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第75話 残り一時間

 目を覚ました瞬間、ヒトシはまず息を止めた。

 天井が、木だった。

 見慣れない梁。

 人間用に作られた低い天井。

 森の空でも、洞穴の岩肌でもない。

(……ああ)

(まだ、人間だ)

 そう理解してから、次に思い出す。

 宿。

 それも――

「……四人部屋、だったな」

 声に出さず、胸の内で呟く。

 身体を起こさないまま、視線だけを動かす。

 左のベッドでは、サラが横向きに眠っていた。

 剣士らしい癖か、無意識に片腕を胸の前に置いている。

 向かいでは、メリー。

 髪が乱れ、昨夜の酒のせいか寝顔は完全に無防備だ。

 そして――

 アン。

 盾役らしく、仰向けで、微動だにせず眠っている。

 まるで見張りの延長のようだった。

(……落ち着かないな)

 人間だった頃なら、

 若い女性と同室で眠るなんて考えられなかった。

 だが今は、違う。

 距離感が、違う。

 近いのに、踏み込めない。

 踏み込む気も、起きない。

(ゴブリンとして生きる、って)

(こういうことか)

 ふと、胸の奥が静かになる。

 その時――

【残り時間:1時間00分】

 冷たい文字が、脳裏に浮かんだ。

(……来たか)

 思ったより、早い。

 ヒトシは、ゆっくりと息を吐いた。

 昨日までは「まだ余裕がある」と思えていた時間が、

 一気に現実の制限として迫ってくる。

(街の中で解除されたら)

(……面倒じゃ済まない)

 冗談でも、笑い話でもない。

 この姿は、借り物だ。

 期限付きの、安全装置。

「……起きてる?」

 小さな声。

 サラだった。

 ヒトシは、視線を向ける。

「少し前からな」

「やっぱり」

 サラは、小さく笑った。

「緊張してる顔してる」

「……そう見えるか」

「見える」

 即答だった。

 その声で、メリーも目を覚ます。

「ん……朝?」

「まだ早いわよ」

 アンも、静かに上体を起こした。

「……時間、どれくらい?」

 ヒトシは、正直に言う。

「残り一時間」

 三人の空気が、変わる。

「……それ、結構ギリギリね」

 メリーが呟く。

「街の外まで出ないといけないんでしょ?」

「そうだ」

 アンが、短く言った。

「急いだ方がいい」

 誰も、冗談を言わなかった。

 昨夜の酒場での軽口とは違う。

 ここからは、現実の判断だ。

 宿を出る。

 朝の街は、すでに動いていた。

 パン屋の香ばしい匂い。

 荷車の音。

 行き交う人々。

(……名残惜しいな)

 正直な感情だった。

 初めて歩いた街。

 初めて触れた、人間の生活。

 だが、立ち止まれない。

「門まで、最短で行く」

 ヒトシが言うと、三人は黙って頷いた。

 路地を抜け、

 市場の脇を通り、

 城壁が見えてくる。

【残り時間:38分】

(……減るのが早い)

 ヒトシは、無意識に歩幅を広げた。

 サラが、それに合わせる。

「焦らなくていい」

「でも――」

「大丈夫」

 その声は、意外と落ち着いていた。

「間に合うわ」

 門が、見えた。

 だが同時に、

 朝の出入りで人が増えている。

(……並ぶ時間はない)

 ヒトシは、門番に向かって進み出る。

「出る」

 短く言う。

 門番は、一瞬だけヒトシを見て、

 特に疑問を持たなかった。

「通れ」

 拍子抜けするほど、あっさりだった。

(……助かった)

 城門を抜ける。

 街道の土の感触が、足裏に伝わる。

 その瞬間――

【残り時間:12分】

「……外に出た」

 ヒトシが言う。

 三人が、ほっと息をついた。

「間に合ったわね」

「ええ」

 だが――

 ヒトシは、止まらなかった。

「もう少し、離れる」

「念のためだ」

 森の縁が、見えるまで歩く。

 草の匂い。

 湿った土。

 懐かしい感覚。

【残り時間:3分】

 ヒトシは、立ち止まった。

「ここでいい」

 三人が、ヒトシを見る。

「……戻るのね」

「ああ」

 サラが、少しだけ笑った。

「不思議ね」

「人間の姿の方が、よそ者に見える」

「……俺も、そう思う」

【残り時間:30秒】

 身体が、熱を帯びる。

 視界が、揺らぐ。

「じゃあ――」

 メリーが言いかけて、止めた。

 言葉は、要らなかった。

【適応進化:人間環境適応 終了】

 次の瞬間。

 ヒトシは、元の身体に戻っていた。

 緑の皮膚。

 低い視点。

 慣れた重心。

(……帰ってきた)

 不思議と、安心する。

 サラ、メリー、アンは、

 一瞬だけ目を瞬かせてから――

「……あーあっ」

 三人同時に、声を揃えた。

「なんだ、その反応は」

 ヒトシが言うと、

 サラが肩をすくめる。

「もう少し見てたかっただけ」

「何をだ」

「内緒」

 ヒトシは、溜息をついた。

 だが――

 胸の奥は、静かに満たされていた。

(……次は)

(もっと上手く使おう)

 24時間。

 月に一度。

 制限付きの切り札。

 ヒトシは、森へと歩き出す。

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