第69話 適応進化の先へ
村は、静かだった。
音がないわけではない。
工房では木を削る音があり、
焚き火のそばでは誰かが話している。
だがそこには、混乱も、焦りも、危機もなかった。
――安定。
ヒトシは、その言葉を頭の中で転がした。
(……良い状態だ)
(間違いなく)
食べる物がある。
作る場所がある。
守る力も、逃げる余地もある。
生き残る、という目的だけで見れば。
これ以上ない環境だった。
それなのに。
(……進化が、止まっている)
正確に言えば、完全に止まったわけではない。
疲労が溜まりにくくなり、
作業のミスが減り、
衝突が起きにくくなった。
適応進化は、確かに反応している。
だがそれは――
微調整に過ぎなかった。
ヒトシは、焚き火の前に腰を下ろす。
炎を見つめながら、これまでを振り返った。
(最初は、火だった)
ただ、生きるために火を起こした。
木の実を焼き、腹を満たした。
その時、適応進化は反応した。
――生存のための行動だったからだ。
(次は、狩り)
罠を作り、
道具を工夫し、
群れで動いた。
力を求めたわけじゃない。
合理を求めただけだ。
それでも、進化は起きた。
(オークと対峙した時)
逃げる判断は、正しかった。
それでも逃げなかった。
理由は単純だ。
仲間が、そこにいた。
あの時進化したのは、
筋力でも牙でもない。
覚悟と判断だった。
(食器を作った時)
進化しようなんて、誰も考えていなかった。
割れにくく、
揃っていて、
毎日使える物を作りたかっただけだ。
適応進化は、派手に反応しなかった。
だが、確実に。
手先が器用になり、
集中力が増し、
疲れにくくなった。
(家具を作り)
(分業し)
(教え合い)
(安定させた)
そのたびに進化は起きたが、
どれも静かだった。
(……分かった)
ヒトシは、はっきりと理解した。
適応進化は、
願いを叶える力じゃない。
努力へのご褒美でも、
都合のいい奇跡でもない。
これは――
環境を、そのまま映す鏡だ。
無茶な環境にいれば、
無茶な進化をする。
整えた環境にいれば、
整った進化をする。
そして今。
(この村は)
(整いすぎている)
ヒトシは、立ち上がる。
工房を見渡す。
揃った机。
迷いのない動線。
落ち着いた仲間たち。
(……ここでは)
(これ以上、大きな刺激は起きない)
それは衰退ではない。
完成に近づいている、ということだ。
だが。
(適応進化は)
(完成を、好まない)
(変化を、糧にする)
ヒトシの脳裏に、
自然と一つの場所が浮かんだ。
――街。
人の価値観。
貨幣の流れ。
法と嘘と競争。
森とは、正反対の環境。
(……だからこそ)
(あそこなら)
(確実に、刺激になる)
「……街に行く」
ヒトシの言葉に、ヨークが振り向いた。
「街、ですか?」
「俺が行く」
ざわり、と空気が動く。
「危険ですよ」
「魔物だって、バレたら……」
「分かっている」
ヒトシは、静かに答えた。
「だが」
「この村は、もう守れる」
「次は」
「外に適応する番だ」
ヨークは、しばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「……なるほど」
「刺激を、取りに行くわけですね」
「そうだ」
ヒトシは頷く。
「適応進化を、試す」
「新しい環境に身を置けば」
「きっと、反応する」
その夜。
ヒトシは、久しぶりに眠れなかった。
不安ではない。
恐怖でもない。
期待だった。
(街は)
(俺を、どう扱う?)
(俺は)
(何に、適応する?)
適応進化は、まだ沈黙している。
だが、ヒトシは確信していた。
次の進化は、
ここでは起きない。
人の世界で起きる。
そうしてヒトシは、
生き残るための次の一手として――
街へ行く決断を下した。




