことに今の僕には振り返るほどの記憶がない。これはこれで悲しくなってくる。
飛び降り自殺を図った人間の大部分は落ちる途中で喪神するらしい。しかし僕の場合は違った。激突するその瞬間まで意識は保たれている。
頭を下にして僕は落ちた。普通なら即死だ。一応覚悟していたものの、それは存外呆気なかった。ただ単純に、痛くないのである。
僕はアスファルトに刺さった頭を引き抜き、両手で顔についた土を払い立ち上がった。適当に体を動かしてみたが、どこも問題がなさそうだ。上を見ると、ひらひらとパンツが落ちてくる。それを目の前で掴み取り、両手で少し広げて足を通した。
今の体は女なんだから何の問題もない。至って自然な営みだ。そう自分に言い聞かせ、上まであげる。
そして僕は走り出した。こんな恥ずかしい格好いつまでもしていられない。薄手の布を羽織っているだけで、その下はほぼ全裸である。
とりあえず家に戻ろう。そう思った矢先、姫告さんの声が聞こえた。
「あ、どうも姫告です。もしかして今、家に向かってます?」
「ああ、向かってるよ。」
「けれど場所が分からない?」
「その通り」
立ち止まって周りを見るが、同じような色形をした直方体の建物が等間隔で建っているだけだった。見上げてもそこには青空があるだけで、下は黒いアスファルト。
「そうだろうと思って、地図を送信しました。右上にアイコンがあると思うので、それに意識を向けてください」
そう言うので右上を見る。確かにメールのアイコンが点滅しているので、それを見つめてみる。すると、すぐに地図が眼前に展開した。
見て一番目立つのは正方形が4×4個、合計16個並んでいる場所だ。その一番左下の正方形のちょうど前に緑色の丸がある。おそらくこれが僕だろう。
「ちなみに、オレンジ色の点が目的地です。今はとりあえずそこに向かってください。生活必需品等はそこにあるので」
彼女の言うオレンジ色の点は、今いる場所から南東に15キロほど行った所にあった。
「あなたが以前住んでいた家は、残念ながらこの町にはありません」
それは地図を見た瞬間に分かっていた。少なくとも自分の知っている町に、今、僕がいるような建築物はなかった。
「まさか、壊されたわけではないだろ?」
「はい。ここらかは少し遠くなりますが、家自体は存在しています」
「それなら良かった」
家探しは少し落ち着いて、準備を整えてからがいいだろう。そのためにはまず目的地に向かわなければ。服が無ければまともに外も出歩けない……いや、もう出歩いているか。どちらにしろ、極力人に見られないように注意を払う必要があるだろう。
ずいぶん遅くなってしまい、忸怩たる思いです。