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第92話 山岳交易路・初輸送

 朝霧が、山肌を這っていた。

 森から山へと続く細い道――

 それは、かつてスタンピートで魔物たちが踏み荒らした痕跡だった。

 倒れた木。

 削れた岩。

 踏み固められた土。

 本来なら忌むべき爪痕だが、ヒトシはそこに価値を見出した。

「……通れるな」

 ぽつりと漏らす。

 隣でヨークが腕を組み、頷いた。

「魔物の足ってのは正直だ。

 楽な道しか選ばねぇ」

 岩肌をなぞるように立つロックリザードが、低く声を出す。

「山側から見ても、悪くありません。

 荷を担いで通るなら、ここが最短です」

 かつては敵として襲いかかってきた存在が、

 今は道案内として立っている。

 ヒトシはその事実を、胸の奥で噛みしめた。

(……本当に、変わったな)


 交易路の整備は、想像以上に地味だった。

 新たに道を切り開くことはしない。

 木をすべて伐ることもしない。

 ただ――

「ここは荷車が引っかかる。石をずらせ」

「水が溜まるな、溝を掘ろう」

「この斜面、踏み板を置けば安全だ」

 一つ一つ、

 “通れる形”に整えていく。

 ゴブリンが木を削り、

 コボルトが地面を均し、

 オークが岩を動かす。

 ロックオーガは重い丸太を肩に担ぎ、

 ロックリザードは足場を選びながら先導する。

 誰も急かさない。

 誰も怒鳴らない。

 戦争の後に残った魔物たちは、

 壊すことより、残すことを選び始めていた。


 そして――

 初めての輸送の日が来た。

 荷は多くない。

・保存食

・簡易工具

・乾燥させた木材

・少量の銀貨

・予備の武器(売るためではない)

「……随分、控えめだな」

 ヨークが笑う。

「もっと積めばいいのに」

 ヒトシは首を振った。

「最初は、これでいい」

「壊れないこと」

「迷わないこと」

「無事に戻ること」

「それが一番の価値だ」

 ロックオーガが、低く唸る。

「戦の前みたいだな。

 だが……今回は嫌じゃねぇ」

 その言葉に、誰も否定しなかった。


 荷を背負った一団が、

 ゆっくりと山へ向かって歩き出す。

 足音が、重なり合う。

 土を踏む音。

 岩に靴底が当たる音。

 息を整える音。

 ヒトシは、少し後ろから全体を見ていた。

(……これが、交易か)

 剣を売り、血を流し、奪うのではない。

 物を運び、戻ってくるだけ。

 それなのに、

 胸の奥にじんわりと熱が残る。

 山道の途中、ロックリザードが立ち止まった。

「ここから先が、山岳側の入口です」

 視界が開ける。

 切り立った岩壁に囲まれ、

 天然のくぼ地が広がっていた。

 見張りやすく、

 攻めにくく、

 守りやすい。

 ヒトシは、はっきりと確信した。

「……第二拠点だ」


 その瞬間だった。

【適応進化が反応】

【継続的輸送行動を確認】

【資源分散・拠点複数化を評価】

【群れの行動範囲拡張を適応】

 ヒトシは、静かに息を吐いた。

(やっぱりだ)

(戦わなくても)

(“動く”だけで、進化は起きる)

 ヨークが横目で見てくる。

「来たか?」

「ああ」

「……悪くねぇな」

 二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。


 初輸送は、成功だった。

 事故はなし。

 怪我もなし。

 迷子もなし。

 森へ戻る道すがら、

 ヒトシは何度も振り返った。

 あの山の向こうに、

 もう一つの居場所がある。

 逃げ場であり、

 備えであり、

 未来の選択肢。

(……まだ、何も完成していない)

(だが)

(もう、後戻りはしない)

 スタンピートが生んだ爪痕は、

 今や“道”になった。

 そして道は、

 必ず――

 次の何かを運んでくる。

 ヒトシは、そう確信していた。

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