第1話
どうにかして目を開けなければならなかった。前が見えなければ動きようが無い。さっきから開けては閉じるを繰り返しているが、この痛みに耐えて長時間開け続けるのは至難のわざである。
それよりも、僕のいるこの場所についてひとつ分かったことがある。はじめは、だだっ広い空間にぽつんと僕の体が漂っているもの想像していたのだが、どうやら違うらしい。指先の感覚がだいぶマシになって分かったことだが、どうも周りを柔らかいもので囲まれているようだ。触り心地としては、ウォータベッドのそれに近い。おそらくは薄い膜状のものであろうが、確信は持てない。
それとは別に気になることがある。それは僕自身の身体ことで、その違和感の正体を確かめるために下腹部に手を伸ばす。
その時だった。
ごぽっ、と大きな音が響いたと思うと、体を包み込んでいた液体が、これまた音を立てて流れ出ていくのが分かった。
一瞬のうちに全ての液体が流れ出て、今度は全身に何か膜のようなものが張り付く。
顔に張り付いた膜が邪魔で、前が見えない。息苦しさも相まって訳が分からなくなり、手足をばたばたと動かす。
すると、直ぐにその手足を押さえつけられ、張り付いていた膜が一気に取り払われた。これでやっと目が開けられる。
そして、今まで口に挿入されていた器具が引き抜かれて思い切り咳き込んでいると、下腹部からも何かが引き抜かれたらしい。これは単純に死ぬほど痛く、今まで寝ていたこと忘れてしまうくらい大きな声で叫んでしまった。
激痛で朦朧としていた意識は徐々に回復してきたものの、痛みそのものは未だ余韻として下半身に残っている。
この場所の空気は少し冷たくて、一糸纏わぬ今の僕には肌寒く感じられる。久しぶりの、肌に触れる空気の感触をもう少し味わいたいとは思ったが、まずは服が欲しい。
仰向けの状態からひっくり返って四つん這いの状態になる。コンクリートむき出しの無機質な床を見る視界に、僕のものだと思われる長い栗色の髪が映った。ここまで髪が伸びるなんて、いったいどれくらいの時間が経ってしまったのだろうか。
頬に張り付く髪を耳の後ろまで掻き上げる。体の感覚は完全に戻ったので、そのまま何事も無く立ち上がることができた。
ふうっ、と小さくため息をつく。周りを見渡すと、僕の前に人が立っていることに気がついた。部屋が薄暗くはっきりとは分からないが、細身の女性のようだった。身長は僕よりも頭一つ分ほど高く、手に持っているタブレットPCの様なものを黙々といじっている。何をしているのか訊こうと思ったが、声が出なかった。出るには出るのだが、思った通りの音にならない。
必死に口から声にならない空気を吐き出していると、目の前の人がこちらを向いた。
その人は歩き始めるとそのまま距離を詰め、僕の前に立つなり、なぜか抱きついてきた。
彼女の体は温かく、固まっていた表情が思わず綻びる。
今僕は大層間の抜けた顔をしていることだろう。
自分でも気づかないと所で、今の状況に不安を覚えていたのかもしれない。
何も思い出せないことに対する苛立ちや恐怖も、少なからずあったと思う。
そんなこともあってか、僕は涙もろくなっていたらしい。声は相変わらず出ないが、涙は出た。ついでに鼻水も。
しばらくと言うほど長くはない間抱き合っていたのだが、無性に恥ずかしくなってきた。誰かも分からない初対面の人の袖を、これ以上涙で濡らしてしまうのは気が引けるのでこちらから離れる。
それにしてもこの女性は誰だろう。少なくとも知り合いには僕より背の高い女性はいなかったと思うが、忘れてしまった可能性も否定できない。
僕の記憶は、職場での昼休みで終わっている。もしかしたら、それ以降に会った人かもしれない。いくら何でも初対面で抱きついてくる人間はそうそういないだろう。
そんなことを考えていると、目の前の女性が話しかけてきた。
「そろそろ話せるようにならない?」そう言われたので、はたと気がついて声を出そうとした。すると、「すりじゃやわるだなぷらこって」と出た。なぜ第一声がこれなのかは自分でも分からない。
「ん?」と、これは僕だが、何か自分の声に違和感を覚えた。今度は「あー」と声を伸ばし、じっくりと聴いてみる。
やはり高い。この声は紛れもなく自分の声帯が空気を振動させて出している音だが、僕の記憶ではここまで高くなかったはずだ。
言うなれば、中学生くらいの女の子のまだあどけない澄んだ声であった。
記憶と現実の齟齬に頭の中が混乱してきた。
「混乱してるところ悪いけど、ちょっと付いてきて」と女性が言う。
僕は「はい……」と小さく答え、すでに歩き始めていた女性の背中を追った。