第二章 薔薇の園で下準備(2)
ムカ男の訳の分からない発言に混乱する。
この男、突然何を言い出すんだ。あんなにべらべら喋っておいて、関係ない? いや、正確には全く関係ないと言っている訳ではないが、それにしたってどういうつもりだ。
壁際に控えていたライルも怪訝な顔をしている。
「いくらなんでも捜査上の機密を全部言う訳にはいかないからね。他にも気になることがあるし、エレンがいた方が都合がいい」
「……何それ。いや、話せないのは仕方ないけど、さっきのは何? かなり色々喋ってたでしょ」
「あれぐらいは別に機密じゃないからね。多分、君も落ち着いて考えればあれぐらいは思いつくだろう?」
確かに落ち着いて考える時間がもう少しあれば、私も既にあれぐらいのことは思いついていた筈だ。
「それはそうだけど。だからって、何故私なの? エーミス家の人間なら誰でもいいでしょ。蒼海の淑女の持ち主である姉の方が自然だと思うけど?」
「いや、君の方が適任だ。僕の知りたいことの鍵は、どうやら君のようだからね。それにルシール相手だと捜査がやりにくいし、捜査のついでに君を口説くこともできる」
思い切り顔をしかめた。姉相手ではさぞかし捜査はやりにくかろうと思うが、ついでに私を口説くって何を考えているんだ。
「ふざけたこと言わないで。それに、家にとってはいいこと尽くめだけど、私個人にとっては不利だから。恋人の振りなんかして、エルバート・クレイヴン信奉者に刺されたらどうするの」
ムカ男が今までどんな女を連れ歩こうと何も起きなかったのは、ムカ男自身が彼女たちを恋人ではないと明言していたからだ。そうでなければどうなっていたことか、想像するだけで恐ろしい。血みどろの女の戦いが繰り広げられていてもおかしくないだろう。
「多分、平気だよ。君はほとんど外出しないらしいし、その数少ない外出するときは腕利きの護衛がついてるそうじゃないか」
ムカ男はちらりとライルを見る。ライルはハミッシュの跡目になる前は、私の従者兼護衛をしていた。その名残と、私が出掛けるのはほぼ仕事がらみであることで今も外出にはライルがついてくる。
「あの、精一杯のことは致しますが、自分は万能ではないのでそんなに期待して頂いても応えられないこともあると思います。ですので、危険はなるべく減らす方向でお願い致します」
ライルが思わずといった様子で口を挟んでくる。確かに見過ごせない一言だろう。人任せ過ぎる発言だ。
「大丈夫、大丈夫。君、かなり優秀だしね。腕も確かだって噂だよ。できるならエウラに引き抜きたいぐらいなんだけど、君たちが手放さないだろうから泣く泣く諦めたよ」
「そこまで言って頂けるのはありがたいですが、自分などはまだまだです。しがない修業中の身ですから」
「いや、夜猫が来た日に一応君の記憶で作ってもらった名簿で身体検査の漏れがないか確認してたんだけど、一人の間違いもなかったからね。僕も驚いたけど、部下の方がもっと驚いてたよ。それで是非エウラに来て事務仕事やって欲しいって呟いていたね」
私が知らないうちにライルはそんなことまでしていたらしい。流石はライルだ。しかし、優秀だと言ってもらえることは主人として喜ばしいが、引き抜きはお断りだ。
「ライルはうちの子だからあげません。ライルがどうしてもって言うなら考えるけど、その前に引き留めまくるから」
「ま、だろうね。ライル君のことは置いておいて、そう言う訳だから今からトレンス庭園に行くよ」
「……仕方ない。何か色々誤魔化されてる気がするけど、行くよ。ちなみに、今日は公休使って来てるでしょうね?」
本当のところは仕事の一環だが、恋人宣言をするならば話は別だ。傍から見れば完璧に遊びだろう。私がムカ男を誑かして仕事をずる休みさせたとか言われても困る。
「勿論だよ。君だけじゃなく僕の評判まで落ちるから、その辺りに抜かりはない」
「そう。なら、気乗りしないけど行きますか。ライル、このことはベルの耳に入れないようにしてね」
「畏まりました」
ライルの返事を聞いて椅子から立ち上がると、客間を出た。ムカ男も私の後をついてくる。
「僕の乗って来た馬車で出るから、他に何か用意するものがあったらしておいで」
ムカ男に言われて一旦、細々としたものを取りに部屋に戻る。手ぶらは不味い。それから髪飾りを普段使いのものから余所行きものに変えた。ドレスはそのままでも構わないだろうが、装飾品をもう少し華やかにしないと恋人同士で出掛けたようには見ない。
用事を全て終わらせて表に出ると、流石は公爵家と思わざるを得ない立派な馬車があった。馬車そのものの造りも見事で側面に施された繊細な細工が目を惹くが、繋がれている馬も素晴らしい。毛づやも良く綺麗に筋肉の付いた栗毛が二頭、繋がれている。
この馬たちをハミッシュが見たら、きっと目を輝かせる筈だ。実のところハミッシュは大の馬好きで、馬に目がない。私の馬を見る目もハミッシュによって磨かれたのだ。
「お手をどうぞ、エレン」
思わず馬に見惚れていた私に、ムカ男は紳士的に手を差し出した。甘い笑みを浮かべたその姿は、すこぶる絵になるだろう。一言言ってやりたい気もするが、今から猫をかぶっておいた方が無難であるため諦めてそのまま手を取った。ここはもう外だ。一応うちの敷地内とはいえ、往来から全く見えない訳ではない。
「ありがとうございますわ、エルバート様」
「このくらい当り前さ」
嫌だなあと思いながらムカ男の名前を呼び、馬車に乗る。外観を見て予想していたが、中も豪華だ。下品にならない程度の装飾が高級感を醸し出している。座席も柔らかそうで助かるが、一体この馬車にいくらかかっているのかと想像がかきたてられてしまう。
「ねえ、この馬車っていくらかかってるの? て言うか、あの馬は馬車に繋ぐには贅沢過ぎるでしょう」
「馬車に乗るなりそれかい? まあ、エレンらしくていいけどね。馬車の値段は秘密だよ、女の子にそんなの教えるなんて締まらないから」
馬車の扉が閉まるなり、動き出した馬車の振動を感じながら開口一番問う私にムカ男は苦笑する。名前の呼び捨ても、値段を教えない理由が女の子だからなのも気に入らなかったが、黙っていた。値段なんて訊く方が正直少し非常識だし、名前は察するに、分かってやっているのだ。
「それと馬は、いつ何があるか分からないからいいのを繋いでるんだ。いつでも馬車から外して単騎で走りだせるように。僕は仕事が仕事だからね。それにしても、馬に着目するなんてエレンは馬が好きなのかい?」
恋人の振りをして欲しいと頼まれてから、それを承諾するまでムカ男は一切私の名前を呼ばなかった。一貫して代名詞だ。きっと、話が脱線しないように控えていたのだろう。
今になって名前を呼ぶのは……私の反応を楽しんでいるからなのだと思う。そんなことに付き合うなんて不毛だ。無視しよう。無視するべきだ。
「……名前呼ぶな」
「嫌だよ。エレンの嫌そうな顔はすごく可愛いから」
苛立ちを抑えられなかった。
ムカ男のにこやかな笑顔に更に苛立つが、何とか立て直してにっこりと微笑んだ。
「まあ、エルバート様ったら特殊な趣味をお持ちなんですわね? 驚きましたわ、思っていたよりずっと残念な方で」
「僕もだよ。思っていたよりずっと、エレンは猫をかぶるのが下手だね」
そんなことはない。この男が目の前にいるとどうも調子が狂う。他の人間相手ならばいくらでも騙せるというのに、ムカ男だけがどうにも上手くいかない。……ますます腹が立つ。
「エルバート様ってどうしてそんなに嫌味なんですの? そこまで底意地が悪いなんていっそ清々しいですわね」
「清々しいのなら何よりだよ。僕も楽しいしね。エレンと話していると面白くて飽きないから」
思い切り馬鹿にされている。このまま話していても埒があかないだろう。話題を変えるべく、口を開いた。
「あのさ、単刀直入に訊くけど、なんで私のこと恋人にするなんて言ったの?」
「面白くて、興味を惹かれたから」
「じゃあ、私のこと好きなの?」
「好きだよ。エレンといると退屈しないからね」
どうも好きの意味が私とムカ男では違う気がする。この返答ではまるで目新しい玩具の感想だ。
「なら、私のこと愛してるの?」
ムカ男は黙ったままだった。ただ、私の目を真っ直ぐに見て微笑った。夏空と同じ色の目が細められて、ムカ男は胸が苦しくなるような微笑を浮かべていた。つい先ほどまでの腹が立つほど余裕そうな雰囲気は欠片もない。
ついうっかり、私はその笑顔に呑まれた。呑まれて、トレンス庭園に着くまで細く開けられた馬車の窓から外を見ていた。……ムカ男の顔を、見ていられなかったから。
微妙に気まずいままトレンス庭園に到着したが、外に出てからの方が楽だった。お互いに恋人同士の演技をすればいいのだ。演技と言う点では、おそらく二人とも年季が入っている。
「綺麗な薔薇ですわね、エルバート様」
「ああそうだね、エレン。気に入ったかい?」
右手でムカ男と腕を組み、左手に純白の日傘を持っている。今はもう初夏だ。普通の貴族令嬢の必需品である日傘は手放せない。普通ではない私には鬱陶しいが、仕方ないだろう。
寄り添い合い、空々しい甘い空気を周囲に振りまきながら会話する。
「勿論ですわ。私、花の中でも薔薇は好きな方ですの」
「意外だな。エレンは野の花の方が好きだと思っていたよ」
ムカ男は素で言っているようだった。私に女の子らしい可愛げはないし、派手なものもあまり好まない。だから、そう思うのも無理はないだろう。実際、私も薔薇の上辺の華麗さだけに惹かれている訳ではない。
「ええ、好きな花のほとんどはいわゆる温室の花ではありませんわ。けれど、薔薇だけは例外ですの。美しい姿と優雅な香りを持ちながら、その上辺に惹かれて手を出した者には身に纏う刺で容赦なく制裁を加える気高い花、そんな印象が強くて」
「……そうか。エレンは薔薇の花が好きなのか」
珍しくムカ男の歯切れが悪い。熱烈な恋人同士という設定なのに、これではそう見えない。
「エルバート様は、私になど薔薇は似合わないと仰りたいんですの?」
組んだ腕に服の上から爪を立てた。痛くはないだろうが、意味は十分伝わるだろう。
「いいや、少し意外だっただけだよ。エレンに似合う薔薇は、白い薔薇かな。小ぶりの、可憐な薔薇が良く似合うだろうね」
「そう言って頂けると、私も嬉しいですわ」
意味をすぐに察したらしく、ムカ男は素早く笑顔になって会話を再開する。
相変わらずトレンス庭園は混んでいた。異色の組み合わせでいちゃついている私たちは、既に人目を集めている。少しでも変な様子があれば、私とムカ男が恋人同士であるなどと言う無茶なことは信じてはもらえないだろう。
ムカ男と馬鹿みたいなやり取りをしながら辺りを見回すと、赤、白、黄色、桃色を始めとする色取り取りの沢山の薔薇が咲き誇っていた。一口に薔薇と言っても花びらの数や形などは多岐に渡っており、目を楽しませてくれる。人工的に吐き気がするほど濃く香る香水と異なり、天然の甘い香りも芳しい。
「エル兄さま、その方はどなたですの?」
薔薇に集中していると、不意に後ろから声を掛けられた。
振り向いた私の視線の先にいたのは、可憐な少女だった。一応微笑んではいるが、目には敵意が浮かんでいる。なんであんた程度の女がエル兄さまと腕組んでるの、身の程を弁えて、という心の声が聞こえてきそうだ。
……面倒なことになってしまった。