第一章 盗まれた日常(5)
動悸がする。
表面上は平静を装って母の部屋の扉を叩くが、やはり動悸が止まらない。
「エレンです。クレイヴン様が今回の件でお客様の身体検査をしたいそうで、案内して参りましたわ」
挨拶をし、入室する。
寝室の前にある客も招けるようなその部屋で、母は長椅子に横たわっていた。こうしていると、胸元から肩、背中にかけて大きく露出した部分が目立つ。真紅のドレスに包まれた豊満な肢体は、普段よりも更に性的な魅力に富んでいる気がした。
残念ながら母はもう意識は取り戻したようだが、力ない様子で顔色も優れない。その母を囲むように、数名の男たちが盛んに母を心配している。
「あら、エルバート様。来て下さったの? 嬉しいわ、そんなに心配して下さるなんて」
しかしムカ男を見た瞬間、今までの弱弱しい雰囲気は消え去り蠱惑的な笑顔を浮かべる。非常に母らしい。
「遅くなって悪かったね、オリアーナ。仕事が立て込んでいて、中々来ることができなかったんだ。身体検査なんて、ほんのついでだよ。本当は君に会いに来たんだ」
「まあ、それだけでわたくし、元気になりますわ」
「君のような美しい人から、そんな風に言ってもらえるなんて光栄だな」
桃色の空気を出すムカ男に、この部屋にいた男たちや部下の騎士が白い目を向ける。しかし、一切気にしていないようだ。
「あら、エレン。いたの?」
母はたった今気付いたかのように言った。視線に嫌悪を滲ませ私を見ている。
「はい、騎士の方々を案内させて頂きましたの」
「エルバート様に失礼なこと、してはいませんわね?」
母の問いには、言外にこの男は自分のものなのだから手を出したらただではおかないという威圧感が漂っていた。言われなくてもムカ男なんかとどうこうなる気もないし、大体それ以前になれるはずがない。私は母とは違う。ムカ男だって、先ほどの発言は面白がっていただけの筈だ。
「勿論ですわ」
「ならいいけれど、わたくしに恥をかかせるようなことだけはしては駄目よ? 貴方みたいな地味な子に、多くを求めてはいませんの。それだけやってくれればいいわ」
「ええ、分かっていますわ」
淡々と答えを返す。母と私は、生まれてこの方こんな会話ばかりだ。内心は放たれる圧力に押され気味だが、いい加減このぐらいは何食わぬ顔でやり過ごすことができる。
「ではオリアーナ、無粋なことを言うようで済まないが、彼らに身体検査をさせてくれるかい?」
「勿論、どうぞ。エルバート様のお仕事の邪魔をするなど、わたくしも本意ではありませんもの」
母の言葉に、控えていた騎士たちが動き出す。母の取り巻きの中でも特に熱心な男たちは、何も言わずにされるがままだ。母の言うことは絶対である、母の取り巻きらしい。本当のところは、母が首ったけであるムカ男の指示に従うなど面白くないだろうに。
人数が少ないため、僅かな時間で身体検査は終了した。やはり不審なところは見当たらない。
「ありがとう、オリアーナ。君のおかげで手早く済んだよ。本当はお茶でもしていきたいんだけど、まだ仕事があるんだ。ごめんよ、美しい人」
「まあ、そうですの。なら仕方ありまあせんわ。今度、是非遊びにいらして下さいませね? お待ちしていますわ」
「ああ勿論さ。必ず行くよ」
美しい人と煽てられ、母はあっさりとムカ男を解放した。いつもの粘着加減を思い出せば破格の素早さだ。しかも母とのやり取りはほとんど全部ムカ男がやったので、私もいつもよりずっと楽だった。女誑しの面目躍如だろう。
と言う訳でさっさと母の部屋を出ると、姉の部屋へと向かった。
先ほどに比べてかなり心が軽い。姉とは特に親しいという訳ではないが、苦手な訳でもないのだ。嫌のことは先に済ませてしまったし、後は気楽だった。
途中、騎士たちが何か言いたそうにしていたが、すべて無視する。きっと、先ほどの私と母のやり取りについてだろう。エウラの騎士はほとんど平民だろうし、普通の家庭で育ったはずだ。その彼らにしてみれば、あんな冷え切った親子関係は奇異に見えるだろう。
十分予想できる。気持ちも分かる。だから、何か言いたくなって当然だ。でも、私は聞きたくなかった。言われてもどうしょうもないことだから。
「エレンです。エウラ騎士団の皆さまがお客様の身体検査をしたいと言ってらしゃるので、案内させて頂きましたの」
姉の私室の前に立つと、母のときと同じような挨拶をして入室した。
姉は母のように寝室の前の部屋で長椅子に座っていた。先ほどよりはましだが、それでもめそめそと泣いている。そして、そのまま蒼海の淑女の送り主であるルパートにもたれていた。慣れない事態に困惑しているのか、ルパートはほぼ固まっている。その周りを姉の取り巻きたちが取り囲み、慰めの言葉を口にしていた。
「ちょっとは落ち着いたか。これなら話が聴けそうだね」
ムカ男の呟きは黙殺し、この場にいる取り巻きを見た。
彼ら姉の取り巻きたちは、母の取り巻きよりも平民が多い。
実は、二人は男の趣味は同じなようで微妙に異なっている。母の好みは顔が良く、身分の高い男だ。それに加えて若い男が多い。
母と変わって姉の方は、身分はあまり気にしていない。その代わり、財力のある男でなければならないが。しかし、男性としての魅力があればそれなりに歳の行った男でも取り巻きに加えているようだ。勿論、それ以前に顔の造作による厳然な審査があり、他のは付属品のようなものだが。
その顔の良さに加えて大金を持つ男どもは、姉のご機嫌取りに必死なようで私たちのことなど気付いてもいない。ルパートはルパートで、それどころではない様子だった。
「あの、クレイヴン様が皆さまの身体検査をしたいそうなのですが」
「クレイヴン……? って、エルバート様がいらしているんですの?」
私は取り巻き連中に声をかけたつもりだったのだが、返事をしたのは姉だった。
「ああ、お邪魔しているよ、ルシール。蒼海の淑女を盗まれたときの話をもう一度聴かせてもらうついでに、彼らの身体検査をお願いしたいんだ」
「分かりましたわ、エルバート様」
姉は今までもたれていたルパートのことなど目もくれず、ムカ男の元へと突進する。やはりムカ男は乙女の憧れの的らしい。しかし、この辺りの反応は母と姉はそっくりだ。
ムカ男は姉の肩を抱き、二人掛けの椅子で密着しながら事情を聴き始める。騎士たちは取り巻きの身体検査をすべく行動を開始した。
私はそっとルパートに近付くと、小声で声をかけた。
「あのさ、どうしてあんな高価な贈り物なんてしたの?」
「ああ、それね。親父から彼女に求婚して来いって言われて、持たされたんだ」
「ふーん。それってさ、本格的にうちの爵位狙ってるってこと?」
エインズワース商会は凄い勢いで売り上げを伸ばしている。次に欲しがるものがあるとしたら、爵位だろう。ルパートが姉に付き合っているのもそういう思惑があるからかも知れないとは、前々から思っていた。だから、今回は蒼海の淑女を贈って確実に姉を落とそうしたのだろう。少々腑に落ちないところもあるが、概ね納得できる。
「まあ、そうなるかな。エレンは不満?」
「いや、別に。ルパートなら如才なく領地経営してくれそうだから」
「そういう意味で訊いたんじゃないんだけどな」
「え?」
心の中まで覗き込むような視線で、ルパートは私を見た。
「ま、別にいいよ。エレンに訊いても多分無駄だし。それより君さ、本当に変わってるよね。そこは普通ふざけるなって思うところじゃないのかな」
先ほどとは表情を一転させ、クスクスとルパートは笑う。どいつもこいつも変ってるだの面白いだのとうるさいことだ。
「だって、姉にはしっかりした旦那を見付けて貰わないと困るから。うちの大事な領地がガタガタになるでしょ」
「ちょっと裕福だからって調子に乗るなよ、たかが商家ごときがって思わないの?」
「身分が高いからってきちんと領地経営してくれるとは限らないしね。私腹を肥やすことだけに夢中な間抜けじゃなければ、誰でも歓迎かな」
そこでルパートは騎士に呼ばれ、身体検査を受けに行った。
暇になった私は、口説いているとしか思えないムカ男を見た。先ほどからものごとを迅速に進めるためか、女を落とす手練手管を駆使しているようなので、見ていてそこそこ勉強になるのだ。悪い男が女を騙す手口が良く分かる。
そうやって視線をやると、姉と目があった。こちらを睨んでいる。ルパートと親しそうにしたのが気に入らなかったのだろうか。それにしても、相変わらず目ざとい。ムカ男に夢中かと思ったら、そうでもないようだ。
何のことだか分かんなーいとでも言いたげな顔をして首を傾げると、姉は一瞬こちらに物凄い形相を向け、それからぱっと笑顔になってムカ男を見つめた。下手に容姿が整っているものだからそれは迫力があったが、母に比べれば大分ましだ。
二人はその妖艶な容姿から氷薔薇という大層なあだ名が付いている。しかもこのあだ名、ソウビのソウは双とかけられており、それほど似ていると世間では評判なのだ。
そんな二人だが、やはり多少の差はある。母の方が年齢を重ねているだけあって、凄みのある美貌をしているのだ。姉の方は若い少女ならではの華やかな雰囲気はあるが、母ほどの迫力はない。まだ少女と言った風情で、寒色系ではあるが淡い色のドレスが多い。
だからさらりと姉をやり過ごし、ムカ男による女誑し劇場を見学していた。
しばらくすると、姉の話を聴き終わったらしいムカ男が甘い笑顔を浮かべて椅子から立ち上がった。その頃には身体検査の方も終了しており、騎士たちもムカ男ともども帰り支度を始める。
「ありがとう、ルシール。助かったよ」
「いいえ、お役に立てたのなら幸いですわ。私、エルバート様なら夜猫も捕まえて下さるって信じていますから」
「ああ、そして必ず蒼海の淑女を取り戻すよ。あの首飾りは君のような美しい人にこそふさわしいからね」
「まあ、お上手なんですから」
母娘揃って同じ言葉でご機嫌になっている。ある意味分かりやすい人たちだ。
こんなやり取りに付き合っているのも面倒なので、私は先に部屋を出た。騎士たちも同じ気持ちなのかぞろぞろついてくる。
「……似てませんね、あの二人とは」
「そりゃあね。あの二人みたいに美人でもないしね」
「そういう意味じゃないんですけど」
「あと、別にいちいち敬語使わなくてもいいよ。私も流れで使ってないしね。それに貴方たちは騎士だしだから。例え貴族と言えども、騎士と比べれば地位は対等かそれ以下だよ」
容姿のことを騎士が言っている訳ではないことは分かっていた。要するに、私ははぐらかした。
「え、そうなんですか?」
「そのはずだよ。そうじゃなきゃ、犯罪に貴族が関わってたときに取り締まれないでしょ。実際には平民か貴族かを重視する人が多いから、波風立てないために平民の騎士は敬語を使うことが多いってだけ。特にエウラの騎士はその傾向が強いんじゃない? エウラは平民ばっかりだし、騎士団の中でも一番力弱いしね」
上手くはぐらかされてくれた騎士の単純さに感謝しつつ、私は語った。
「そうそう、エレンの言う通りだよ。エウラの上層部に貴族がいるのも、その方が威嚇が利くからだね」
姉の部屋から出てきたムカ男が脇から口を挟んできている。と言うか、どさくさにまぎれてムカ男なんかに名前を呼ばれていた。
「ちょっと、勝手に名前呼ばないで。馴れ馴れしい」
「別にいいだろう? 君と僕の仲なんだ」
今日は良く、何だか分からない仲を主張される日だ。
「一体、何の仲だって言うの? もうやることやったんだから、とっとと帰って。ほら、ハミッシュも迎えに来てくれたから」
視界の端にハミッシュが掠った。この機会に是非この男に帰ってもらおうと、羽虫でも払いのけるように手を振る。
「そうか、じゃあ今日のところは取り合えず帰ろうかな」
ムカ男は文句のつけようのない完璧な笑みを浮かべると、私と異なり気障ったらしく手を振った。