第72話 街へ
街道は、森と明確に違っていた。
踏み固められた地面。
一定の幅。
両脇に等間隔で立つ木々は、人の手が入っていることを隠そうともしていない。
(……歩きやすいな)
ヒトシは、思わずそんな感想を抱いてしまい、すぐに自嘲した。
森では、歩きやすさは信用しない。
踏み跡は罠であり、道は狙撃点であり、開けた場所は危険地帯だ。
だが、ここでは逆だ。
整えられていることが、安全の証明になっている。
(価値観が、違う)
それだけで、胸の奥が少しざわついた。
足取りを調整しながら、ヒトシは自分の身体感覚を確かめる。
歩幅。
重心。
腕の振り。
ゴブリンのときよりも、無駄が多い。
その代わり、力の配分が細かい。
(……これが、人間か)
視線の高さも違う。
森のときより、少し遠くが見える。
そのぶん、近くの気配に鈍い。
(慣れすぎるな)
ヒトシは、自分に言い聞かせる。
これは本来の姿ではない。
借り物だ。
街道を進むにつれ、人影が増えてきた。
荷車を引く商人。
歩調を合わせる家族連れ。
剣を下げた冒険者らしき一団。
誰も、ヒトシを警戒しない。
それが、何より異様だった。
(……視線が、軽い)
森では、視線は重い。
敵意、警戒、計算が混じる。
だが、ここでは――
無関心が支配している。
すれ違うとき、ほんの一瞬目が合うだけ。
それで終わりだ。
(溶け込んでるな)
胸の奥で、小さく理解する。
適応進化は、正確だった。
武器を与えず、力を与えず、
**「疑われない存在」**という形で適応させた。
(街では、これが一番強い)
道の先に、城壁が見え始めた。
高く、分厚く、無機質な石の塊。
(……森とは、正反対だ)
森は、境界が曖昧だ。
どこまでが安全で、どこからが危険か、常に変わる。
だが街は違う。
内と外が、はっきりしている。
門があり、壁があり、
守られる者と、締め出される者が分かれている。
(……この中に入る、か)
ヒトシは、無意識に歩調を緩めた。
ここから先は、人の世界だ。
価値観も、判断基準も、
森とはまるで違う。
だが、怖くはなかった。
それよりも――
(……試されるな)
自分が、
どこまで適応できるのか。
そして、
どこまで適応すべきではないのか。
門番が視界に入る。
槍を持ち、鎧を着込み、
だが姿勢は硬すぎない。
職務として立っている人間だ。
ヒトシは、自然に歩み寄った。
「入城だ」
門番の一人が、そう言ってヒトシを見る。
視線は、装備と顔を一度なぞるだけ。
「目的は?」
「見物だ」
短く答える。
嘘ではない。
門番は肩をすくめた。
「身分証は?」
「ない」
一瞬、間が空く。
ヒトシは、無意識に呼吸を整えた。
ここで詰まれば、街に入れない。
だが――
「まあいい」
門番は、あっさり言った。
「最近は流れ者も多い。問題起こすなよ」
「分かっている」
それだけで、門は開いた。
(……拍子抜けだな)
だが同時に、理解する。
人間の世界では、完全な管理など不可能だ。
だからこそ、
第一印象で「危険ではない」と判断されれば、それで通る。
(森なら、即囲まれてたな)
思わず苦笑する。
門をくぐった瞬間。
空気が変わった。
音が増え、匂いが混じり、
人の気配が密集する。
話し声。
笑い声。
金属音。
獣の鳴き声。
(……情報量が、多い)
脳が、一気に忙しくなる。
森では、一つの音に集中する。
ここでは、全体を流す。
やり方が違う。
【適応進化が反応】
【高密度環境への曝露を確認】
【情報処理負荷の調整を開始】
ヒトシは、わずかに目を細めた。
(……来たな)
まだ、大きな変化ではない。
だが、確実に反応している。
街は、刺激の塊だ。
通りを歩きながら、ヒトシは空を見上げる。
石の建物に切り取られた、狭い空。
(……不思議だ)
(嫌いじゃないが、落ち着かない)
森の空は、広い。
だがここでは、空すら管理されている。
そのとき、頭の奥に、静かな感覚が走った。
【適応進化:人間形態・残存時間】
【残り 22時間11分】
数字を見て、ヒトシは内心で頷く。
(……十分ある)
(だが、無駄にはできない)
この姿でいられる時間は限られている。
街を知る。
価値を知る。
危険を知る。
すべて、今日のためだ。
ヒトシは、通りの奥へと足を進めた。
人の世界を観測するために。
そして、
ゴブリンとして生き延びるために。




