第74話 街に溶ける
街の喧騒は、森とはまるで違った。
人の声が重なり合い、
荷車の軋む音が通りを満たし、
どこからともなく鉄と油の匂いが漂ってくる。
ヒトシは、ゆっくりと歩いていた。
急ぐ理由はない。
目的も、特に決めていない。
ただ――
この場所に身を置くこと自体が、刺激だった。
(……人が、多い)
視線を感じることはほとんどない。
誰もが忙しく、他人に構っていられない。
それが、逆に新鮮だった。
森では、
誰かが動けば、必ず意味があった。
ここでは違う。
無数の人間が、
無数の理由で動き、
互いに干渉せず、すれ違っていく。
(……溶け込んでるな)
そう思った瞬間、
胸の奥に、わずかな違和感が残った。
(溶け込んでる“だけ”だ)
居場所とは、違う。
市場は、街の心臓だった。
肉屋の呼び声。
野菜籠を抱えた女。
果物を並べる子ども。
色も匂いも、森よりずっと強い。
ヒトシは、露店を一つ一つ眺めていく。
(肉……鮮度は悪くない)
(野菜は、種類が多いな)
(調理前提か)
買うつもりはなかった。
だが、知ること自体が価値だった。
森では、
食えるか、食えないか。
街では、
どう食べるか、いくらで食べるか。
価値基準が、根本から違う。
ふと、思う。
(ここに、俺たちの作った食器が並んだら……)
想像は、すぐに止めた。
(まだ早い)
焦る必要はない。
次に目に留まったのは、薬屋だった。
小さな店構え。
だが、棚には瓶がぎっしりと並んでいる。
ヒトシは、興味に引かれて中へ入った。
「いらっしゃい」
白髪の店主が、ちらりとこちらを見る。
怪しまれる様子はない。
ヒトシは、瓶を眺める。
(回復薬……)
(効能は……即効性重視か)
いくつか、価格を確認する。
(高いな)
ここでは、
命は金で延ばすものらしい。
数本だけ購入し、店を出る。
(薬草の使い方か、)
(知識の方向性が、街向けだ)
適応進化が、
静かに反応しているのを感じた。
だが、今はそれを意識しない。
「……ヒトシ」
背後から、声がした。
女の声。
ヒトシが振り返ると、
そこには三人の女性が立っていた。
サラ。
メリー。
アン。
一瞬、言葉を失う。
「……なんで、ここに?」
サラが、肩をすくめる。
「だって心配じゃない」
メリーが、口元を押さえて笑う。
「他の女に声かけられないか」
アンが、真顔で頷く。
「可能性は、否定できません」
「……おい」
ヒトシは、思わず苦笑した。
「街までついてくるとは思わなかった」
「冗談よ」
サラは、軽く言う。
「でも、久々の街だし」
「たまにはいいでしょ?」
その言葉に、
ヒトシは否定できなかった。
確かに、
一人で歩く街は刺激的だが、
どこか落ち着かない。
知っている顔があるだけで、
空気が変わる。
気づけば、空は暗くなっていた。
「飲まない?」
メリーが、酒場を指差す。
「人間の姿なんだし、今だけよ」
ヒトシは、一瞬迷い、頷いた。
酒場は、
昼間とは別の顔をしていた。
笑い声。
酒の匂い。
音楽。
四人は、隅の席に座る。
酒を頼み、
簡単な料理を分け合う。
「……街も悪くないわね」
サラが言う。
「でも」
アンが続ける。
「今は、森の方が落ち着きます」
メリーも頷いた。
「不思議よね」
「昔は、街の方が安全だと思ってたのに」
ヒトシは、黙って聞いていた。
(……同じだ)
価値観が、少しずつ揃ってきている。
それが、嬉しくもあり、
どこか不思議でもあった。
夜は更け、
流石に帰るのは遅すぎる時間になった。
「宿、取ろう」
サラが言う。
「今夜は、ここまで」
4人で部屋を取り、
簡素な寝台に腰を下ろす。
人間の宿。
柔らかすぎる寝具。
(……慣れないな)
ヒトシは、天井を見つめる。
森の夜とは、音が違う。
静かすぎて、
逆に眠りにくい。
その時、
意識の端に、淡い表示が浮かんだ。
【残り適応時間:7時間40分】
(……起きたらすぐ街を出なくては)
ヒトシは、目を閉じる。
(街は……確かに刺激的だ)
(だが)
(ここに居続ける場所じゃない)




