第一章 盗まれた日常(4)
慣れないことばかりで強張っていた体をほぐすため、伸びをする。次いでコキコキと首を鳴らしていると、いきなり客間の扉が開いた。
「エレン様、ご無事ですか!」
「見ての通り無事だから落ち着いて、ベル。どうしたの、そんなに焦って」
金茶の髪を高い位置で二つに結った可愛らしい少女が、息を切らして立っていた。髪と同じ金茶の大きな目は、若干潤んでいる。
彼女は私付きの侍女で、すごく私を慕ってくれている。その様は母犬に懐く子犬のようで、生来の愛玩動物的な容姿と相まってとても愛らしい。
「だって、あの女誑しがエレン様を口説いたって! それを聞いたらいても立ってもいられなくて」
慕ってくれるのは私としては嬉しいが、そのため視野狭窄に陥りがちなところが心配でもある。
「別に襲われた訳でもないんだから大丈夫。というか、それ誰に聞いたの?」
「ハミッシュ様が言ってました。あの糞ガキがって」
「……あ、そう。実は密かに怒ってたの」
ハミッシュは私に嫌味を言いつつ、同時にムカ男も威嚇していたらしい。
「あの色気お化けたちに誤魔化されずに、エレン様を選らんだ目の確かさは認めてもいいですけど。でも、だからってあんな男がエレン様に近付くなんて、許せませんっ!」
「色気お化けって、ベル、そんな身も蓋もないこと言わない。母や姉の耳に入ったら大変でしょ。それに、どうせあの男が口説いたのだって本気じゃないでしょ。女と見れば口説かずにはいられないだけだって。私みたいなのでも一応、女だしね」
実のところ、あのとき割とあっさり引いたのはどうせ冗談の一種だろうと思い直したからなのだ。冗談でなければ面白がっているか何かだろう。どちらにせよ、私のような平凡な女相手に本気であんなこと言う筈がない。エルバート・クレイヴンと言ったら若手貴族一の実力派で、色男の代名詞だ。そんな男が私なんかを本気で口説くなど、ありえない。
「な、またそんなこと言って。エレン様は目立つ方じゃないですけど、綺麗です。凛としていて、私なんか子どもっぽいから憧れちゃいます。それを思えば、ちっとも不自然じゃありません。気付かない世間がおかしいんです」
「そんなこと言ってくれるのはベルたち使用人の皆だけだから。褒めてくれるのは嬉しいけど、慰めて貰わなくても大丈夫。私は自分を知ってるから」
「もー、違いますって」
ぷんすか怒るベルは非常に可愛い。見ていて癒される。思わず頭を撫で回したくなってしまう。
実際にベルの頭を撫でていると、コンコンと扉を叩く音がする。そちらを向くと、ライルがひょいと顔をのぞかせていた。
「あー、身体検査の準備できたから、こっち側の責任者としてエレン様に大広間へ来て欲しいって、さっきの騎士団長様が言ってましたけど」
先ほどよりかなり砕けているのはご愛嬌。ライルがあんなに畏まっているのは、来客があるときだけだ。
「ええー、面倒くさいなあ」
ぼやいても無駄なことは分かっているので渋々立ち上がると、はしとベルが私の腕を掴んだ。
「あの男のところへ、一人でなんて行かせられません」
「は? 一体、どういうことです?」
真剣に訴えるベルを見て、ライルが怪訝な顔をする。もの問いたげに私を見た。
「あの男、エレン様を口説いたの! ハミッシュ様の目の前で!」
ベルは私に少し隠れつつ、主張する。ライルは少々目付きが鋭いので苦手らしいのだ。
「そりゃまた、勇気ある暴挙だな。あの人の目の前でそんなことしたなんて、闇打ちされるぞ」
「え、そんなに?」
「じいさんの奴、エレン様のこと目に入れても痛くないってほど可愛がってるじゃないですか。十分ありえます」
大真面目に言うライルを見て、私は今までのことを思い返す。
そこそこ可愛がられている自覚やそれなりに見込まれている節はあるが、そんな溺愛と言うほどの愛を注がれてはいない筈だ。だって、私は父さまの娘でなかったら、平々凡々な特に取り柄と言う取り柄もない人間だ。ハミッシュほどの人物に溺愛される理由がない。
「相変わらず自分のことには疎いですね。まあ、いいですけど」
一切信じている気配のないだろう私を見て、ライルは仕方ないとでも言いたそうな顔をして首を振った。不本意だ。
「とにかく、ベルは手を離して。一人でなんて行かせられないって言うけど、どうせあの男と二人きりになる機会なんてないから大丈夫だって」
いつまでもこうしている訳にはいかない。今日のお客様は身体検査を受けるまでは、大広間で足止めされてしまっているのだ。
「それでも、気を付けてくださいね」
「はいはい、分かったから」
「絶対ですよ」
名残惜しそうなベルを振り切り、ライルと客間を後にする。そのまま二人で大広間に向かって歩いていると、ライルがぼそっと喋りかけてきた。
「ベル、俺のこと怖がってますよね」
「あー、うん。目付きがね、鋭いでしょライルは。だから、それがちょっと怖いらしくて。でも、そんなに気にしなくてもね、いいと思うよ」
歯切れ悪く言う私に、ライルはじとっとした目を向けた。
「そんな言い方されても……。もう、ここで一緒に働き始めて何年も経つじゃないですか。その間ずっと怖がられたままって言うのは、やっぱ落ち込みますよ」
「ベルもライルのことはいい人だって言ってたし、純粋に真顔が怖いってだけだからさ。そんなに落ち込んだりしないであげて。あの子もライルのこと避けちゃうの、気にしてるみたいだから」
ベルがライルの顔が苦手だと私に打ち明けたとき、ライルには申し訳ないことをしているとしょんぼりしていたのを思い出す。垂れた尻尾が見えそうな大変な可愛らしさだったが、とても気に病んでいるのがうかがわれた。
「分かりました。なるべくそうします」
ライルの相談に乗っている間に大広間に着き、使用人用の入り口からこっそりと中に入った。
大広間の中央では、ムカ男が部下の騎士たち数名を従えて身体検査の説明をしている。脇に控えているハミッシュのところへ行くライルと別れ、ムカ男たちの後ろから近付いて騎士の皆さんの横に並んだ。
ムカ男の説明が一段落したところで、後ろに振り向いたムカ男に視線で促され前に出る。
「本日は姉の誕生を祝って皆さまに集まって頂いたのに、このようなことになってしまい誠に申し訳ございません。不快に感じる方もいらっしゃいますでしょうが、どうぞ身体検査へのご協力をよろしくお願い致します。我が家では一番の若輩者で失礼致しますが、体調の優れない母と姉に変わりまして、エーミス伯爵家を代表し私がお願いさせて頂きます。こちらの不手際の尻拭いに付き合わせる形となってしまい、大変失礼致しました」
お嬢様喋りを封印し、悪印象を持たれぬようできるだけ丁寧な敬語を心掛けた。
男性ならばただ丁寧に話せばいいという訳ではないだろうが、女の私はその辺りのことはあまり気にしていない。丁寧語程度ならば女性は、相手の爵位を問わず貴族男性全般に使用するのも一般的だ。今回は謝罪なので、かなりがっつり敬語で話したが。
貴族も大変なのだ。貴族同士の力関係によって微妙な作法の使い分けの多いこと多いこと、日々うんざりしている。
私の挨拶の後、ムカ男から具体的な指示出て身体検査に入って行った。
私はムカ男の隣に立ち、検査に立ち会う。その間、立会人の私たちが私語をしていたら締まらないので、事務連絡以外は無言だった。喜ばしいことだ。
そんなこんなでつつがなく大広間の身体検査は終了した。その結果、異常は何もなかった。
特にこれと言って不審なものを所持している人物もいなかったし、聖遺物も女性などが護身用として持っていたもの以外は持ち込まれていなかった。予想通りの結果だ。
これにて大広間にいた来客者はお役御免となった。責任者として三々五々帰って行くのを見届ける。最後に一人を見送ると、次の仕事にかかるためにムカ男の方を向いた。
「これで全員の検査は終わりかな?」
「いえ、姉と母の部屋に男性が数名いるはずですの。まずは、母の部屋に案内致しますわ」
「そうか。じゃあ、ルシールの部屋に行ったときはついでに改めて話を聞こうかな」
「大広間ではそれどころではありませんでしたから、それがいいですわね」
そう言うと、私は先頭に立って歩き始める。その後ろからムカ男率いる騎士たちが続いた。
「君は、まだ猫かぶりを続けるつもりかい?」
「何のことですの?」
ムカ男が頑張るねとでも思っていそうな顔で私を見る。あれぐらいで取り乱してしまったのは癪だったので、上書きしてなかったことにしてしまいたいのだ。
「しぶといね。益々気に入ったよ、このままさよならなんて勿体ない。今度一緒に観劇にでも行かないかい?」
「え、珍しい。団長が口説いてるんですか? 女性を? いつも、来る者拒まず去る者追わずだったのに。あの胸焼けするような甘ったるい台詞も、寄って来た女性のご機嫌取りに使うだけだったじゃないですか」
興味を持ったらしい騎士の一人が口を挟んできた。
「ああ、彼女はそこらのお嬢様と違って面白い」
「面白いって、どう考えても女性への褒め言葉ではありませんわ。そんな失礼な言動、慎んで下さいます?」
「ほら、こうやって即座に反撃するなんて珍しいだろう? おまけに使用人を貶したら、無礼なこと言うなって凄い剣幕で怒ったんだよ。貴族令嬢としてはかなり異色だね」
「確かに、一般的なお嬢様方とは違いますね」
平然と私を無視するムカ男と、こくこく頷く騎士に苛立ちが募る。
「気品のあるお嬢様じゃなくて悪うございましたね。案内してもらってる分際で、ごちゃごちゃうるさいから。黙ってなさい」
どうせ本性もバレているのだし、お上品ぶっているのが馬鹿馬鹿しくなった。それに、騎士団長様だからと色々取り繕うのも阿呆らしくなってきている。こんなムカつく男にあれやこれやと気を回す必要なんてなんてあるのだろうか。答えは否。断じて否。
「おお、凄い。こんなに攻撃的な反撃を繰り出すとは。団長の無敵の顔の良さにしてやられない女性がいたなんて、感動です」
「確かに。団長が不倫して、相手の旦那に申しこまれた決闘をすっぽかしたという噂が王都中を駆け巡っても、団長と目が合った女性はもれなくのぼせ上がるのにな」
「そうだよなあ。あのときは流石に団長の人気も地に落ちたに違いないと小躍りしたのに、全っ然そんなことなくて、俺は落ち込んだ」
「そうそう、だよな。もう全ての女性は団長の虜なのかと思ってた」
騒ぎ出す騎士たちを見て、何だか可哀そうな気がしてきた。こんな男が上官では、さぞかし劣等感が刺激されるだろう。しかもそんな泥沼不倫をするようでは、部下としては気が休まらないに違いない。
「と言うか、あんたはそんなどうしようもないないことをしてたの?」
「どうしようもないって?」
「不倫して決闘申しこまれたのにすっぽかしたことに決まってんでしょ」
そらっとぼけるムカ男にムカつきが増す。
「え、知らなかったんですか? かなり有名な話なんですけど」
「社交の場には滅多に行かないし、そんな下らない醜聞になんて興味ないから。流石にこの男がかなりの遊び人だってことは知ってるけど、そんな細かい話までは知らない」
驚く騎士にそう答えると、ますます驚いた顔をされた。
「うーん、貴族のお嬢様って皆、着飾って噂話に花を咲かせるのが趣味だと思ってました」
「それで間違ってないよ。私が特殊なだけ」
「やっぱり、特殊って自覚はあるんだね」
「それはまあ、ね。認めざるをえないから」
ムカ男にそう答えながら、心臓の鼓動が大きくなって行くのを感じた。おかしな話だが、自分の母親に会うだけなのに緊張している。特に、私室を訪ねるなど何年ぶりだろう。もう心理的障壁の高さは計り知れない。できるなら、まだ気絶していて欲しいと思うくらいだ。
ムカ男たちとどうでもいい話をして気を紛らわせながら、憂鬱な気分で足を進めた。