第35話 決断は静かに下される
囲いの外は、落ち着かない空気に満ちていた。
朝になり、太陽が森に光を落とすにつれ、ゴブリンたちの動きが目に見えて増えていく。仕事をするふりをしながら、視線は自然と一つの場所に集まる。
捕虜の囲いだ。
昨日の夜までは、遠巻きに眺めるだけだった。
だが、朝になると違う。
日常が戻ると同時に、**「処理されていない問題」**が、はっきりと浮き彫りになる。
(……来るな)
ヒトシは、遠くからそれを見ていた。
囲いに近づこうとするゴブリン。
声を潜め、身振りで何かを訴える者。
期待と欲が、隠しきれずに滲んでいる。
(……そりゃ、そうだ)
ヒトシは、否定しなかった。
人間を捕らえた。
しかも、若い女を三人。
弱い存在を支配する――
それは、ゴブリンとして生きてきた彼らにとって、分かりやすい成功体験だ。
(……だからこそ)
(……ここで曖昧にしたら、終わる)
ヒトシは、深く息を吸った。
ヒトシが囲いの前に立つと、空気が一変した。
ゴブリンたちは、露骨に動きを止める。
視線が集まり、ざわめきが消える。
それだけで分かる。
(……俺は、もう)
(……「一匹のゴブリン」じゃない)
ヒトシは、囲いの中の三人を見た。
サラ。
アン。
メリー。
怯えている。
だが、ただの恐怖ではない。
判断を待っている目だ。
(……同じだな)
(……こいつらも)
(……俺が、何者かを見極めようとしてる)
ヒトシは、囲いの前で立ち止まり、ゴブリンたちの方を向いた。
「……聞け」
低い声。
それだけで、全員が耳を向ける。
「……こいつらは」
「……俺が決める」
短い言葉。
だが、意味は重い。
不満の気配が走る。
だが、声にはならない。
(……ここで折れるわけにはいかない)
ヒトシは、さらに続けた。
「……殺さない」
ざわり、と空気が揺れた。
「……触らせない」
今度は、はっきりとした動揺。
数匹のゴブリンが、思わず前に出かける。
だが、ヒトシは一歩も引かない。
「……理由を、言う」
それは、彼自身のための言葉だった。
「……俺たちは」
「……強くなった」
「……もう、奪われる側じゃない」
ゴブリンたちの耳が、ぴくりと動く。
「……だから」
「……同じことを、やる必要はない」
誰かが、小さく唸る。
理解できない、という反応。
ヒトシは、承知していた。
(……分かりやすい理由が、要る)
「……人間を殺せば」
「……次は、もっと来る」
「……人間を弄べば」
「……もっと、敵が増える」
ゴブリンたちのざわめきが、変わる。
欲ではなく、不安の音に。
「……今は」
「……戦う時じゃない」
「……選ぶ時だ」
ヒトシは、囲いの中を一度だけ見た。
メリーが、息を止めている。
サラは、じっとこちらを見ている。
アンは、表情を動かさない。
「……俺は」
ヒトシは、はっきりと言った。
「……ゴブリンとして、生きる」
「……だからこそ」
「……ゴブリンのやり方で、決める」
沈黙が落ちた。
ヒトシは、心の奥で、自分に問いかける。
(……人間だった頃の俺なら)
(……どう思った?)
きっと、正義だの、倫理だのと言った。
だが、今は違う。
(……これは、綺麗事じゃない)
(……生き残るための、選択だ)
ヒトシは、囲いに近づいた。
中に入らない。
手も伸ばさない。
距離を保ったまま、言う。
「……お前たちは」
「……すぐには、殺さない」
メリーが、息を吸い込む音が聞こえた。
「……だが」
「……帰すとも、決めてない」
アンの指が、わずかに動く。
「……情報を、もらう」
「……それが済んだら」
「……次を、考える」
サラが、ゆっくりと頷いた。
理解したのだ。
(……選択肢は、まだある)
だが、
それは同時に、いつでも奪われるということでもある。
ヒトシは、囲いから離れ、ゴブリンたちを見回した。
「……不満があるなら」
「……俺の前で、言え」
誰も、何も言わない。
その沈黙が、答えだった。
(……従っている)
(……でも、納得してるわけじゃない)
それでいい。
ヒトシは、心の中でそう結論づける。
(……全員が納得する決断なんて)
(……最初から、無理だ)
必要なのは、
統一された方針だけ。
ヒトシは、囲いを背にして歩き出した。
背中に、無数の視線を感じる。
期待。
不満。
恐怖。
そして、信頼。
(……重いな)
だが、立ち止まらない。
(……逃げないと決めたのは)
(……俺自身だ)
森の奥へと歩きながら、
ヒトシははっきりと理解していた。
これは、単なる捕虜の扱いではない。
群れの価値観を、決める瞬間だ。
そして――
この決断が、いずれ必ず、
もっと大きな何かを呼び寄せる。
それでも。
(……それでも、俺は)
(……こうする)
その覚悟だけは、揺らがなかった。




