第二章 薔薇の園で下準備(6)
昔を思いだし、幾許かの感傷に浸っていると唐突にムカ男が口を開いた。
「僕から言わせてもらえば、嫌って当然だと思うけどな。調べたんだ、君が母親にどんな扱いを受けていたか。率直に言って、とても実の母親がするような真似だとは思えない。あそこまでやったら憎まれたって文句は言えないよ」
思いつめたように言うムカ男を驚いて凝視する。ムカ男が何を知ったかは分からないが、そこまで感情移入するとは思わなかった。
「この前だって面倒なことは全部君まかせだったくせに、偉そうにしていた。……だから女なんて、嫌いなんだ」
最後の泣き出しそうな呟きに、心の中で失敗したと小さく叫ぶ。私の昔話は、ムカ男の心の傷を抉ったのかも知れない。この様子だとその可能性大だ。泣く子も黙るエルバート・クレイヴンが形なしだ。
この男のことはあまり好きではないとはいえ、他人の心の傷に不用意に近付いて更に深くするような真似はできない。
にしても、一週間前は平然としていたくせに何がここまでムカ男から理性を奪ったのだろう。ムカ男の様子を注意深く観察しながら口を開く。
「私だってあの様子を見たら苛立つし、日常生活の態度とか見てるとふざけんなって思うことも沢山あるよ。ただ、心のどこかで仕方ないなって思ってるだけ」
「でも……!」
そのときだった。がたりと音を立てて温室の扉が開く。
「兄上! 帰ってらしたんですか!」
そう叫び、転がるようにやって来たのは小さな男の子だった。ムカ男と同じ髪と目の色の男の子は、けれど目の前の男と違って天使のように可愛らしい。嬉しくて堪らないと言う様子が愛らしさを更に高めている。
「ユリエル。ああ、うん。そうだよ。ユリエルこそタニアはどうしたんだい?」
「あ、そう言えば。兄上が帰って来ているのを聞いて、走って来てしまったので……」
「きっととても心配しているよ、タニアは乳母としてとても責任感が強いから。それにタニアももう歳なんだから、いきなり走り出したりしてはタニアの体に障るだろう」
ムカ男は先ほどの取り乱しようが嘘のように、優しい笑みを浮かべて男の子――ユリエルと話している。まるで憑きものが落ちたような様子に、私は密かに胸をなでおろした。妹や弟の前だと良き兄へと自動的に変わるらしい。
クレイヴン公爵家には三人の子どもがいると聞いている。ユリエル君はおそらく、その末っ子だろう。歳は確か、六歳だった筈だ。
「ほら、僕とはいつでも話せるんだからタニアのところに戻りなさい」
その言葉にユリエル君はしょんぼりと肩を落とし、温室から出ようと後ろを向く。が、それで私がいることに気付いたらしく目を丸くした。驚いたように目を見張り、固まる。来客があるとも知らずに駆けてきてしまった自分を思いだして、思考停止状態なのかも知れない。
「こんにちは、ユリエル君。私はエレン・エーミス。今日はお邪魔しています。お兄さま、一人占めしてしまってごめんなさい。すぐに返すからもう少し待ってね」
「…………。こんにちは、お姉さん」
ユリエル君は挨拶した私をじっと見つめた後、ちょこんとお辞儀した。
「お姉さんは、いつも兄上が連れている人たちと違いますね」
「違う? それはまあ、その人たちの方が私よりずっと美人だとは思うけど」
少々、微妙な気分になって言う。私は自分の容姿については自覚しているが、六歳の男の子にまで指摘されるとやっぱり少しだけ傷付く。
「いいえ、そうじゃなくて。あの人たちは怖いんです。だから僕も、姉上も母上も心配しているほどで。でも、お姉さんは違うから」
「あー、そうかも知れないね」
容姿のことではなかったという少しの安堵とともに共感する。ムカ男がいつも連れ歩いているような女はそりゃあ怖いだろう。ムカ男の社会的地位もろもろその他に目をぎらつかせているような女ばかりだ。狩りをしている真っ最中の女が怖くない筈がない。
しかしそれを幼い弟に心配されるとは、つくづくムカ男の女の趣味の悪さと不甲斐なさを感じる。
「お姉さんは優しそうです。だから、兄上をよろしくお願いします」
背筋を伸ばして礼をすると、ユリエル君は今度こそ温室から出て行く。可愛い顔に浮かんだ凛々しい表情が印象的だった。
「……私、今日あんたの兄弟二人からお兄ちゃんをよろしくって言われたんだけど。どんだけ心配されてるの、あんた。もうちょっとしっかりしたら?」
ユリエル君を見送った後、私は少し呆れて言った。ユリエル君が来る前のムカ男のことは気になるが、年端も行かぬ弟にあそこまで言わせるような男にかける優しい言葉はない。
「ごめん。さっきは取り乱した。……気付いてるとは思うけど、僕には女性不信の気があるらしいんだ」
ここはクラリッサの見立てが正しいと私も感じていた。話に聞いた女遊びの数々は、本質的に女性が好きな人間がやることではない。その気があるらしいではなくはっきりきっぱりそうだと思う、と言うのは黙って胸に閉まった。下手なことは言わない方が良いだろう。
「僕はそんなつもりはなかったんだけどね。だから、そうじゃないって家族に証明しようと女性と付き合っても、結局今みたいなことになって。いつの間にか女遊びに変わっていたんだ。付き合っている内に、女なんかって思えてきて」
「寄ってくる女と適当に付き合っていたらそうなるでしょう。あんたに進んで寄ってくる女は大抵の人に嫌われる人間ばっかりだから。陰であんたに憧れてるような娘はまだ違うかもしれないけどね。それに、そういうのは女嫌いのもとを断たないとどうにもならないと思うけど」
「容赦ないな……。女嫌いのもとね。何だろう」
「いや、別に今言う必要はないから」
つい立ち入りすぎていたことに気付き、慌てて口を挟む。母性本能を刺激するような雰囲気を放ちまくっていたので、うっかり世話を焼きたくなってしまった。危ない危ない。この男とは必要以上に関わりたくないのだ。今以上にくっ付いてきたら面倒なことこの上ない。
「うーん、やっぱり家のことかな。うちにクラリッサが来た頃は、色々とあったから」
私の発言を無視して、と言うより耳に入らなかったのかムカ男は呟くように先を続けた。
「聞いたんだろう? クラリッサにまつわるあれこれは」
「まあ」
「あの頃、父上と母上は揉めていたからね。ユリエルが生まれてやっと落ち着いたんだ。それまでは僕も色んなところで板挟みになっていた。父上と母上の間とか、クラリッサと母上の間とか。そのせいで、母上とはユリエルが生まれるまで行き違いもあったから。その後遺症なのかな」
つまり原因は母親との確執、だろう。この口振りだと自覚しているかどうか怪しいものだが。でも、それなら私の昔話に過剰反応した説明が付く。
一週間前は私も人のことどころではなかったから気付かなかったが、この分だとムカ男はあの日も母や姉のことを気にしていたのかも知れない。あの日、二人のことはほとんど全て引き受けてくれていたのを思いだした。
「私はその当時のことは知らないから、何とも言えないんだけどさ。公爵夫人も、今は貴方のこと心配してらっしゃるんでしょう?」
――だから僕も、姉上も母上も心配しているほどで。
ユリエル君の声が耳に蘇る。あれは嘘ではなく、素直な気持ちであるはずだ。
「昔のこと、悪かったって思っておられるんだと思う。全部、予想でしかないけど」
自然と口を突いて出た私の言葉に、ムカ男はぽかんとしている。それを見て、私はぎょっとした。こんなことを言う筈ではなかった。だと言うのにいつの間にか、ムカ男の気遣いとやらに絆されてつい言ってしまっていた。これでますますこの男と関わることになんかなったりしたらと、悪い予感が渦巻く。
「ありがとう」
しかし、常と違って情けない顔に何とか笑みを浮かべるムカ男を見ていると、仕方ないかと思ってしまった。あの余裕ぶりが空の彼方に飛んでいるのだ。今日は思いやりをおまけしてあげても罰は当たらない気がする。
……気の迷いだろうか。多分、そうだろう。なんせこの男、泣かした女は数知れずだ。女性不信だろうと何だろうとその事実に変わりはない。
「しょうがないな。貸しイチ、ね。前回はあんたに振り回されて終わったから、今日はちょっと得したかも」
でも。昔話、聞いてくれて少し楽になった気がするから。さり気ない気遣いが少しだけ、嬉しかったから。だから、今日はいい。
ムカ男の専売特許になっていた人の悪い笑みを、私も浮かべる。何もムカ男のものだけではないのだから、私がやったっていいだろう。これで今日はこの話は終わりだ。
この男にこんなことを言うのは、ちっとも慣れないけれど。
「薔薇、ありがとう。悔しいけど癒されたのは確かだから、一応お礼言っとく」
若干の気恥ずかしさをごまかすべく立ち上がり、ムカ男から背を向ける。
「じゃ、また今度。捜査の続きには立ち会わせてね、相棒さん。クラリッサやユリエル君に頼まれたし、私も気になるからきちんと呼ぶように」
早口でそう言って、温室の出口に向かって歩き出した。