モノローグ 殻を叩く音
本書の執筆の動機は、私自身が体験した、ある「事実」に端を発している。
それは春の柔らかな日差しが降り注ぐ、亡父の墓前での出来事だった。そこで私は、現在の科学では説明のつかない、物理法則を逸脱した「音」を聴いた。
我々人類は、この大自然の正体をどれほど理解しているのだろうか。
最新の科学が解き明かしたのは、宇宙全体のわずか数パーセントに過ぎない。残りの圧倒的な領域については、いまだに産声すら上げていないのが実情である。それにもかかわらず、我々はあたかも世界のすべてを知っているかのような「おごり」の中に生きている。
未知の現象に直面したとき、世間は二つの安易な逃げ道を用意する。
一つは、それを「心霊」や「祟り」といった心霊現象という名のゴミ箱へ投げ込み、安っぽい物語で納得してしまうこと。もう一つは、自らの知性を過信し、計測できないものを「存在しない」と切り捨てて目を逸らすことだ。
しかし、そのどちらもが、真実から遠ざかる行為に他ならない。
私は一人の作家として、ホラーという文化を尊重している。それは人間が未知の恐怖と共生するために編み出してきた、豊かな娯楽であり知恵である。だが、商業的な成功のために事実を歪め、未知を神秘のベールで塗り潰すことは、科学の健全な進歩を停滞させる弊害を生んでいる。
もしそこに「事実」があるのなら、それは必ず自然界の正体と地続きの現象であるはずだ。
本書を通じて私が言いたいのは、未知を未知として受け止める謙虚さの必要性である。我々の住むこの三次元という「殻」の外側には、まだ見ぬ無限の理が広がっている。
自らの無知を認め、おごりを捨てたとき、はじめて我々はその殻を叩く音の主と、正しく向き合うことができるのではないだろうか。
それは、科野航という一人の男の魂に刻まれた、完全なる確信の記録である。
空は高く晴れ渡り、陽光が墓石を優しく温める小春日和の日だった。
風もなく、空気の中には春の胎動を感じさせるような、微かに甘い匂いが混じり合っていた。
父の墓前に手を合わせ、静寂の中に身を置いていたその時。
カン、カン。
空間の芯を直接叩くような、乾いた響きが静寂を切り裂いた。
石がぶつかり合う重い音ではない。
乾いた木が弾けるような、澄んだリズムを持った音だった。
「何の音だろう?」
科野はその答えを探そうと、音のした方向へ歩きだした。
「塔婆が重なって、当たっているのか?」
そう考え、音のした場所を確かめたが、そこには風もなく、塔婆が触れ合う様子もなかった。
科野はその場所で立ち止まり、周囲を観察した。
すると、次の瞬間――。
カン、カン。
今度は二十メートルほど離れた墓地の反対側で、同じ音が弾けた。
右で鳴っていた音が、そこから左へと移動したのではない。
右にあった音が消え、それと同時に、左という「点」に音が突如として現れたのだ。
音は科野の観察をあざ笑うように、墓地全体を遊び場にして跳ね回り始めた。
右、左、遥か背後。
科野が立ち止まって注視するたび、音はすでに別の地点で空間を叩いていた。
その動きには慣性も抵抗も存在しない。
物理法則という鎖に繋がれた三次元の住人には到底不可能な、不連続な跳躍だった。
やがて気配は収束し、科野のわずか二メートル先で弾けた。
カン、カン!
あまりに明瞭な、至近距離での打音。
そこには影も、光の屈折も、塵の舞いすらもない。ただ、完璧な「無」があるだけだ。
科野は、その透明な一点を真っ直ぐに見つめ、静かに問いかけた。
「何処にいるの? 見えないよ」
その瞬間、弾んでいた気配が、霧が晴れるようにふっと消えた。
隠れんぼの最中に鬼に見つかりそうになり、ぴたりと動きを止めた子供のような、茶目っ気のある沈黙。
科野は確信した。
人間の解明した科学は、まだ未熟な卵なのだ。
世界のすべてを知っているとおごり、自惚れ、この自分たちが住む三次元の殻が宇宙のすべてだと信じ込んでいる。
だが、あの音は、殻のすぐ外側から届いた。
おごりを捨て、己の未熟を認めれば、この殻の向こうには無限の自由が広がっている。
あの音の主は、いつかこの科学という名の卵が殻を破って出てくるのを、今も楽しげに待っているのだ。




