第84話 積み重ねたものの先で
魔笛が、砕けた。
正確には、砕いた。
ヒトシの剣が、音を断ち切ったのだ。
高く、耳障りな旋律が一瞬だけ跳ね上がり、
次の瞬間、乾いた音と共に四散した。
笛の欠片が地面に散らばる。
その瞬間だった。
山を満たしていた狂気が――
一斉に、引いた。
「……っ!」
下級魔人が、初めて明確に表情を歪めた。
余裕も、観察者の冷静さも消えている。
「まさか……ここまでとは」
ヒトシは、答えない。
答える余裕はない。
全身が、軋んでいた。
右腕は痺れ、
脚は震え、
呼吸は荒い。
だが、立っている。
(……まだ、動ける)
それだけで、十分だった。
下級魔人は、静かに後退した。
距離を取るためではない。
立て直すためだ。
「理解できないな」
「貴様は、特別な存在ではないはずだ」
「魔力も低い。
血統もない。
魔王軍の系譜でもない」
魔人は、ヒトシを睨む。
「なぜ、届いた?」
ヒトシは、ゆっくりと剣を構え直した。
肩の力を抜く。
呼吸を整える。
(……考えるな)
(これは)
(いつもの延長だ)
剣を持ったのは、最初は恐る恐るだった。
重さが分からず、
振り方も分からず、
ただ振り下ろしていただけ。
罠を作るときも、
食器を削るときも、
防衛線を張るときも、
同じ動きを、何度も繰り返した。
上手くなるためではない。
生き残るために。
痛みを受けた。
何度も。
牙が掠り、
爪が裂き、
骨に響いた。
逃げたくなるたび、
判断を先送りにしたくなるたび、
選び続けた。
逃げるか。
踏み留まるか。
捨てるか。
守るか。
適応進化は、そのたびに反応していた。
派手ではない。
アナウンスも、祝福もない。
ただ――
【剣の基礎動作を最適化】
【痛覚信号の処理効率を調整】
【判断遅延を補正】
積み重なった結果が、
今、ここにある。
「答えは、簡単だ」
ヒトシは、初めて口を開いた。
「俺は、特別じゃない」
下級魔人の眉が動く。
「だから、積み上げた」
踏み出す。
魔人の詠唱が始まる前に、
もう一歩。
速い。
だが、それは瞬発力ではない。
迷いがない速度だ。
魔人の爪が振るわれる。
ヒトシは、避けない。
半歩ずらす。
当たらない距離を知っている。
刃を返す。
浅い。
だが、確実に入った。
「……ッ!」
魔人が声を上げる。
血が流れる。
魔人の血だ。
「ばかな……」
魔人は後退する。
距離が、もう保てない。
背後には、壊滅した村。
倒れた家屋。
血に染まった地面。
生き残った魔物たちの、息遣い。
守る理由が、そこにある。
魔人は、最後の賭けに出た。
残った魔力を、精神干渉に集中させる。
「跪け」
「恐怖を思い出せ」
空気が、歪む。
だが――
【精神干渉を検知】
【対精神攻撃耐性が発動】
【群れとの精神的結びつきを参照】
ヒトシの脳裏に、
仲間たちの姿が浮かぶ。
剣を振るサラ。
詠唱を続けるメリーとメイ。
盾を構えるアン。
本気で踏み出すヨーク。
泣きながら仲間を引きずるゴブリン。
倒れたまま動かない、コボルト。
(……恐怖は、ある)
(でも)
(逃げる理由にはならない)
ヒトシは、踏み込んだ。
魔人の喉元。
最後の一撃。
剣は、迷わず振り抜かれた。
刃が、魔人の核を断つ。
下級魔人は、崩れ落ちる。
魔笛の欠片が、完全に沈黙する。
山に残っていた狂気が、完全に消えた。
静寂。
ヒトシは、その場に膝をついた。
力が抜けた。
だが、立ち上がろうとする。
まだ、終わっていない。
戦争は、これで終わりではない。
だが――
今日、守った。
それだけで、十分だった。
【適応進化が反応】
【剣術基礎の定着を確認】
【痛み耐性の恒常化】
【判断速度の上昇を恒久適応】
【“守る対象”の存在を評価】
ヒトシは、息を整えながら思う。
(ここまで来るのに)
(どれだけ積み上げた?)
剣を、地面に突き立てる。
顔を上げる。
仲間たちが、こちらを見ていた。
生きている。
傷だらけだが、生きている。
ヒトシは、静かに言った。
「……帰ろう」
「まだ、やることがある」




