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第38話 縄を解いた、その瞬間に

 ヒトシは、しばらく三人を見下ろしていた。

 夜明け前の冷えた空気の中、

 地面に座らされた人間の女たちは、ほとんど口を開かなかった。

 逃げる気配はない。

 叫ぶ気力もない。

 ただ、待っている。

(……待たせすぎたな)

 ヒトシは、そう思った。

 この一晩は、

 尋問でも、拷問でもない。

 考えさせる時間だった。

 そしてそれは、

 自分自身にとっても同じだった。

 ヒトシは、一歩前に出る。

 ゴブリンたちが、ざわりと身構える。

 この距離で、

 この時間帯で、

 この沈黙。

 何かが起きると、本能で察している。

「……縄を」

 短い命令だった。

 周囲が凍りつく。

 サラが、わずかに顔を上げる。

 アンの肩が、びくりと震える。

 メリーは、理解が追いつかず瞬きをした。

「……外せ」

 その言葉が、意味するものを、

 誰よりもゴブリンたちが理解した。

 不満。

 困惑。

 反発。

 感情が、渦巻く。

 だが、誰も動かない。

 ヒトシが命じたからだ。

 陽気なオークが、珍しく真顔で言った。

「……ボス?」

「……それ、本気か?」

 ヒトシは、視線を逸らさない。

「……本気だ」

 それ以上の説明は、しなかった。

 だが。

 縄が外された、その瞬間。

 世界が、歪んだ。

【――《適応進化》が強制発動】

 警告も、段階表示もない。

 意識に、洪水のような情報が流れ込む。

【敵対存在に対する非強制的解放を検知】

【支配行動の放棄を確認】

【集団価値観の根幹変化を観測】

 ヒトシの膝が、がくりと落ちる。

「……っ!」

 痛みではない。

 理解が、一気に押し寄せる感覚。

 視界が変わる。

 ゴブリンたちが、

 「従う存在」ではなく、

 判断を共有する存在として認識される。

(……これは……)

 声にならない。

 適応進化は、続けた。

【統治適応:不可逆段階へ移行】

【恐怖支配効率:低下】

【信頼基盤形成率:急上昇】

 ゴブリンたちの反応が、目に見えて変わる。

 誰かが、呟いた。

「……逃げない、のか?」

「……人間、逃げないぞ?」

 確かに。

 三人は、立ち上がらなかった。

 逃げることも、暴れることもない。

 ただ、ヒトシを見ている。

 サラが、震える声で言った。

「……どうして?」

 ヒトシは、正直に答えた。

「……必要だからだ」

 その言葉は、

 優しさでも、脅しでもない。

 事実だった。

【群れ適応が連鎖反応】

 今度は、ゴブリン側だ。

 空気が、変わる。

 ざわつきが、収まる。

 不満は消えない。

 だが、暴発しない。

 考える時間が、生まれた。

【知性補正:上昇】

【衝動行動率:低下】

【集団意思決定能力:顕著に上昇】

 陽気なオークが、ゆっくり息を吐いた。

「……なんだこれ」

「……頭、スッキリしてる」

 ヒトシは、理解した。

(……これが)

(……“人を人として扱う”ってことか)

 善悪ではない。

 だが、

 支配とは違う方向に進んだ。

 それだけで、

 世界はここまで変わる。

 メリーが、恐る恐る口を開く。

「……私たち」

「……捕虜、じゃないの?」

 ヒトシは、少し考えた。

「……今は」

「……違う」

 アンが、拳を握る。

「……じゃあ」

「……私たちは、何?」

 ヒトシは、はっきり言った。

「……まだ、敵だ」

 その答えに、三人は息を呑む。

 だが、続く言葉が、決定的だった。

「……だが」

「……話せる敵だ」

 その瞬間。

 《適応進化》が、最後に告げる。

【新適応概念を確立】

【敵対/協力の二分化を解除】

【第三の関係性を定義】

 ヒトシは、深く息を吐いた。

(……もう、戻れないな)

 だが、後悔はなかった。

 縄を解いたのは、

 彼女たちのためじゃない。

 この群れが、次に進むためだ。

 そしてそれは、

 確かに正しい一歩だった。

 朝日が、森を照らし始める。

 ゴブリンと人間の境界は、

 この瞬間、

 静かに――しかし決定的に、揺らいだ。

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