第二章 薔薇の園で下準備(4)
「あらら、オルガのおっさんどもに捕まっちゃったの。それは災難。早く逃げて来られるといいわね、エルバート」
私に抱きついたまま、対して災難とも思ったいなさそうに嘆息するグロリア様をさりげなく引き剥がす。正直これほど親しげにされても対応に困ってしまうのだ。お近付きと言われても、どうすればいいのか分からない。なんだかんだ言って、私には今まで対等に付き合えるような親しい友人はいなかった。
社交の場にはほとんど出入りしていないから知人止まりで終わっている人多数だし、孤児院でも孤児たちとどれほど親しく接しようと、どこか埋められない溝があった。それは身分や財力の差だったのだろう。こちらが微塵も意識していなくとも、彼ら彼女らは常に念頭に置いていた。多分、その行為は自己防衛の一種で、勘違いしないために、自分の世界で地に足を付けて生活していくために必要だったのだ。私たちは、同じようには生きられない。住む世界が違うなんておかしな話だと私も思うけれど、それが現実で避けられない真実だ。今は、まだ。
だから私も、その溝を無理に埋めようとはしてこなかった。この世の真理が変わらない限り、これからもそうだろう。湖面に映る月と同じような実体のない夢は、見せるだけ残酷だ。
そんなこんなで、十七年間これと言った友人はなし。何だか微妙に切ない。
「多分、無理ね。元からオルガ、レクシからエウラは超が付くほど嫌われていたけれど、兄さまは輪を掛けて嫌われてるもの。あれは最早憎悪よ。内容のない下らない嫌味を延々並べ立てているに違いないわ」
「エルバートはそんなこと爪の垢ほども気にしないと言うか、逆にこてんぱんにやっつけられるのが目に見えてるのに。ご苦労様よねえ」
「特にオルガは、嫌味の言い合いが仕事になってるところがあるから。その辺りの感覚が麻痺してるんじゃないかしら」
呆れたように言い合うグロリア様とクラリッサを横目に見ていると、マリアンヌにドレスを引っ張られた。顔を向けると黙ってついてくるように視線で促され、そのまま従う。マリアンヌの顔はなかなか真剣で、ついて行くべきなような気がしたのだ。
マリアンヌは真っ直ぐ部屋の隅に寄ると、内緒話でもするように私の耳元に顔を近付けた。グロリア様の部屋と思われるこの部屋は、調度品の豪華さもさることながら部屋の広さも正に王族と言った雰囲気で、とても広い。だから、ここまですれば二人に声が届くことはまずないだろう。
「さっきの話、クラリッサにはしないでよね」
「クラリッサの出自のこと? なら、当たり前でしょう」
ちらりと聞いただけでその複雑さが分かるような繊細な話を、わざわざ本人としに行く趣味はない。よっぽど親しいならともかく、今日会ったばかりだと言うならなおさらだ。
「あの娘、私たちにもその手の話をしたことはないの。クレイヴン公爵家も当時は大分ごたごたしたみたいだし、クラリッサは余程思い出したくないんだと思うわ。だから、あの娘にあの話は絶対に振ったら駄目よ」
神妙な顔で言い募ったマリアンヌは、自分の言いたいことを言い終えるとさっさとグロリア様とクラリッサのところへ戻って行く。その後ろ姿を眺めながら、どこの家も大変だと溜め息をついた。面倒極まりない厄介事はどこでも起こるものなのだ。ムカ男が妹に対しては割とまともなのも、大方その件が関係しているのだろう。でなければあの私生活不真面目男がまるで普通の兄のように振る舞いはしない。
思いもかけず知ってしまったお家事情に、僅かに心が重くなるのを感じながら伸びをする。いつまでも隅にいる訳には行かない。クラリッサに不審がられてしまう。首を回すとマリアンヌの後を追い、いつの間にか窓辺の長椅子に場所を移してお喋りをしている二人の元へと向かった。
「オルガの騎士にも色々いるけど、とにかく鬱陶しいのよねえ。細かいことでこうるさく騒いで鬼の首取ったように勝ち誇ったり、私の王女って身分に阿呆面全開で媚びへつらったり」
「まあ、オルガは派閥が乱立したり権力闘争に明け暮れたりってところだものね。現王にひたすら胡麻すったり、反対に気に食わないからことあるごとに反抗したり」
「あそこの奴らは自分の身分に陶酔してる大馬鹿者か、身分至上主義過ぎてかえって卑屈になってる間抜けかのどちらかでしょう。どっちにしろ、見ていて苛々するのよ」
マリアンヌは自然に会話に入り込み、オルガ騎士団に悪態をつく。私はやはりとまどって、長椅子の近くに所在なく立った。
「お嬢様方は何をお話で? 随分、話が弾んでいるようだね」
コンコンという音に続いて扉が開くと、ムカ男が入って来た。四人のうちただ一人だけ立っている私に目を留めると、さりげなくこちらにやって来て馴れ馴れしく肩を抱く。反射的に睨みつけるが、ムカ男はどこ吹く風といつもの澄まし顔を崩さなかった。やはりムカつく。
「あら、エルバート。思ったより速かったわね。もっとかかると思ってたわ」
「姫様、オルガの奴らから伝言です。護衛をまいて王宮を徘徊するのはお止め下さい、だそうですよ。貴方がオルガの連中を大層嫌っているのは知っていますが、個人的な感情はひとまず置いて護衛ぐらい付けて下さい」
ムカ男を見て顔をしかめたグロリア様に、ムカ男は告げる。文句を言いたかったのに、機会を逃してしまった。二人の会話を遮ってムカ男を罵倒はできない。それに大分今更な感はあるが、クラリッサの前でムカ男への悪口は言いずらい。
「あんな奴ら、いたって大して役に立たないわよ。私の見立てでは、八割がた剣もまともに振れないわね」
「それでも盾ぐらいにはなりますよ。何かあったら捨て駒にして、貴方の逃げる時間を稼いで下さい」
身も蓋もない評価に少しだけ驚く。オルガ騎士団は常日頃からあまり良い評判を聞かないが、国の重要人物やその周りの人々にまでこれほど悪印象を持たれているとは思わなかった。
「ええ、それでも嫌よ」
「嫌じゃありませんよ。さっきの嫌味は十割そのことについてでしたからね。向こうの言い分によると、僕が貴方のことを誑かしたのだそうですよ。お姫様育ちで世間知らずの貴方を、自分の上辺を使ってのぼせ上がらせ、言うことをきかせているのだとか」
「は?」
あまりに不可解なことだったのか、グロリア様は思わずといった様子でそう言っていた。
「どうも僕は、貴方にオルガの護衛を引き離すように言い付け、姫君の護衛一つできない情けない奴らだいう印象を世間に与えようとしているらしいですね。まあさしずめ、政敵である自分たちの失態にしようと言う姦計をめぐらせている、という被害妄想に囚われていると言ったところでしょう。僕はオルガのことなんて特に意識していないのですがね」
「な、何それ。エレンじゃないけど最悪だわ。上辺だけ見てきゃあきゃあ言っている女と一緒にされるのも嫌だけど、こんな嫌味男と噂になるはもっと勘弁ね」
「ちょっと、グロリア」
私と同じようにムカ男をけなしたグロリア様に向け、マリアンヌが咎めるように言う。先ほどよりも大分大人しく、我がままな子どもを窘めるような言い方だ。やはり、ムカ男の前と言うことで気を遣っているのだろう。
そんなマリアンヌを見て、グロリア様は面倒臭そうに溜め息をついた。
「はいはい、悪かったわ。でも、私はマリーみたいにエルバートに夢中な訳じゃないの。好きでもない男と噂になっても仕方ないでしょう?」
「それでも、悪口は駄目」
「相変わらずねえ、マリーは。兄さまのどこがそんなにいいのかしら」
目の前の三人は他愛もないお喋りに流れて行く。そのやり取りは遠慮がなく、仲の良さがうかがわれた。
「そろそろ帰るかい? この三人に付き合っていたら日が暮れてしまうからね」
「うん、じゃあ帰る。もう疲れたから」
苦笑したように囁くムカ男に、今回ばかりは素直に頷いた。
「三人とも、そろそろ僕らは帰るから」
「あら、もう少しいればいいのに」
「姫様方に付き合っていたらいつ帰れるか分からないでしょう」
「仕方ないわね。また来てね、エレン。兄さまと絶縁するようなことがあっても、私たちとは仲良くしてね」
「ええと、うん。機会があったら是非」
惜しむように言うグロリア様やクラリッサとは対照的に、さっさと帰れとばかりに睨みつけてくるマリアンヌが視界に映る。見なかったことにして、ムカ男と腕を組んだ。不本意だが仕方ない。人目がある。
「じゃあクラリッサ、姫様が無茶しないように見張って置くんだよ」
「保証はしかねるわよ」
クラリッサの軽口を最後にグロリア様の部屋を後にする。王宮の中の長い廊下を延々と歩き、トレンス庭園へと帰る。行きと同じく私は疲れていて、特に何も考えず歩いていた。
「この後、エレンはどうするんだい?」
王宮の奥地からトレンス庭園の中に戻る直前、ムカ男は私にこう尋ねた。
「普通に帰るよ。それから呼び捨て禁止」
人が途切れているようだったのと、今日の疲労が祟って普通に答える。
「予定はあるのかい?」
「無視するな。確か、ない筈だけど」
「じゃあ、ちょっと寄り道しよう」
さらりと告げたムカ男に唖然とする。人の話を全然聞いていない。私はもう帰りたいのだ。
「嫌。疲れた。もう帰る」
「大丈夫。君にとっては癒しの場の筈だから」
ムカ男はそう言った後、さっさとトレンス庭園の入り口近くに停まっていた馬車のところまで歩いて行く。人混みの中に入ってしまったものだから、私も下手なことを言えず口を閉ざすしかない。馬車に乗るまでムカ男にされるがままだ。
しばらく歩いてようやく馬車に乗り込むと、私は満を持して口を開いた。
「癒しの場ってどこ? まあ、どこだろうと私は帰るけど」
「着いてみてのお楽しみだよ」
ムカ男は余裕の笑みを浮かべて言う。それと同時に馬車が走り出すのを感じ、諦めるしかないことを悟った。……本当は激しく嫌だけれど。
「何、考えてるの?」
「本格的にエレンを口説こうと思ってね」
それは今までは本気ではなかったということだろうか。何だったんだ、今までのことは。いやまあ、今までだってとても本気だったとは思い難いが。
だからいきなり本気だなんて言われても、嘘くさいとしか思えない。
「はあ、もういい。あんたにまともな答えは期待しません」
「結構、本気なんだけどな」
「信じられません」
「やっぱりそうやってむきになるのが可愛いな」
「ああもう、うるさい!」
叫ぶと、私はむっつりと押し黙った。そのまま馬車が停まるまで無言を貫き通す。そっぽを向いて過ごした。
やがて馬車が緩やかに減速し、停まる。ムカ男は先に降りると、私に向かって手を差し伸べた。仕方なしに手を借りて馬車を降りると、私は周りを見回す。そして、瞠目した。
「……ここ、もしかして」
「ああ、エレンが想像している通りの場所だよ」
「何が癒しの場なの! こんなとこで寛げるわけないでしょ!」
ムカ男の返答に思わず叫ぶ。叫んでからはっとした。大声を上げてもいい場所ではない。
「別に、そんなに畏まる必要はないよ。気楽にしてもらって構わない」
「無理に決まってるでしょ。馬鹿なこと言わないで」
小さな声で吐き捨て、ムカ男を睨んだ。
「僕にとっては、今はそこそこ居心地のいい家なんだけどね」
「そりゃあんたにとってはね。なんたって、自分の実家なんだから」
そう、ここはエルバート・クレイヴンの実家、クレイヴン公爵邸だった。
聞いてないにもほどがある。本格的に今度、除霊してもらおう。いくらなんでもツイていなさ過ぎる。私は疲れた。邪気のないベルの微笑みが懐かしい。
……ああ、うちに帰りたい。切実に、そう思う。