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第8話 それでも、逃げなかった理由

 オークの気配は、はっきりしていた。

 足音は重く、隠す気もない。

 木々を押し分ける音が、森の奥から断続的に響いてくる。

 葉が擦れる音、太い枝が折れる乾いた音。

 それらは獣のものとは違う。知性を持つ魔物の歩みだ。

 ――余裕だ。

 ヒトシは、その事実が一番きつかった。

(警戒すら、していない)

 ゴブリンの村など、脅威にすら数えていないのだろう。

 罠があるかもしれない。奇襲されるかもしれない。

 そんな可能性を、最初から切り捨てている。

 だから、堂々と近づいてくる。

 それが、力の差だった。

「……勝てるのか?」

 思わず、口から零れた。

 自分に向けた言葉だ。

 仲間に聞かせるためのものじゃない。

 むしろ、聞かせてはいけない言葉だった。

 ヒトシは、村の入口に視線を移す。

 枝を組み合わせただけの、即席の防壁。

 斜めに打ち込んだ木は不格好で、隙間も多い。

 オークが本気で突っ込めば、数回の打撃で壊されるだろう。

 いや、壊すまでもないかもしれない。

 力任せに押し倒されれば、それで終わりだ。

(無理だろ)

(正面からは)

 罠も、完璧とは言えない。

 深さは浅く、足を取る程度。

 獣なら転ぶかもしれないが、オークが転ぶとは思えない。

 致命傷には、決してならない。

 ――逃げた方がいい。

 理性は、はっきりそう告げていた。

(無駄に戦うより、森に潜った方がいい)

(今はまだ、間に合う)

 この判断は、間違っていない。

 むしろ、賢い。

 生き残るためには、勝てない戦いを避けるのが基本だ。

 ヒトシは、そうやってここまで生き延びてきた。

 危険を察し、距離を取り、撤退する。

 それができなかった者から、死んでいった。

 だが。

 火のそばで、ゴブリンたちが身を寄せ合っているのが目に入った。

 小さな体。

 粗末な装備。

 武器と呼べるものは、石と木の棒だけ。

 それでも、誰も逃げ出していない。

 不安そうにしながらも、

 ヒトシの方を見ている。

(……俺を、見てる)

 昨日まで、命令される側だった存在が。

 奪われるだけだった存在が。

 殴られ、蹴られ、従うしかなかった存在が。

 今は、

 判断を委ねている。

 どうするのか。

 逃げるのか。

 戦うのか。

 その答えを、ヒトシ一人に託している。

(ここで逃げたら)

(こいつらは、どうなる?)

 次の場所でも、同じことができるとは限らない。

 火を起こせるか。

 獣を狩れるか。

 奪われずに済むか。

 答えは、分からない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

(俺が逃げを選んだら)

(こいつらは、また奪われる)

 力のある者に。

 数の多い者に。

 もっと残酷な相手に。

 そして、いずれ死ぬ。

「……クソ」

 ヒトシは、歯を食いしばった。

 オークの姿を、思い出す。

 太い腕。

 分厚い胸板。

 余裕のある歩き方。

 こちらを見下ろすような視線。

 獲物を見る目。

(あの余裕……)

(相当な力差がある)

 逃げたい気持ちは、消えない。

 恐怖は、確かにある。

 それでも。

「……考えろ」

 ヒトシは、自分に言い聞かせる。

 力で勝てないなら、

 勝ち方を変える。

 目的は、倒すことじゃない。

 生き残ることだ。

 ヒトシは、全員を集めた。

 言葉は通じなくても、

 指差しと動きで伝える。

「ここ」

 村の入口を指す。

「掘る」

 ゴブリンたちは、すぐに理解し、地面を掘り始めた。

 迷いはない。質問もない。

 深さは膝ほど。

 落とすためじゃない。

 足を止めるためだ。

 次にヒトシは、柵を叩いた。

「次」

 枝を追加し、間隔を狭める。

 見た目は変わらないが、密度は上がる。

 突破される前提でいい。

 だが、その一瞬が、生死を分ける。

「時間を稼ぐ」

 それが、すべてだ。

 さらに、石を集めさせた。

 拳大のものを、できるだけ多く。

 丸いもの、尖ったもの、重たいもの。

(投げる)

(狙うのは、頭と脚)

 ゴブリンの体は軽い。

 腕力は弱くても、数と位置取りがあれば通用する。

 単純だが、現実的だ。

 そして――今の自分たちにできる、最大限の抵抗だ。

【《適応進化》が反応】

【強敵を想定した行動を検知】

【集団防衛行動への適応を開始】

 準備が進むにつれ、

 ヒトシの心は、少しずつ落ち着いていった。

 考えるべきことを考え、

 やるべきことをやる。

 それだけで、恐怖は制御できる。

(勝てるか、じゃない)

(生き残れるか、だ)

 一体倒せればいい。

 いや、倒せなくてもいい。

 追い返せれば、それで勝ちだ。

 夜。

 森の奥から、

 重い足音が、はっきりと聞こえてきた。

 ドスン。

 ドスン。

 地面が、微かに震える。

 ゴブリンたちが、息を呑むのが分かる。

 誰も喋らない。

 ただ、必死に石を握りしめている。

 ヒトシは、前に出た。

 怖い。

 正直、逃げたい。

 だが。

「……逃げない」

 自分に言い聞かせるように、呟く。

「ここは、俺たちの場所だ」

 柵の向こうに、

 オークの影が見え始めた。

 月明かりに照らされた、その巨体。

 厚い皮膚。

 筋肉の塊のような腕。

 その顔には――

 明確な余裕が浮かんでいる。

「……来たな」

 ヒトシは、石を握りしめる。

 ここが、

 ゴブリンが“狩られる側”で終わるかどうかの分かれ道だ。

 恐怖を知った上で、

 それでも立ち止まり、考え、選んだ。

 その選択が正しかったかどうかは、

 これから分かる。

 だが一つだけ、確かなことがある。

 ヒトシはもう、

 何も考えずに逃げる存在ではなかった。

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