第78話 逃げ場のない森
それは災厄ではなく、意思だった
最初に異変を告げたのは、音だった。
低く、濁った、不快な音。
風に乗って、断続的に森へ流れ込んでくる。
笛――
だが、旋律と呼ぶにはあまりにも歪で、乱雑だ。
「……下手くそだな」
ヨークが、吐き捨てるように言った。
「音が割れてる。息の使い方もなってねぇ。
聞いてて気分が悪いだけだ」
ヒトシも同意見だった。
不快ではあるが、身体に異変はない。
頭が霞むことも、心が掻き乱されることもない。
だが――
斥候の報告は、短く、そして重かった。
「……来ます」
それだけで、十分だった。
ヒトシは地図の上に置いた指を動かさず、黙っていた。
グルナが広げたのは、村と周辺一帯を詳細に描いた森の地図だ。
木々の密度、起伏、獣道、水脈――すべてが記されている。
その地図を前に、グルナは静かに言った。
「スタンピートの規模が大きすぎます。
この森……受け流せません」
ヨークが眉をひそめる。
「受け流せない?
森は広いぞ。散らせば――」
「無理です」
即答だった。
グルナは地図の数か所を指し示す。
「山岳地帯から流れ込む魔物は、この三つの谷を必ず通る。
逃げ道は、最初から潰されています」
静寂。
誰も反論しなかった。
ヒトシは、ようやく口を開く。
「……つまり」
「この村は、必ず巻き込まれる」
グルナの声は冷静だったが、
その尾はわずかに震えていた。
サラが一歩前に出る。
「撤退は?」
それは、冒険者としての常識だった。
「街に逃げれば、生き延びられる可能性はあります。
ここは……耐えられない」
メリーも頷く。
「スタンピートは、戦争じゃない。
自然災害よ。止められない」
アンは唇を噛み、言葉を探していた。
ヒトシは、全員を見渡す。
ゴブリン。
オーク。
コボルト。
そして、人間。
ここにいる全員が、
この村で“生きる選択”をしてきた。
「……逃げたら、どうなる?」
ヒトシの問いに、誰もすぐ答えられなかった。
ヨークが、低い声で言う。
「この村は、壊れるな」
「二度と戻れない」
ヒトシは頷いた。
「街は?」
「守りきれない」
サラが、はっきり言った。
「スタンピートは、街を滅ぼす。
壁があっても、数が違いすぎる」
ヒトシは、目を伏せる。
適応進化が、静かに――しかし確実に反応していた。
【適応進化が反応】
【死の予感を検知】
【生存率:極低】
【強烈な警告を発信】
胸の奥に、冷たいものが広がる。
だが、それは恐怖ではなかった。
――現実だ。
「……俺は」
ヒトシは、ゆっくりと顔を上げた。
「この村を、守りたい」
空気が、張り詰める。
誰かが笑うことも、
誰かが反論することもなかった。
ヒトシは続ける。
「合理的じゃないのは分かってる。
勝算も、低い」
「それでも」
言葉を、選ぶ。
「ここは、俺たちが作った場所だ」
工房。
食器。
分業。
笑い声。
失敗しながら、
選び続けてきた結果。
「……逃げたら」
「俺は、多分、生き残れる」
「でも、それは」
ヒトシは、はっきりと言った。
「俺が選んできた生き方じゃない」
沈黙の中で、ヨークが一歩踏み出した。
「今日は……」
いつもの軽口はなかった。
「ふざけられねぇな」
それだけで、十分だった。
メイが、杖を握り直す。
「魔法の準備を始めます。
今回は……全力で」
グルマが、布に包まれた剣を取り出す。
「売れなくなった剣だ」
「いつか、こういう日が来ると思ってよ」
ヨークが、苦く笑う。
「お前……
食器じゃ、欲求満たせねぇって言ってたもんな」
「当たり前だ」
グルマは、真剣だった。
「俺は、武器職人だ」
グルナは、地図を指差す。
「迎撃地点を決めましょう。
森を使えば、多少は数を削れます」
サラが剣を抜き、肩に担ぐ。
「時間稼ぎなら、任せて」
メリーは深く息を吸う。
「広域は……制限があるけど、やるわ」
アンは盾を構え、静かに頷いた。
ヒトシは、その光景を胸に刻む。
適応進化が、再び反応する。
【適応進化が反応】
【守る対象を確認】
【集団防衛行動への適応を開始】
【痛覚・疲労耐性の微調整】
力が湧くわけじゃない。
だが、
“耐えられる”感覚があった。
「……行こう」
ヒトシの言葉に、全員が頷く。
スタンピートは、止められない。
だが。
この村で、
立ち向かうことはできる。
森が、ざわめいた。
遠くで、
地鳴りのような音が聞こえ始めていた。




