第32話 届かない距離
最初の石が当たった瞬間、
戦いは「殺し合い」ではなく「奪い合い」に変わった。
サラは剣を構え直し、即座に後退を判断した。
それだけで、この剣士が優秀だと分かる。
(……逃げる判断が早い)
だが――
逃がさないための準備は、すでに終わっている。
ヒトシは、木陰で次の動きを見据えていた。
手の中には、乾燥させた小さな包み。
麻痺毒を含んだきのこ。
焙って粉にし、湿らせ、布に包んだものだ。
吸い込めば数十秒。
皮膚からでも数分。
(……効きは弱めだ)
(……だが、動きを止めるには十分)
ゴブリンたちに、事前に伝えてある。
殺すな。深追いするな。
その命令が、今、生きている。
サラは剣を振るい、間合いを切りながら後退していた。
投擲。
回避。
足運び。
無駄がない。
「……囲まれてるわね」
冷静に現状を把握し、声を落とす。
だが、足元を見た瞬間――
サラの判断が、ほんの一瞬遅れた。
白い粉。
地面に落ちていたそれを、踏んだ。
(……煙?)
違う。
舞い上がったのは、きのこの粉だ。
「……っ!?」
即座に呼吸を止め、距離を取る。
だが、吸い込んだ量はゼロではない。
(……軽い痺れ)
指先が、わずかに重くなる。
ヒトシは、その様子を見て確信する。
(……効き始めた)
ここで前に出ない。
サラが剣を振るうたび、
ゴブリンたちは一歩引く。
当たらない距離。
だが、逃げられない距離。
やがて――
剣が、ほんの一瞬遅れた。
その隙を、逃さない。
横合いから、
麻痺毒を染み込ませた縄が飛ぶ。
腕ではない。
腰と太腿。
「……っ!」
剣士の体勢が崩れる。
その瞬間、
後頭部に――鈍い衝撃。
石だ。
顔は外している。
サラは呻き声を上げ、膝をついた。
剣を落としたのは、その直後だった。
アンは、最後まで前に立っていた。
盾を構え、
仲間の退路を確保し続ける。
(……強い)
純粋な体力。
粘り。
だが、盾役ほど毒に弱い。
防御に集中するあまり、
細かい変化を見逃す。
アンの足元に、
転がる“きのこ”。
踏み潰された瞬間、
じわりと毒が皮膚から染み込む。
「……?」
最初は、違和感だけ。
だが数歩進んだところで、
膝が、笑った。
「……くっ」
踏ん張る。
だが、力が伝わらない。
盾を突き立て、体を支えようとするが――
腕が、重い。
その瞬間、
三方向から同時に縄が飛ぶ。
盾は防げない。
絡め取られ、
体勢を崩したところに、
ゴブリンが体重を乗せる。
叩かない。
蹴らない。
ただ、押さえつける。
アンは歯を食いしばり、
それでも最後まで抵抗した。
だが――
痺れは、確実に広がっていた。
メリーは、最初の一撃で意識が朦朧としていた。
だが、詠唱を諦めていない。
(……やらせるな)
ヒトシは、即座に判断する。
魔法は、許容できないリスクだ。
ゴブリンが、
きのこの粉を風上から放る。
薄く。
広く。
メリーは気づくのが遅れた。
詠唱途中で、
舌がもつれる。
「……っ、なに、これ……」
力が入らない。
杖を落とし、
膝から崩れる。
その背後から、
布で口を塞ぐ。
喉は圧迫しない。
息はできる。
だが――
声は出ない。
床に倒され、
毒が回るのを待つ。
メリーの目に浮かぶのは、
恐怖と、理解不能の色だった。
すべてが終わった時、
三人は生きていた。
顔に大きな傷はない。
致命傷もない。
ただ――
完全に動けない。
ヒトシは、少し離れた場所から、その光景を見ていた。
(……できたな)
成功だ。
だが、胸の奥に、
小さなざらつきが残る。
(……人間だったら)
(……俺は、どう思っただろうな)
若い女三人。
命を奪わず、
無力化し、
捕らえた。
それを、正しいと感じている自分。
ヒトシは、ゆっくりと息を吐いた。
(……俺は、もう)
(……ゴブリンなんだ)
それを、否定する気はなかった。




