第94話 生まれた瞬間から
最初に気づいたのは、泣き声ではなかった。
朝の村は、いつも通りだった。
工房では木を削る音がし、
焚き火の周りでは朝食の準備が進んでいる。
その中で、空気が少しだけ変わった。
「……あ?」
ヨークが、ふと手を止める。
「今、なんか……」
言葉を探すように首を傾げる。
「静かじゃねぇか?」
ヒトシも気づいた。
確かに、騒がしいはずの場所が静かだ。
ゴブリンたちが集まっている一角。
だが、理由はすぐに分かった。
「……生まれてるな」
ヒトシの視線の先。
簡易的な寝床の上で、小さな影が動いていた。
ゴブリンの子供だ。
いや、正確には――
すでにゴブリンの形をしている。
肌の色は薄いが、
手足はしっかりしており、
目は開いている。
そして。
泣いていない。
きょろきょろと周囲を見回し、
落ち着いた様子で指を動かしている。
「……静かすぎない?」
サラが、思わず小声で言った。
「赤ん坊って、もっとこう……」
「泣きますよね」
アンが頷く。
メイは、じっと子供を観察していた。
「……魔力反応、ありますね」
「え?」
「弱いけど、整ってます」
ヒトシは、確信した。
(もう、始まっている)
ゴブリンの子供は、早い。
それは知っていた。
だが、今回は違う。
昼過ぎには、
自分の足で立ち上がった。
夕方には、
火のそばに寄り、
熱を避ける位置を自分で選んだ。
「……判断が早すぎる」
グルマが、眉をひそめる。
「俺が見てきたゴブリンのガキはな、
もっと転ぶし、火に近づきすぎる」
ヨークも頷いた。
「俺もだ」
「こいつら、最初から分かってやがる」
ヒトシは、ゆっくり息を吐く。
(適応進化……)
(もう、後からじゃない)
夜。
子供は眠った。
だが、寝息は浅い。
周囲の音に反応して、
微かに体勢を変える。
危険を避ける動きだ。
「……これ」
メイが、静かに言った。
「生まれた時点で、
“環境”を学習してませんか?」
誰も否定しなかった。
翌日。
もう一体、生まれた。
さらにその翌日には、三体。
数が増える。
だが、問題は数ではない。
質だ。
新しく生まれたゴブリンたちは、
・音に敏感
・高所を避ける
・火と刃物を理解している
・大人の動線を邪魔しない
――教えていないのに、だ。
「……なあ」
サラが、ヒトシに問いかける。
「この子たち……」
「“育ててる”って感じ、しないわよね」
ヒトシは頷く。
「“参加してる”」
そう表現するしかなかった。
彼らは、保護されていない。
管理もされていない。
最初から、群れの一部として振る舞っている。
コボルトの子供も、生まれた。
こちらも同じだ。
泣かない。
走らない。
無駄な動きをしない。
母親のそばを離れず、
それでいて周囲をよく見ている。
「……怖いくらいですね」
アンが呟く。
ヨークは、腕を組んで言った。
「だがよ」
「悪いことじゃねぇ」
「生き残るために、
最初から最短距離を走ってるだけだ」
ヒトシは、その言葉を噛みしめた。
(そうだ)
(これは)
(生存の最適化だ)
その夜。
ヒトシは、焚き火の前で独り考えていた。
(俺たちが、
必死に積み上げてきた判断)
(それを)
(こいつらは、生まれた瞬間から持っている)
適応進化は、
もう個人の能力ではない。
群れの性質そのものだ。
(……強い)
(だが)
(重い)
この子たちは、
何も知らない。
それでも、
最初から「選ぶ」ことを求められている。
ヒトシは、拳を握る。
(なら)
(守る)
(この環境を)
(こいつらが)
(選ばなくていいくらいに)
焚き火が、静かに揺れた。
その光の中で、
新しいゴブリンが、目を覚ました。
泣かず、
騒がず、
ただ、周囲を観察する。
――生き残るために。
生まれた瞬間から、
適応は始まっていた。




