第98話 開拓団到来
森に入るのは、嫌いだった。
音が消える。
匂いが変わる。
空気が重くなる。
人間の世界とは、明らかに違う。
エドガーは、擦り切れた革靴の底が湿った落ち葉を踏みしめる感触に、小さく歯を食いしばった。
(……くそ)
鎖は、もう付いていない。
だが、それは錯覚に過ぎなかった。
首に嵌められた鉄の首輪が、僅かに重い。
魔力で刻まれた紋様が、皮膚の下で脈打つ。
――奴隷の証。
逃げようなど、最初から考えていない。
逃げられないからだ。
魔力反応。
追跡刻印。
遠隔懲罰。
この森よりも、あの男のほうが、よほど恐ろしい。
(……ガイウス)
かつては、仲間だった。
同じ酒場で笑い、
同じ依頼で剣を振るい、
背中を預け合った冒険者仲間。
だが今、エドガーは“斥候”として先を歩いている。
――正確には、歩かされている。
開拓団の先頭。
森の奥を探る役目。
役目を果たさなければ、
戻ったときに何が起きるか分からない。
それを、身体が覚えてしまっていた。
背後から、かすかな音が聞こえる。
足音。
引きずる音。
咳。
百人近い集団が、森の縁で停滞している。
だが、その実態は――
“集団”とは呼べない。
歩ける者は半分以下。
残りは、病人、怪我人、衰弱者。
まともな装備を持つのは、
ガイウスと、その側近数名だけだ。
あとは、鎖で繋がれた奴隷。
“開拓”という名目。
だが、実態は口減らし。
使えない者を森に放り込み、
生き残った分だけを使う。
そういう計画だ。
(……人間のやることかよ)
自分も、その「使えない側」に落ちた。
だから、ここにいる。
ギャンブル。
借金。
転落。
自業自得だと、分かっている。
それでも――
(ここまで落ちるとは、思ってなかった)
エドガーは、息を整え、前を見た。
森は深くなっている。
だが――
違和感があった。
(……静かすぎる)
獣の鳴き声がない。
虫の羽音も、ほとんど聞こえない。
森は本来、うるさい場所だ。
だが今は、
まるで“整理された空間”のようだった。
下草は踏み均され、
道らしきものが、自然に続いている。
(……道?)
誰かが、使っている。
しかも、最近。
エドガーは、無意識に歩調を落とした。
危険を察知したときの、
かつての癖だ。
冒険者だった頃、
何度も命を救ってくれた感覚。
(……魔物か?)
だが、罠がない。
縄も、落とし穴も、警戒用の印もない。
不自然だ。
魔物の縄張りなら、
もっと露骨な痕跡がある。
それなのに――
視界が、開けた。
そこにあったのは。
村だった。
一瞬、言葉を失った。
木造ではない。
土塀でもない。
石。
石造りの建物が、
整然と並んでいる。
周囲は柵で囲われ、
その外側には、胸の高さほどの石垣。
人間の街と、変わらない。
いや――
違う。
(……空気が)
息苦しくない。
街特有の圧迫感がない。
視線が、柔らかい。
人の気配はある。
だが、警戒よりも――
生活の匂いがする。
(……なんだ、ここ)
エドガーは、唾を飲み込んだ。
見張りがいる。
だが、鎧も剣も構えていない。
槍を持ったゴブリン。
弓を担いだコボルト。
……オーク。
――魔物。
間違いなく、魔物の村だ。
だが。
(……統制されてる)
動きに無駄がない。
視線が鋭い。
そして、騒がない。
狩りの帰りだろうか。
食料を運ぶ一団が、互いに声を掛け合っている。
その声が――
(……流暢?)
エドガーの背筋が、ぞくりとした。
魔物が、
意思を持って会話している。
それも、単語の羅列ではない。
――会話だ。
(……報告、するべきか)
ガイウスに。
だが、その瞬間。
胸の奥に、
嫌な予感が湧いた。
あの男が、
これを見たら――
(……奪う)
間違いない。
奪って、
売って、
金に換える。
この村は、
“金になる”。
エドガーは、拳を握った。
(……だが)
(これは、侵略じゃない)
少なくとも、今は。
この村は、
森の中で、
静かに生きているだけだ。
開拓団が、
勝手に踏み込んでいる。
(……放置も、危険だ)
ガイウスは、必ず動く。
それを止める力は、
今の自分にはない。
だが。
(……せめて)
(時間を稼ぐことは、できるかもしれない)
エドガーは、深く息を吸い、
来た道を引き返した。
背後で、
見張りの視線を感じながら。
――この森は、
ただの獣の棲み処ではない。
そう、確信して。
開拓団の待機地に戻ると、
ガイウスが腕を組んで立っていた。
「遅いな」
その声に、昔の面影はない。
エドガーは、頭を下げる。
「……村がありました」
「ほう?」
「魔物の村です」
ざわり、と空気が動いた。
ガイウスの口角が、僅かに上がる。
「詳しく」
エドガーは、
言葉を選びながら、報告を始めた。
――それが、
この物語の始まりになることを、
まだ知らずに。




