第86話 王になったあとで
いつもなら聞こえるはずの音が、いくつも欠けている。
木を削る音。
軽口。
焚き火の爆ぜる音。
それらが、ない。
ヒトシは、ゆっくりと目を開けた。
視界が、違う。
天井が高い。
いや、違う――自分の視点が高い。
「……ああ」
短く息を吐く。
昨夜、確かに進化した。
ゴブリンロード。
その実感は、身体の奥に確かに残っている。
力が増した、というより――
把握できる範囲が広がった。
気配。
意識。
感情。
村の中に残る魔物たちの状態が、曖昧だが分かる。
全員が、疲れている。
全員が、生きている。
それだけで、今は十分だった。
外に出ると、進化した魔物たちがすでに動いていた。
元ゴブリンたちは、体格が一回り大きくなり、姿勢が安定している。
元オークたちは、角が短く整い、動きが無駄に荒くない。
コボルトたちは、毛並みが締まり、視線が鋭くなった。
誰も騒がない。
誰も喜ばない。
生き残った後の朝とは、こういうものだ。
「王」
ヨークが、いつもの軽口を封印した声で呼ぶ。
「……起きましたか」
「ああ」
ヒトシは頷く。
「被害は?」
ヨークは、少し間を置いて答えた。
「……数で言えば、半分以下です」
「建物は?」
「ほぼ、全壊です」
淡々とした報告。
感情を挟めば、作業が進まないと分かっているのだろう。
「でも」
ヨークは、言葉を継ぐ。
「逃げなかった連中は、全員生きてます」
ヒトシは、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでいい」
本当に、そう思った。
少し離れた場所で、見慣れない魔物たちが集められている。
スタンピートで操られていた魔物だ。
ロックオーガ。
牙猪。
ロックリザード。
狂走ウルフ。
傷だらけだが、全員、生きている。
その中の一体――
昨夜、話し始めた魔物が、ヒトシを見るなり頭を下げた。
「……助けてくれた」
言葉は、まだぎこちない。
「殺されると思った」
「操られていた間のことは?」
ヒトシが聞く。
「……夢みたいだ」
「叫んでた」
「止められなかった」
それ以上、無理に聞くことはしなかった。
「ここにいる以上」
ヒトシは、静かに言う。
「もう敵じゃない」
「話せるなら、仲間だ」
ざわ、と周囲が揺れる。
村側の魔物たちも、警戒は解いていない。
だが、拒絶もしていない。
それが、今の限界だ。
そして、それでいい。
サラ、メリー、アンも合流していた。
全員、疲労の色は濃いが、怪我は軽い。
「……王様になった気分は?」
サラが、冗談めかして言う。
「最悪だ」
ヒトシは即答した。
メリーが、小さく笑う。
「それ、良い王の条件よ」
アンは、壊れた建物を見渡しながら言った。
「……ここから、どうする?」
ヒトシは、答えを急がなかった。
ゴブリンロードになったからといって、
未来が急に見えるわけじゃない。
ただ一つだけ、分かっている。
「建て直す」
「また、作る」
「同じじゃなくていい」
「前より、壊れにくく」
ヨークが、静かに頷く。
「……了解です」
ヒトシは、ふと空を見上げた。
スタンピートは終わった。
魔人は倒した。
村は壊れた。
だが。
群れは、残った。
守る理由も。
守る仲間も。
それがある限り、終わりじゃない。
(……王になったあとで)
(やることが、増えただけだ)
ヒトシは、小さく笑った。
進化は、ゴールじゃない。
――ただの、通過点だ。




