銀雪物語
平安の御代によく似た、神獣と雅な呪術が息づく異世界「瑞鳳国」
その華やかな都の片隅で、左大臣家の厄介者として日陰を生きる姫君がいた。
名を、薄雪という。
瑞鳳国の貴族にとって、呪力を宿す艶やかな黒髪こそが美の象徴であり、権力の証であった。
しかし、薄雪の髪は呪力を持たないことを示すような、色素の薄い銀色をしていた。
実の親からも「家の恥」と疎まれ、美しい異母妹の引き立て役として、床の落ち窪んだような局でひっそりと暮らしてきたのである。
ある日、継母の悪辣な企みにより、薄雪は都の端にある貧しく落ちぶれた老貴族のもとへ嫁がされることが決まってしまった。
実家は厄介払いのために、纏まりそうな縁談に薄雪を彼に差し出したのだ。
身の回りの世話をする者すらおらず、ただこき使われるだけの過酷な生活が待っていることは誰の目にも明らかだった。
(どうせ私なんて、誰からも望まれないのだから……)
涙ながらに数少ない荷物をまとめ、不遇な運命を受け入れようとしていた夜。
突然、左大臣邸を揺るがすほどの騒ぎが起きた。
薄雪の不遇な縁談を聞きつけたある大人物が、老貴族への輿入れを強引に白紙に戻させ、急遽、薄雪への強烈な求婚状を叩きつけてきたというのだ。
呆然とする薄雪の元へ、使者から一枚の文が届けられた。
最高級の鳥の子紙には、力強くも流麗な筆致で情熱的な短歌が記されていた。
『白雪の 消へゆく先を 憂ふれど 我が手に抱きて 溶かさむものを』
(美しい銀雪のようなあなたが、心無い者の手によって見知らぬ地へ消えゆく運命にあることを憂いている。いっそ私自身の腕に強く抱き、その身も心も溶かしてしまいたいというのに)
それは、実家に見捨てられようとしていた薄雪を力ずくで奪い取るという、激しい愛執に満ちた宣言であった。
実家の者たちはその差出人の名と絶対的な威圧感に恐れをなし、震え上がりながらすぐさま薄雪を彼に差し出すことを決めたのである。
相手は、北の国境を魔物から守る冷酷無比な若き将軍、雷轟公こと、源琥珀。
呪力に満ちた漆黒の髪と、鋭い黄金の瞳を持つ彼は「血も涙もない氷の男」と恐れられていた。
(どうして、私のところに……こんな醜い銀色なのに)
瑞鳳国の習わしとして、男からの求婚の懸想文には、女からの返歌がなければ夜に館へ通うことが許されない。
戸惑いながらも、薄雪は震える手で筆を執り、彼への返歌を認めた。
『日陰にて ひとり消えゆく 薄雪を などてその手に 溶かさむとする』
(日陰でひとり消えゆく運命の薄雪たる私を、どうしてわざわざそのお手に抱いて溶かそうとなさるのでしょうか)
自身の名を織り込んだ、戸惑いと自嘲の混じる慎ましい返歌。
しかし、これを受け取ったことで、正式に琥珀が左大臣邸の門を潜る道が開かれたのである。
薄雪は御簾の奥で、震えながらその夜を待っていた。
瑞鳳国の婚姻は、男性が夜陰に乗じて女性の部屋へ通うことで始まる。
そして、一夜を共にした後に「後朝の歌」という愛情を込めた和歌を贈り、さらに三日間続けて女性のところへ通うのが習わしであった。
一夜限りの関係で終われば、それは単なる浮気とみなされ、正式な結婚とは認められないのである。
(どうせ、大将とのの戯れでしょう……)
夜更け。仄暗い灯台の明かりの中、局に静かな衣擦れの音が響いた。
現れたのは、噂に違わぬ長身で威圧感のある男だった。
薄雪が怯えて顔を伏せていると、琥珀はそっと御簾を上げ、驚くほど優しい手つきで彼女の銀糸の髪に触れた。
「……ずっと、この日を待ちわびていた」
恐ろしい将軍の口から紡がれたのは、予想外に甘く、熱を帯びた声だった。
彼は薄雪を蔑むどころか、壊れ物を扱うように大切に抱き寄せた。
その夜、冷酷なはずの男は、夜明けまで甘い言葉を囁き続け、薄雪をひたすらに甘やかしたのである。
翌朝、夜明け前に帰っていった琥珀から、見事な和歌が添えられた文と美しい花が届いた。
翌朝、夜明け前に帰っていった琥珀から、見事な和歌が添えられた文と美しい花が届いた。
『君を置きて 帰る朝の 露よりも 消えなむばかり 恋ひ焦がれつつ』
(あなたを置いて一人帰るこの朝の露よりも、今にも消えてしまいそうなほどに、あなたに恋い焦がれております)
それは紛れもない「後朝の歌」であった。
情熱的な歌の文面に、薄雪は顔を真っ赤になった。
『朝露の 消えなむばかり 思はれど 日陰の雪は ただ溶けにけり』
(朝露が消えてしまいそうなほど私を思ってくださるとのことですが、日陰で凍えていた薄雪のような私は、ただあなたの温かさに溶けてしまうばかりです)
使者に返歌を託しながら、薄雪は胸の高鳴りを抑えられずにいた。
「あの方のような立派な殿方が、まさか私のことを……。でも、きっと今夜はもういらっしゃらないわ」
家族たちも「あの氷の将軍が、銀髪の無能な娘のもとに三日も通うはずがない」と嘲笑っていた。
しかし、琥珀は二日目の夜も、土砂降りの雨をものともせずに薄雪のもとへ訪れた。
そして彼女の濡れた髪を拭いながら、「そなたの銀髪は、月明かりを透かしたようで世界で一番美しい」と微笑んだのだ。
そして運命の三日目の朝。
瑞鳳国の習わしでは、三日通うと「これからはあなたを棄てることはない」という絶対の誓いとなる。
正式に婚姻が成立するのは、この三日目の朝に「三日夜餅」という祝餅の儀式を済ませてからであった。
薄雪の実家である左大臣邸の者たちは、三日目の朝を迎えても帰ろうとせず、堂々と上座に座る琥珀の姿に度肝を抜かれていた。
この儀は、花嫁の両親と一族に正式な夫婦となったことをお披露目する重大な意味を持っている。
用意された三つの祝餅を前に、琥珀は薄雪の隣に座り、堂々たる声で宣言した。
「左大臣殿。薄雪姫は、我が正室として手厚く迎え入れよう。今までこの美しい宝を日陰に追いやっていたこと、夫として到底看過できぬ。今後は一切の干渉を許さぬ」
実の親や異母妹が青ざめる中、琥珀は薄雪に向き直り、とろけるような笑みを浮かべた。
「不思議そうな顔をしているな、我が愛しの妻よ」
「将軍様……。なぜ、私のような取り柄のない娘を……?」
琥珀は薄雪の手を取り、そっと口づけを落とした。
「取り柄がないなどと、誰が言った? 数年前、宮中の庭で傷ついた小鳥を己の微かな霊力をすべて使って癒やしていた銀髪の少女を垣間見して以来、私の心はずっとそなたに囚われていたのだ」
薄雪は目を見開いた。
ずっと昔のことだった。
特段、誰かに見られたとて、詮のないこと。
薄雪にしてみれば、当然の所作でもあった。
しかし彼は、その小さな出来事をずっと覚えていたのだ。
恐ろしい将軍と呼ばれた男の瞳には、薄雪への深い愛執と溺愛の光だけが満ちていた。
二人は作法に則り、三日夜餅を分け合って食べた。もともと餅には神聖な霊力があると信じられており、これを共に食すことで二人の魂は永遠に結ばれるのである。
こうして、実家から見捨てられていた銀髪の姫君は、最強の氷の将軍から狂おしいほどの溺愛を受け、瑞鳳国で最も幸せな正室として愛に満ちた日々を送ることになるのだが、それはまた別のお話である。




