第二章 薔薇の園で下準備(3)
突然現れた美少女に、心の中だけで溜め息をつく。
少女は蜂蜜色の髪に菫のような紫の瞳をした、私と同じくらいの年頃の可憐な美少女だ。瞳と同じ色のドレスが白い肌に映えて美しい。
この容姿を持つ、ムカ男をエル兄さまと呼べるほど親しい少女。私は一人だけ心当たりがある。
「彼女はエーミス伯爵家の第二令嬢、エレンだよ。そして、今は僕の恋人さ」
「……恋人?」
ムカ男の眩しい笑顔と目の前の少女の怒りを秘めた偽物の微笑が対照的だ。
「エレン、この娘は僕の遠縁の親戚にあたるマリアンヌだよ」
「まあ、ティレット侯爵家の?」
「ああ、そうだよ。知っているのかい?」
「勿論ですわ。評判の美姫ですもの」
こういった噂に疎い私でも知っているほど彼女は有名だ。
母や姉のような攻撃的な美人とは系統が異なり、か弱くて庇護欲を誘うような印象がある。母や姉もすぐに泣いたりと鬱陶しいが、男の機嫌を取るような真似は一切しない。しかし彼女は適度に馬鹿で適度に健気な女性で、男の理想そのものなのだそうだ。そんなこんなで彼女の信奉者も母や姉に負けず劣らず多いらしい。
「兄さま、私も兄さまの恋人に紹介して下さらない?」
マリアンヌの後ろから、もう一人少女がやって来て言った。黒髪に金色の瞳の少女だ。切れ長の目が知的で涼やかな印象を受ける。マリアンヌたちよりは落ちるが、彼女も美人と呼んで差支えないだろう。
「クラリッサも来ていたのか。エレン、僕の妹のクラリッサだよ。君と同い年の筈だ」
「私はエレン・エーミスと申します。よろしくお願いしますわ」
「そんなに畏まらないで。私のことも呼び捨てで構わないから。こんな女にだらしない男と付き合って貰えるなんて、妹としてはそれだけでありがたいもの。ねえ、兄さまもそう思うでしょ?」
クスクス笑いながらクラリッサはムカ男に問う。ムカ男は苦笑していた。
「クラリッサには敵わないな、全く。さて僕の可愛い妹は、マリアンヌと二人きりでここに来たのかい?」
「さあ、どうでしょう?」
ニヤリと笑うクラリッサの更に後ろには、よく見ると更に人がいた。頭にベールを被り、顔を隠した女性だ。
「こういうことは止めた方がいいと思いますけどね。分かっていますか? そこのお嬢さん」
呆れたようにムカ男がその女性に話しかける。不審に思って凝視すると、ベールの隙間から見覚えのある顔が覗いた。王族主催の舞踏会で王や王妃の横に立っていた少女、彼女は王の一人娘――この国の王女だ。王女、クラリッサ、マリアンヌは幼なじみで仲が良いらしいく、舞踏会でも連れだっているところを多く見る。だから二人と一緒にいるのは分からないではないが、普通はありえない珍事だ。
トレンス庭園がいくら王宮の中と言えども、王女が共も連れずに歩きまわるなど考えられない。驚きのあまり叫びそうになるが、口を半開きにしただけでどうにか無言を保った。その様子を見た王女、グロリア・バレンバーグはにっこり笑うと人差し指を唇にあてる。静かに、ということらしい。……王女はかなりのおてんばだという噂を小耳に挟んだことがあるが、もしかして事実だったのだろうか。
「あら、大丈夫よ」
「大丈夫? 目敏い連中は気付いていると思いますよ。そういう連中は貴方より分別があるので、無暗に騒ぎださないだけです」
流石のムカ男も、グロリア様相手にはまともなことを言うらしい。真面目に苦言を呈している。
「嫌味ねえ。そんなに気になるなら場所を変えましょうか。私の部屋に来なさい」
そう言うと、グロリア様は先に立って歩き出した。私とムカ男を見比べては不満そうにしているマリアンヌは、クラリッサに肩を掴まれついて行く。
あまりの急展開に思わずムカ男を見つめると、処置なしと言うふうに首を振った。ついて行くしかないらしい。そんな馬鹿な。何故に王女様とお近付きに? どこからどう見てもおかしい。これはいよいよ面倒なことになってしまった。
半ば茫然としながらムカ男に引き摺られるようにしてついて行く。滅多に入れない王宮の奥深くまで進んで行くが、見学する気になど到底なれなかった。とてつもない疲労感に見舞われながら、のろのろと足を進める。
先を行くグロリア様は、豪華な彫刻の施された扉を開くとベールを取った。白い肌に燃えるような赤毛が特徴的な、私と同い年の少女だ。おてんばで悪戯な笑みが、健康的な魅力を添えている。
「エレン、こんにちは。気付いてると思うけど、私はグロリア・バレンバーグ、この国の王女よ。エルバートの気に入った女の子がどんな娘なのか見てみたかったの。何しろ、一緒に釣りするって言うくらいだから」
グロリア様の言葉の一ヶ所、釣りするというところで思い切り顔をしかめた。
釣りと言ってものどかに魚を釣る方の釣りではないだろう。釣るのは人間だ。つまり、ムカ男は誰かを引っ掛けたいのだ。知りたいこととやらを知るために。しかし、何故それをグロリア様が知っている?
「釣り? クレイヴン様。まさかとは思いますが、今日私とトレンス庭園に行くこと、グロリア様にお伝えしていましたの?」
「正確には釣りの下準備だね。姫様には言っていないよ。妹やマリアンヌには協力して欲しいってお願いしてあったけどね」
答え、最初から私とムカ男が恋人の振りをしてトレンス庭園に来ることを知っていたから。これしか考えられない。あはは。ありえないっつーの。
「協力? もしかして、トレンス庭園で声を掛けて貰うことですの?」
私はわざとらしいほどの笑みを浮かべて追及する。人目を憚って一応はお嬢様ぶっているが、ムカ男しかいなかったら物凄い言葉遣いをしていたに違いない。
「ああ、そうだよ。誰かが声を掛けるだろうと思っていたけれど、もしものことがあるからね。やるなら確実にやらないと」
どこの世界に自分を好きな女の子に、他の女と恋の噂を立てる手伝いを頼む男がいると言うのだろう。例え嘘でもそんな非常識な真似をする男は、いくら大陸広しとは言えこの男以外はいないだろう。信じられない。
「ごめんなさいね。兄さまと知り合ってから碌なことがないだろうけど、見捨てないでやって。あと、兄さまから聞いてるからいつも通り喋って大丈夫よ?」
「……そう、じゃあ遠慮なく。あんた、なんでそんな人のこと一切考えないでぽんぽんぽんぽん何でもかんでもやっちゃうの?! ふざけんな! いい加減にしろ!」
クラリッサに促され、私は溜まり溜まった苛立ちを吐きだした。
いつもより更に口調が崩れている気がする。この男といると馬鹿みたいに疲れるせいなのだろうか、いやそうに違いない。
「クラリッサ、君が余計なことを言うから怒られたじゃないか。と言う訳で、ちょっとおいで。姫様のことでも話があるからね」
「はいはい。自分は好き勝手やってるくせに、人のことになるとうるさいんだから」
クラリッサは仕方なさそうにムカ男に連れられて部屋を出た。妹の前では割と真人間をやっているようだ。つくづく意外と言うか、非常識ぶりを散々見た後では目を疑う。
「あんた、何クラリッサのこと見てるの? まさかあの娘の出自を見下してるんじゃないでしょうね?」
ムカ男がいなくなった途端、マリアンヌが豹変した。目を吊り上げて私を睨み、声を低くして脅しつける。二面性がありすぎて、ここまで来るともう何も言えない。
しかし、出自とは何だろう。その手の噂は右から左に聞き流しているので、私はよく知らないのだ。
「出自? クラリッサの出自って何かいわくでもあるの?」
「はあ? とぼけないでくれる? 分かってるんでしょ、あんたは。ったく、かまととぶっちゃって底意地の悪い」
つっかかってくる目の前の女が面倒臭くて堪らない。今日は一体何なんだ。最近、悪い霊にでもとり憑かれたのだろうか。よし、今度除霊してもらおう。
「いや、本当に知らないから。家同士の力関係とかそういう噂にはある程度は網張ってるけど、人様の出自まで構ってられないし、興味ないって」
「あんた、本当に知らないの?」
「だからそう言ってるでしょ」
「信じられない。あんなに有名なのに」
呆れたようにマリアンヌは首を振る。好きでもない男のせいでこんなにキャンキャン責められるなんてうんざりだ。面白そうに見物しているグロリア様に一言物申したい。求む、仲裁。
「クラリッサはね、八歳のときにいきなり現れたのよ。クレイヴン公爵によると、クラリッサは体が弱かったから田舎で静養させていたんですって。体調がそこそこ良くなったから王都に連れて来たらしいわ」
私の心の声が届いたのか、グロリア様が説明しだした。
「でも、それまでは影も形もなかったのよ。本妻の子だとしたらあんまり不自然でしょう? だから愛人の子どもだって、もう周りが騒いで騒いでねえ。あんまりうるさかったから、エルバートが私たちのとところへ連れて来たのよ」
グロリア様とマリアンヌは従姉妹同士にあたる。マリアンヌは王妃の弟の娘なのだ。年齢と血縁を鑑みて、彼女は王女のご学友として幼い頃から親しく付き合っているらしい。その程度のことは、ハミッシュから聞いたことがある。
「公爵家の娘だって言っても妾の子だったら大した効果はないわ。けれど、王女の友人だったらまた話は違ってくる。だから口さがない噂はかなり減ったの。でも陰でこそこそ余計なこと話す輩は絶えなくてね、あんたもそうなんじゃない?」
威嚇するマリアンヌは、子猫を守ろうと躍起になる母猫に見えなくもない。ひょっとしたらクラリッサが心配で、神経を尖らせていたのかもしれない。あまり悪い娘じゃないのかな、と少しだけ思った。
「で、そんな厚い面の皮でエル兄さまも誑かしたって訳ね? はあー、呆れた」
けれど、そう思った矢先にこれだ。台無しだろう、もう。
「言っとくけど、今回のは恋人の振りだから。あんな男の恋人になるなんて、ぞっとするったらありゃしない」
「エル兄さまに何言うのよ! あんたみたいな地味な女にはもったいないくらいじゃない! 一体何が不満だって言うんだか。理想ばかり高くて身の程を知らない女はこれだから嫌ね」
「失礼な。大体、あんなどうしょうもない女誑し相手にどうしてそこまで盲目的に入れ込めるのかさっぱり分からない。あ、もしかして本当に目が見えなかったりして。だからあんなのを信奉できるってことか、なるほどね」
ぐっとマリアンヌは言葉に詰まった。怒りで言葉が出ないらしい。
「確かにあの男は今、私に妙に構ってるけどどうせ一過性のものでしょ。私のことなんて、そこら辺に転がってるちょっと毛色の違ったおもちゃぐらいにしか思ってないから。それぐらいのことでそんなに騒がないで」
「エレン、それぐらいで勘弁してあげてくれない? マリーも少し言い過ぎただけだから。それに、兄さまが家族や親戚以外でこんなに構ってる女の子はエレンが初めてなのよ。特に仕事の相棒に女を選ぶなんて前代未聞ってくらいね。だからちょっと心配になったのよ、マリーは」
今のうちに主張すべきことは全て言っておこうとまくし立てる私に、いつの間にか帰って来ていたらしいクラリッサが仕方なさそうに告げた。マリアンヌは決まり悪そうに俯いている。一応、クラリッサが先ほどの話を聞いていたか気にしているようだ。
「そっか、私も言い過ぎたみたい。でも、別にあの人は私のこと特別扱いしてるとは思えないし、まして恋愛感情持たれてるなんてとてもじゃないけど想像すらできないって言うか」
「エレンはそう思うかもね。でも、あれでもかなりの進歩なのよ。今までは女と見れば適当にあしらって本気で相手したりしなかったから。ほとんど女嫌いって言うか。でも貴方のことは対等に扱ってるみたいだし、恋愛感情うんぬんは置いておいて兄さまの仕事に付き合ってあげて」
申し訳なさそうに言うクラリッサは、ムカ男よりも年上に見える。納得しがたいところも多々あるが、クラリッサのお願いは純粋に兄を心配してのもののようなので、黙って頷いた。
……ほんの少しぐらいは、馬車の中でのムカ男を思い出したことも関係しているかも知れないけれど。あの微笑はまるで捨てられた子どもが強がって浮かべたものであるような、そんな気がした。何と言うか、見捨てるようで良心が痛む。
「ありがとう、エレン。兄さまの妹としてこれからよろしくね」
「こちらこそ」
ぱっと花が咲くようにクラリッサは微笑んだ。つられて私も笑顔になる。
「ずるいわ、クラリッサ。私もエルバートのお眼鏡に叶った女の子とお近付きになりたい。私もよろしく」
「はい、私なんかで良ければ」
グロリア様に抱きつかれ、いい加減に返事をした。もう段々どうでも良くなってくる。私を睨んでいるマリアンヌも、さらりと見なかった振りをした。疲労が限界に近付きつつあるようだ。
「あ、そう言えばエルバートは?」
「オルガ騎士団のお偉方に捕まって嫌味合戦中ね。だから私も兄さまから逃げて来られたの」
思うに、クラリッサはムカ男相手には遠慮がない。兄妹ならではの間合いと言う奴だろうか。