第70話 適応のため
眠りは、深かった。
焚き火の音も、
夜風も、
夢さえもない。
ただ、沈むような感覚だけがあった。
【適応進化が反応】
【環境変化を検知】
【人間の生息環境への適応を開始】
【適応制限を設定】
【適応制限:24時間/月】
ヒトシは、その声を――
夢の中で聞いた。
(……制限?)
(今まで、そんなものは――)
考え切る前に、意識が途切れる。
朝だった。
柔らかい光が、瞼の裏に差し込む。
ヒトシは、ゆっくりと目を開けた。
――違和感。
最初に感じたのは、重さだった。
身体が、重い。
いや、正確には――
感覚が、増えている。
指を動かす。
関節が、はっきりと分かる。
息を吸う。
胸郭が、明確に上下する。
「……?」
声を出そうとして、止まる。
喉の位置が、違う。
ヒトシは、ゆっくりと自分の手を見る。
緑色ではない。
毛もない。
細く、だが見慣れた形。
「……人間、だな」
自分の声が、
完全に人間のものだった。
混乱は、なかった。
驚きは、あったが、恐怖はない。
(……なるほど)
(これが)
(“人間の生息環境への適応”か)
適応進化は、
力を与えたわけではない。
剣が振れるようになったわけでも、
魔法が使えるようになったわけでもない。
ただ――
(街に、溶け込める)
(生き残れる)
それだけだ。
ヒトシは、深く息を吐いた。
(制限があるのも)
(納得だ)
(これは)
(常用する力じゃない)
24時間。
月に、一度。
逃げ道ではなく、切り札。
(……優しいな)
そう思って、苦笑する。
過剰な力は、与えない。
依存も、許さない。
適応進化は、
相変わらず――
甘くなかった。
ヒトシは、立ち上がる。
足の長さ。
重心の位置。
視線の高さ。
すべてが違う。
(……慣れる必要はない)
(今日は)
(試すだけだ)
外から、気配が近づく。
「王?」
ヨークの声。
ヒトシは、一拍置いて答えた。
「……入っていい」
扉が開く。
ヨークが、一歩踏み込んで――
その場で固まった。
「……え?」
数秒、言葉を失う。
そして、ぽつりと漏らした。
「……誰です?」
ヒトシは、少しだけ目を伏せて言った。
「俺だ」
「……王?」
「ヒトシだ」
ヨークは、目を見開き、
次の瞬間、腹を抱えて笑った。
「はは……ははは!」
「なるほど!」
「それは……反則ですね!」
ヒトシは、肩をすくめる。
「制限付きだ」
「月に、24時間だけ」
ヨークは、笑いを収め、真顔になる。
「十分すぎます」
「街に行くには」
ヒトシは、静かに頷いた。
「行く」
「予定通りだ」
適応進化は、
すでに一手、先を打っていた。
ヒトシは、初めて思う。
(……俺は)
(使われているんじゃない)
(導かれている)
そうして、
人の姿を得たゴブリンは、
街へ向かう準備を始めるのだった。




