第45話 嗅ぎつけた森
最初は、ただの違和感だった。
ナンは街道を外れ、森の縁で足を止める。
本来、商人が立ち入る場所ではない。
魔物の森。
危険で、利益にならない。
――はずなのに。
「……変だな」
鼻先が、わずかにくすぐられた。
焚き火の匂い。
それも、血と生肉の混じったものではない。
調理された肉と、乾いた木の匂い。
(……人の生活の匂いだ)
ナンは耳をぴくりと動かした。
頭の上で揺れる、三角形の耳。
灰色がかった毛並みの猫耳だ。
彼女は猫人――
嗅覚と直感に優れた獣人であり、商人だった。
危険な場所と、
“金になる場所”の匂いは、はっきり違う。
そして今、この森から漂ってくるのは――
間違いなく後者だった。
「……少し、見るだけ」
自分に言い訳しながら、
ナンは森へ足を踏み入れた。
次の瞬間。
「……止まって」
背後から、低い声。
「え?」
反応する暇もなく、
腕を後ろに捻り上げられる。
「ちょっ――!」
力は強くない。
だが、無駄がない。
(……斥候?)
視界の端に、緑色の影が複数映る。
ゴブリンだ。
だが、
装備が整いすぎている。
刃の手入れ、足運び、間合い。
野盗のような雑さがない。
「……侵入者」
「……連れていく」
短い言葉。
ナンは、抵抗をやめた。
(……殺す気は、ない)
乱暴に扱われない。
殴られもしない。
狩りではなく、確保。
その事実が、逆に不気味だった。
連れて行かれた先で、
ナンは言葉を失った。
そこには――村があった。
即席ではない。
暮らす前提で作られた配置。
焚き火の位置。
作業場。
見張りの交代。
(……人間の集落と、変わらない)
さらに目を疑う。
オークが訓練をまとめ、
ゴブリンが柵を修理し、
コボルトが役割分担して動いている。
混乱がない。
怒号も、争いもない。
(……魔物の村、だよね……?)
そして決定的だったのは――
人間が、そこにいること。
檻も、縄もない。
武器を持ち、
魔物と並んで話している。
ナンの背筋に、冷たいものが走る。
(……ここは)
(……知られてはいけない場所かもしれない)
「……連れてきた」
斥候の声で、
ナンは前へ押し出された。
視線が、一斉に集まる。
その中心にいたのが、
小柄なゴブリン――ヒトシだった。
最初に思ったのは、
意外と普通だ、ということ。
だが、目が合った瞬間、理解する。
(……この人が、判断している)
威圧感はない。
だが、逃げ道を考えさせない目だ。
ヒトシは、ナンを見て――
一瞬だけ、視線が上にずれた。
(……ネコ耳)
内心で、少し感心する。
(……本物だな)
前世で見た獣人のイメージより、
ずっと自然で、生活に馴染んでいる。
だが、それを顔には出さない。
「……名前は?」
静かな声。
「ナン」
「……商人です」
ヒトシは、すぐには追及しない。
「……なぜ、ここに来た」
ナンは、正直に答えた。
「……匂い、です」
ヒトシが眉をわずかに動かす。
「……匂い?」
「焚き火と、作業の音」
「……危険な森の匂いじゃなかった」
しばらくの沈黙。
ヒトシは、静かに言った。
「……それで、入った」
「……商人らしいな」
ナンは、苦笑する。
「否定しません」
斥候たちは、次の指示を待っている。
ナンは覚悟した。
(……殺されるか)
(……追い返されるか)
だが。
「……害意は?」
「ありません」
「……取引は?」
一瞬迷って、正直に言う。
「……できると思いました」
ヒトシは、小さく息を吐いた。
「……分かった」
「……拘束、解け」
腕の力が抜ける。
その瞬間、
ナンは確信した。
(……この森は、危険だ)
(……でも)
(……商人として、無視できない)
ネコ耳が、無意識にぴくりと動く。
嗅覚も、直感も告げている。
――ここには、価値がある。
そしてヒトシは、そんなナンを見て思った。
(……面倒なのが来たな)
だが同時に。
(……世界と繋がるなら)
(……避けては通れない)
森は、もう閉じた場所ではなかった。




