表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/119

第9話 踏み越える一線

 オークは、引かなかった。

 柵の向こうで足を止めはしたものの、それは様子見ではない。

 獲物の反応を確かめる、捕食者の間だ。

 月明かりに照らされた巨体が、ゆっくりと肩を回す。

 太い腕の筋肉が盛り上がり、皮膚が軋むように動いた。

「……来るぞ」

 ヒトシの喉が、ひくりと鳴った。

 先ほどまで感じていた余裕は、もはやない。

 代わりにあるのは、苛立ちだ。

 小さな獲物のはずだった。

 踏み潰すだけで終わるはずだった。

 それが、足を止められ、石をぶつけられ、引き下がらされた。

 ――許せるはずがない。

 オークの一体が、低く唸り声を上げた。

「グゥ……」

 その声に反応するように、残りの二体が左右に散開する。

 連携だ。

(……知恵もある)

 ヒトシは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 ただの力任せではない。

 考え、状況を見て、動いている。

 それでも。

(今、引いたら終わる)

 柵の向こうには、仲間がいる。

 逃げ場はない。

「……構えろ」

 声は震えていなかった。

 ゴブリンたちは、それぞれ石を握りしめ、身を低くする。

 恐怖はある。だが、逃げ出す気配はない。

 その瞬間。

 オークが、突進した。

 ドンッ、という衝撃音が夜気を裂く。

 柵に巨体がぶつかり、枝が一気に軋んだ。

 一本、二本と、音を立てて折れていく。

「……っ!」

 ヒトシは、即座に腕を振る。

「投げろ!」

 一斉に石が飛んだ。

 狙いはばらばらだ。

 だが、数がある。

 ゴツッ、ゴンッ、という鈍い音が連続し、オークの頭部や肩に当たる。

 オークは怒号を上げながらも、突進を止めない。

 ――バキン。

 ついに、柵が崩れた。

「後退!」

 ヒトシの叫びと同時に、ゴブリンたちは事前に決めていた位置まで一斉に下がる。

 第二の罠線。

 地面が不自然に盛り上がり、足場が不安定な場所だ。

 先頭のオークが踏み込んだ瞬間、足元が崩れた。

「グォッ!?」

 完全に落ちたわけではない。

 だが、体勢が大きく崩れる。

 その隙を逃さず、ヒトシは前に出た。

 石を拾い、至近距離から投げつける。

 狙いは、顔。

 ゴッ、という鈍い音。

 オークの頭が揺れ、怒りの咆哮が上がる。

「……効いてる!」

 ヒトシは叫んだ。

 その時だった。

 右側から回り込んでいたオークが、別のゴブリンに目をつけた。

「――!」

 ヒトシが叫ぶより早く、オークの腕が伸びる。

 掴まれた。

 小さな体が、簡単に持ち上げられる。

「やめ――」

 言葉は、間に合わなかった。

 オークは、ゴブリンを地面に叩きつける。

 鈍い音。

 続けて、その体を踏みつけた。

 骨が、嫌な音を立てて砕ける。

「……っ」

 ヒトシの視界が、一瞬、白くなった。

 自分と同じ体。

 同じ種。

 それが、簡単に壊される。

(……ああ)

(これが)

(現実か)

 恐怖が、遅れて押し寄せる。

 ゴブリンたちの動きが、一瞬止まった。

 それは、ほんの一瞬だったが、致命的になりかねない。

「……見るな!」

 ヒトシは、喉が裂けるほど叫んだ。

「下を見るな! 生きろ!」

 言葉の意味は完全には伝わらない。

 だが、声に込めた意志は伝わった。

 ゴブリンたちは歯を食いしばり、再び石を投げ始める。

 だが、ヒトシの中では、何かが確実に変わっていた。

(逃げるだけじゃ、ダメだ)

(追い返すだけじゃ、足りない)

 ――殺される。

 こっちが殺らなければ。

 その事実が、はっきりと理解できてしまった。

【《適応進化》が反応】

【仲間の死を検知】

【危機レベル上昇】

【生存優先度の再定義】

 ヒトシは、ゆっくりと息を吸った。

 震えは、まだある。

 だが、逃げたい気持ちは、不思議と薄れていた。

(……ここが)

(越えなきゃいけない線か)

 人間だった頃、

 命を奪うという行為は、遠い世界の話だった。

 だが、今は違う。

 奪わなければ、奪われる。

 それだけの世界だ。

 ヒトシは、足元に落ちていた、先ほど折れた枝を拾い上げた。

 先端は、鋭く折れている。

 即席の槍。

 オークが、再び突進の体勢を取る。

 ヒトシは、真正面から、その視線を受け止めた。

「……次は」

 声は、驚くほど落ち着いていた。

「俺が行く」

 それは、仲間を守るための宣言であり、

 同時に――

 戻れない場所へ踏み出す覚悟だった。

 夜は、まだ終わらない。

 そして、

 ヒトシの戦いは、ここから本当の意味で始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ