第88話 偶然、生まれたもの
スタンピートの後、村の空気は長いあいだ土と灰の匂いを残していたが、ここ数日はそれも薄れている。
壊れた家屋は撤去され、仮の小屋が立ち並び、工房も最低限の形だけは取り戻した。
ヒトシは、朝の村を歩いていた。
叫び声もない。
警戒の怒号もない。
代わりに聞こえるのは――
「おい、それ逆だろ」
「違う違う、そっちは乾かすほうだ」
「昨日より色が濃いな」
そんな、どうでもいいやり取りだった。
(……静かだな)
悪い意味ではない。
むしろ、胸の奥が少し緩む。
守れた、という実感は、
こういう音の中でしか感じられないのかもしれなかった。
問題の“匂い”に気づいたのは、グルマだった。
「……ん?」
工房の裏、瓦礫をまとめた一角。
割れた甕や、潰れた桶、焼け残った穀物袋が雑多に積まれている。
その前で、グルマが首を傾げた。
「おいヒトシ。ちょっと来い」
「どうした?」
「焦げ臭い……ってわけでもねぇな。
でも、何か変だ」
言われて近づくと、確かに匂いがある。
甘い。
だが、砂糖の甘さではない。
鼻の奥に残る、少し刺激のある匂い。
「腐ってる……?」
ヨークが顔をしかめる。
「いや、違うな」
グルマはしゃがみ込み、割れた甕の一つを覗き込む。
「これ、元は何入ってた?」
「穀物だ。
街に売る予定だった」
ヒトシの答えに、グルマは頷いた。
「だろうな。
で、スタンピートの時に火を被って、
その後、雨もかかった」
「最悪だな」
「普通ならな」
そう言って、グルマは棒で中身をかき混ぜた。
液体が、わずかに揺れる。
茶色がかった、濁った色。
グルマは指先に少し付け、匂いを嗅いだ。
「……飲むなよ」
「飲まねぇよ」
だが、次の瞬間。
グルマは、ほんの一滴を舐めた。
「……は?」
ヨークが声を上げる。
「おい!? 何やって――」
「静かにしろ」
グルマの声は、妙に真剣だった。
数秒、黙り込む。
そして。
「……不思議だな」
「何がだ?」
「甘くない。
だが、嫌な味じゃねぇ」
ヒトシは眉をひそめた。
「毒じゃないのか?」
「今のところはな」
グルマは、甕を叩く。
「たぶんだが……
発酵してる」
その言葉に、メイが反応した。
「発酵……?
もしかして、お酒の類ですか?」
「近いかもしれん」
グルマは、少し困ったように頭を掻く。
「俺も詳しくはねぇ。」
「酒?」
「酒だ」
ヒトシは、甕を見下ろした。
戦争。
火。
雨。
放置。
本来なら、すべて失敗の条件だ。
(……偶然、か)
だが、この世界でのこれまでを思い返す。
火も。
罠も。
工房も。
すべては、
最初は偶然から始まっていた。
「飲めるか?」
「調べりゃな。
すぐに全員に出すもんじゃねぇ」
グルマは真面目な顔で言った。
「だが……
もし、ちゃんと作れるなら」
言葉を切り、ヨークを見る。
「……売れるな?」
ヨークが一拍置いて、笑った。
「はは。
戦争の後に酒ってか」
「悪くねぇだろ」
メイが、少しだけ目を輝かせる。
「保存も効くなら、
交易にも向いていますね」
ヒトシは、静かに頷いた。
「まずは、調べる」
「急がない」
「使えるなら使う」
それだけだ。
酒を作るつもりは、まだない。
だが。
(スタンピートが生んだものが、
破壊だけじゃないなら)
それは、悪くない兆しだった。
その日の夕方。
崩れた倉の奥から見つかった甕。
中身は、甘く、鼻をくすぐる香りを放っていた。
「……これ、腐ってないわね」
そう言ったのはサラだった。
アンが慎重に中を覗き込む。
ヒトシは甕を見下ろし、しばらく黙っていた。
戦いの後に、酒。
あまりにも人間的で、そして今の村には似合わない気もした。
だが。
「……夜、宴をしよう」
その一言で、空気が少し変わった。
夜。
火が焚かれ、仮設の広場に簡素な席が並べられた。
豪華な料理はない。
だが、鍋には具が入り、肉は焼かれ、
甕の酒が分けられていく。
「飲み会だ! 飲み会!」
サラが声を上げた。
「戦争の後くらい、いいでしょ?」
そう言って、メリーが杯を取る。
魔物も、人間も、
今夜は同じ火を囲んでいた。
そして――
「おっ、これ……効くな」
最初に酔いが回ったのは、やはりヨークだった。
「うへへ……なんだこれ、あったけぇ……」
杯を何度か空けたあと、
ヨークは急に黙り込んだ。
しばらくして、ぽつりと漏らす。
「……なぁ、ヒトシ」
「どうした」
「今日、あいつがいねぇんだよな」
名前は出さない。
だが、誰のことかは分かった。
「いつもさ、
俺の後ろで槍構えて、
『前出すぎだぞヨーク』って言ってきたやつ」
ヨークは、杯を握りしめる。
「……死んだんだよな」
声が震え、
そして、ぽろっと涙が落ちた。
「俺、さ……
ふざけてばっかで、
あいつらを笑わせるくらいしかできなかったのに」
堰を切ったように、涙が溢れた。
「……全部、俺が前に出てりゃ……」
誰も、すぐには声をかけなかった。
火の爆ぜる音だけが響く。
その時だった。
「――おい」
グルマが、低い声で言った。
「せっかくの酒だ。
辛気臭いのは無しにしようぜ」
ヨークが顔を上げる。
「グルマ……」
「死んだやつらは、もう飲めねぇ。
だったらよ」
グルマは杯を掲げた。
「生き残った俺たちが、
ちゃんと飲んで、
ちゃんと覚えてりゃ、それでいい」
ヒトシが静かに頷いた。
「……俺たちは、生き残った」
「守れなかったものもある」
「でも、守れたものもある」
そう言って、杯を取る。
「この村は、まだある。
ここにいる仲間も、まだいる」
ヒトシは、火を見つめながら続けた。
「前に進むために、
今夜くらい、ちゃんと泣いて、
ちゃんと飲もう」
サラが、少し照れたように笑う。
「……あんた、こういう時はいいこと言うわね」
「珍しいな」
アンが小さく言い、メリーも杯を上げた。
ヨークは、鼻をすすりながら笑った。
「……くそ、
俺、明日絶対二日酔いだ」
「それでいい」
グルマが笑う。
「生きてる証拠だ」
杯がぶつかり合い、
夜は、ゆっくりと更けていった。
悲しみは消えない。
だが、それを抱えたまま笑える夜が、
ようやく戻ってきたのだった。




