第82話 魔笛の主
村は、静かだった。
あれほどの轟音と悲鳴が嘘のように、
今はただ、焼け焦げた匂いと崩れた木材の軋む音だけが残っている。
ヒトシは、倒れた柵の前に立っていた。
生き残った者たちは、
怪我人を運び、
瓦礫をどけ、
死体を並べている。
誰も泣いてはいない。
泣く余裕すら、なかった。
(……終わった、わけじゃない)
ヒトシは、そう直感していた。
スタンピートは過ぎ去った。
だが、原因が消えていない。
その時だった。
――空気が、変わった。
風が止まり、
森のざわめきが一瞬で消える。
生き残った魔物たちが、
一斉に顔を上げた。
「……来るぞ」
ヨークが低く言う。
ヒトシも同じ方向を見る。
森の奥。
倒木の影。
そこから、
“歩いて”現れた。
人型。
だが、人ではない。
細身の体躯。
黒に近い赤の外套。
顔は人間に似ているが、目が笑っていない。
手には、一本の笛。
ただ歩いているだけなのに、
周囲の空気が歪んで見えた。
「……ほう」
男――いや、魔人は、村を見渡した。
「ずいぶんと、やられましたね」
声は穏やかだった。
あまりに、自然すぎる。
それが逆に、不気味だった。
「この辺りで、スタンピートが止まったと聞いて来てみれば……」
魔人は、壊れた建物と、
生き残った魔物たちを見比べる。
「なるほど」
「足止めを食らった理由は、これですか」
ヒトシは、一歩前に出た。
「……お前が、やったのか」
魔人は、ヒトシを見る。
その視線が、
明らかに“観察対象”を見るものに変わった。
「おや?」
「あなたが、ここをまとめている個体ですか」
ヒトシは、答えない。
魔人は、気にせず続ける。
「私は下級魔人です」
「役目は、混乱を起こし、可能性を試すこと」
軽い口調だった。
まるで、
畑に種を撒いた話でもするように。
「魔笛で魔物を操り、街を潰す」
「その反応を見る」
「よくある仕事ですよ」
村の空気が、凍る。
ヨークが歯を食いしばる。
「……てめぇ」
「俺たちを、実験扱いか」
魔人は肩をすくめた。
「結果として、そうなりますね」
「ですが――」
魔人の視線が、
再びヒトシに向く。
「あなた方は、想定外でした」
「魔笛が効かない魔物がいるとは」
ヒトシは、静かに問う。
「……なぜ、効かなかった」
魔人は、少し考える素振りを見せた。
「精神構造が、違う」
「支配を前提としない群れ」
「個体の意思が、妙に強い」
そこで、初めて――
魔人の目が、細くなる。
「……興味深い」
「あなた、何者です?」
ヒトシは、答えなかった。
代わりに、一歩踏み込む。
「ここは、俺たちの場所だ」
「実験場じゃない」
魔人は、くすりと笑う。
「そう言われましても」
「壊れましたよ? 村」
その言葉に、
ヒトシの中で、何かが切れた。
怒りではない。
確信だ。
(……こいつは)
(話し合う相手じゃない)
ヒトシは、はっきり理解した。
この存在は、
共存も、理解も、選ばない。
価値基準が、最初から違う。
魔人は、笛を軽く指で叩く。
「とはいえ」
「今日は、ここまでにしましょう」
「面白いものを見られましたし」
踵を返しかけて、
ふと立ち止まる。
「ああ、そうだ」
「次は、もう少し強い刺激を用意します」
「あなたが、どこまで耐えられるか」
ヒトシは、即座に言った。
「……次は、ない」
魔人は振り返り、
一瞬だけ、真顔になる。
「それは」
「あなた次第ですね」
その瞬間。
――圧。
目に見えない何かが、
ヒトシたちを押し潰そうとする。
ヨークが、膝をつく。
サラたちも、息を詰める。
ヒトシだけが、立っていた。
魔人の目が、わずかに見開かれる。
「……やはり、面白い」
次の瞬間、
魔人の姿は、霧のように消えた。
静寂が戻る。
ヒトシは、深く息を吐いた。
「……準備だ」
誰に言うでもなく、告げる。
「次は」
「逃がさない」
その背後で――
【適応進化が反応】
【脅威存在を確認】
【敵性上位個体を認識】
【戦闘フェーズへの移行を準備】
静かに、
だが確実に。
決戦の歯車が、回り始めていた。




