第39話 境界が消えた日
その変化は、
ゴブリンたちからではなかった。
最初に異変を感じたのは、
サラだった。
(……あれ?)
訓練場の中央。
木槍を構えたゴブリンと向かい合い、
いつものように距離と呼吸を測っていた、その時。
視界の端が、わずかに揺れた。
眩暈ではない。
疲労でもない。
世界の“輪郭”が、ずれた感覚。
「……?」
思わず、剣を下ろす。
次の瞬間だった。
【――UNKNOWN SYSTEM ERROR】
聞き慣れない音が、
頭の奥に直接響いた。
文字でも、声でもない。
概念そのものが流れ込む感覚。
【対象:人間個体】
【条件外干渉を検知】
【適応進化システム、誤作動】
「……っ!」
サラは、膝をついた。
アンも。
メリーも。
三人同時だった。
「な、なに……今の……」
メリーが、こめかみを押さえる。
魔法でもない。
呪いでもない。
それなのに、
“何かを見てしまった”感覚だけが残る。
一方で、ヒトシは――
立ち尽くしていた。
《適応進化》の通知が、
これまでとは桁違いの量で流れ込んでくる。
【人間側への影響を確認】
【本来対象外】
【原因解析中】
(……人間に?)
(……あり得ない)
適応進化は、魔物のためのシステムだ。
人間には作用しない。
それが、この世界の前提。
なのに。
【魂属性:人間】
【肉体属性:魔物】
【両立状態を確認】
ヒトシの背中に、冷たいものが走る。
(……俺、か)
理解した瞬間、
すべてが繋がった。
ゴブリンとして生まれた肉体。
だが、その内側にあるのは――
間違いなく、人間の魂。
この世界のシステムは、
“種族”で処理する。
だが、ヒトシは違う。
彼は、
魔物の肉体で
人間の思考をし
人間の価値観で
魔物を導いている
その矛盾が、
ここまで積み重なった結果。
境界そのものが、誤認識された。
【影響拡大】
冒険者三人の視界に、
断片的な“情報”が流れ込む。
サラは、自分が剣を振る理由を、
初めて言語化できた。
(……私は、強さが欲しかったんじゃない)
(……選びたかった、だけだ)
アンは、盾の意味を理解する。
(……守るって)
(……命令じゃない)
(……自分で決めるものだ)
メリーは、魔法の本質に触れる。
(……術式って)
(……力を縛るための“約束”なんだ)
それはスキルでも、才能でもない。
価値観の再構築。
【人間側に限定的適応を確認】
【戦闘補正:なし】
【思考補正:微弱だが恒久】
ヒトシは、歯を食いしばる。
(……やりすぎだ)
(……これは、俺のせいだ)
だが、止められない。
《適応進化》は、最後にこう告げた。
【この現象は再現不能】
【条件:人の魂を持つ魔物】
【観測例:唯一】
唯一。
その言葉が、重くのしかかる。
サラが、ゆっくりと立ち上がる。
「……ヒトシ」
呼び方が、変わっていた。
命令を仰ぐ声ではない。
捕虜の声でもない。
同じ目線で話そうとする声。
「……今の」
「……あなたが、原因?」
ヒトシは、少し迷ってから答えた。
「……多分な」
ぶっきらぼうだが、
隠さない。
「……俺は」
「……普通の魔物じゃない」
それだけで、十分だった。
アンが、静かに言う。
「……納得した」
メリーも、頷く。
「……だから」
「……ここ、変なんだね」
陽気なオークが、頭を掻く。
「いやぁ……」
「難しい話は分からんが」
「ボスが人間っぽいのは、前からだな!」
場に、わずかな笑いが生まれる。
だが、その裏で。
世界のどこかで、
観測されてはいけない誤差が、確かに生まれていた。
ヒトシは、空を見上げる。
(……俺が、いる限り)
(……境界は、消え続ける)
それが、希望なのか。
それとも、災厄なのか。
今は、まだ分からない。
ただ一つ言えるのは――
この日を境に、
誰も“元の場所”には戻れなくなった。
人間も。
魔物も。
そして、
ヒトシ自身も。




